吠瑠璃と凍傷


12月22日。天気予報によれば今年一番の寒さ、らしい。車窓に映る灰色が立ち込める街並みをただ眺めた。何かを考えるより先に後ろに流れ去る建物。
「伏黒君、この後予定って入っていますか?」
運転席に座った伊地知さんが、自然な体を装って、俺に問いかけた。伊地知さんは普通の人だ。むしろ普通より少々気弱とも言える。そんな人が切り出してくる事情には検討がつく。シートベルトをしながら「特には」と答える。
「そうですか……!それならちょうどよかった」
答える声は少し明るい。どうせ五条さんだろうという予想をはたき落とす。確かに、俺に要件がある人なんて限られる。まず、登校していない日に声をかけてくるような同級生はいない。
改めてバックミラーに映る伊地知さんの表情を伺う。細長く、小さなサイズのミラー越しに目が合うことはなかった。それくらいこっちに意識を回していない。口元にふっと自然な皺が寄る。……あの伊地知さんが五条さん関連でここまでやわらかな表情などするわけがない。伊地知さんにとって、厄介で面倒臭いが関わらねばならない五条さんにいい笑顔を見せろっていうのも難しい話だ。次に浮かぶ顔。空気を読まないで、恵ちゃんとかなんとかふざけたもので呼ぶあの人。脳裏で焼き付いたように点滅する。煩わしいと投げ捨てたい。吐き出してやりたい。だが、俺は淡く色づいた唇が微笑みを形作るさまを呆然と眺めている。
「用事がないなら駅の方までお連れしますね」
「はあ……それで、誰ですか?」
伊地知さんの眉が情けなく下がる。バックミラーのなかで伊地知さんは大人らしい表情をしながらひとつ咳払いをする。
「誰……というと?」
あまりにも下手クソなはぐらかしに苦笑が漏れた。まあ伊地知さんなら悪いようにはしないだろう。どうせその目的地とやらに行けばわかる。それもまあ別に悪くはない。
流れていく景色を眺めながら、到着を待った。


実際行ってみなければわからない。わずかに見えた背中に思い当たる節があった。あったというかしかないというか。
「伊地知さん……あれは」
例の女と目があう。高専の車は特に窓に加工はないから、当然だが視線は筒抜けなわけで。あの人がそれをわかっているのか、はまたまたわかっていないのか、俺に向かって能天気に笑った。透明な窓ガラスを飛び越えて、あの人の、よるさんの声が聞こえてきそうだった。
「伊地知さん、思ってたより早かったですね」
「私というよりは伏黒君が優秀だったので予定より早く終わったんですよ」
「なるほど。おつかれ恵ちゃん」
飄々としたいつもの表情のまま、ひらひらと手を振る。それで慰めになると本気で思っているのかは疑わしいが、真意がどうであれ、目の前の人はこういう人だ。
「なんの要件ですか?」
「誰だと思った?まあ誰でもいいけど、正解はわたしでした、ザーンネン」
ヘラヘラと笑うよるさんを冷ややかな目で眺めて「よるさんだと思ってましたよ」と答えた。車を降り、隣に並んだ勢いでよるさんの手の甲と俺の手の甲がこすれる。一瞬、生理的な瞬きよりも短い刹那のあと、俺はいつも通りの表情を繕って伊地知さんに御礼を言った。満足げな伊地知さんに色々言いたいことがないわけではないが、走り去る黒い自動車を見送る。
「あはは、じゃあいこっか」
日常のような、非日常のような、そんな感覚が身体全体を取り巻いている。プールに長く浸かった後、プールサイドに上がった瞬間のような世界観の区切れ。なんでもない、そんなうすっぺらい微笑みを浮かべたまま、気泡が音もなくはじけるようによるさんの手がひっこめられる。人を呼び出しておいて。しかもこんな方法で。
「どこにいくんですか」
「え〜……いわなきゃだめ?」
「なんも言わずについて来いって言われてばっかりなんですけど、今日」
「そうなの?」
久しぶりにこの人に会って俺は一体どんな表情をしているのか。それがわからない。嬉しいのか、苛立っているのか。
俺はこの人になんて言ってもらえればそれでも満足なのか。
「そうですよ。試験だとかなんだとかいって突然車に乗せられてんですよ」
「おつかれ」
ほら、結局こういうときに四文字くらいしか言わないような人だ。寒さに耐えるように指を握りこんだ。
「ね、恵ちゃん。結果は?」
「逆に聞きますけど落ちると思いますか」
「それもそうか。じゃあ春からは後輩ってわけだ。よろしくね」
空気も雰囲気も読まずひらひらと手を振るよるさんにため息が出た。
「春からっつっても、どうせ今と変わんないでしょアンタは」
「ええ……なんでそんなこと言うの」
制服のブレザーのポケットに手を入れた。今と変わらない。新学期が始まって、正式にこの人の後輩になったとして、よるさんはこうやって俺で遊んで、しれっといなくなって、また都合よく連絡してくる。今はそれがイレギュラー。イレギュラーじゃなくなったら、アンタは俺の何になってくれるんですか?
「アンタはそういう人ですよ」
よるさんは綺麗に微笑んで、首を傾げた。ポケットの中に入れた手をゆっくりと開く。
「じゃあ行き先を発表しまーす」
「初めから言ってください」
「えー、今日は冬至の日なので柚の入浴剤を買います」
「買い物くらいひとりで行ってくださいよ」
「いやいや、せっかくモール行くならついでにみんなの分の日用品も買ってこいってなってんの。そうすると4、5人分でしょ?だからちょっと人手ほしいな〜ってなるじゃない」
「……同意を求めないでもらえますか」
都合が悪かったのか黙ったままよるさんは俺のポケットに手を入れてくる。冷えた手が俺の緊張した掌を握った。無理矢理掌を広げて、よるさんの冷えた手が俺の手を掴んだ。
「逸れちゃうからね」
それはまるで言い訳のような言葉だった。見えない分、他人の手の形をまざまざと思い知る。関節、骨、指の長さ、爪。パーツ一つ一つで訴えかけてくる。他人に侵食されるのは好きじゃない。真下のアスファルトを睨んで、よるさんの目に映る自分から必死に目を逸らす。
「じゃあ普通にしてください」
何一つ、よくできた言い訳なんて思いつかなかった。
「だってさあ、恵ちゃんがポケットに手を入れちゃうんだもん」
「だっても何も、先によるさんが……」
「…………わたしが?」
「……よるさん、避けましたよね。最初にぶつかった時」
「そりゃびっくりすれば避けるよ、人間だもん」
侵食されるのが好きじゃない。勝手に人の懐に入ってくるとか、ポケットを使うとか、家に押しかけてくるとか、そんな類は遠慮願いたい。
「じゃあ、こうすればでいいでしょ」
よるさんの手を掴んだまま、ポケットから手を出す。外気はひんやりと切り刻むような空気があった。よるさんの歩幅に合わせて歩き始める。
「恵ちゃんのブレザーのポケットの中の方が温かったな」
「そういう他人のパーソナルスペース踏み荒らすのやめた方がいいですよ」
あはは!と隣でよるさんが笑う。それから、肩を震わせながら「恵ちゃんは特別だよ」とのたまう。
「真希とパンダもだけど」
「知ってますよ」
浮かれたクリスマスの飾りが駅の至るところに張り巡らされている。よるさんが浮かれた顔で指を刺した。
「あっ!あそこにあるサンタの飾りちょっと恵ちゃんっぽい」
「……どの辺がですか」
「トナカイ二匹と連れ立ってるじゃん。二匹のトナカイを左右に引き攣れるサンタクロース、玉犬を両脇に抱える恵ちゃん、ほら、似てる」
「……………マジで置いてきますよ」
くだらない話を隣でして、勝手に笑うこの人がうるさい。それでも無彩色よりはずっとマシかもしれない。そう思えるくらいよるさんに振り回されることに慣れてたらしい自分に笑えた。

2212.22