あのひのぼくよ、おぼえているか
その場で立ち尽くす俺の前でよるさんがほら、と手を差し出した。その手を掴むもうと手を伸ばして、血と砂利が滲んだ傷口に動けなくなった。
「……まず。よるさんの傷がまずいでしょ」
「大丈夫。頑丈だから、わたし」
左目から涙のように細く赤黒い血が滴った。
「いっておくけど、恵ちゃんひとりじゃずっと迷っておわりだよ」
「じゃあ時間が来るまで待ってた方がいいんですか」
「時間ねえ……まあいいや、そんな気になるならあの小屋まで行ってみ」
なんで俺が、という言葉はよるさんの「傷の手当くらいならできるんじゃない?」に押し潰された。
「行けばいいんでしょ」
よるさんの手を使わず自力で立ち上がり、制服に着いた土を払った。
「なんか今日の恵ちゃんかわいくない」
「それで結構ですよ」
草。木。よくわからない呪霊と植物が混ざったような物体。向こうに小屋。もう一度進路を確認しながら進む。草、木、おどろおどろしい異臭を放つ植物。草が腿のあたりに触れ、また大きな木の根を踏み越える。小屋にはまだつかない。草、木、それから……。
「あはは、おかえり〜いけなかったね」
よるさんの飄々とした顔に自然と溜息が出た。
「どこにもいけないならともかく、同じところに帰り着くってのはなかなかいい趣味してますね」
「こんな場所褒めるとか、恵ちゃんのセンスって終わってるんじゃない?」
「褒めてはいないし、全部アンタにいってんですよ」
ひとりでよるさんがあはは、と笑い飛ばす。何が面白いのかも説明してほしい。どうせしないさろうが。それからよるさんがおもむろにどこから取ってきたのかわからない袋を背負った。だいたい人ひとり入りそうな規格。まさか。
「さ、いこっか」
重量があるのか半分引きずるようにして俺の先を歩く。こんな嫌がらせじみた森の中で『それ』を引きずる。あまりにも無謀すぎる。いろいろな意味で。頭痛を堪えながら俺はよるさんの背中を引き留める。
「そんなの背負って歩けるんですか?一般の道ですら怪しいのに、こんな陰湿な」
振り返る。もったいぶったようによるさんが小首を傾げる。
「……普通は無理だね。でも、わたしは迷わないから問題ないかな。恵ちゃんはついてくれば平気だよ」
一呼吸置いてから「信じられない?」と問われる。
なんでも吸い上げる森なの、よるさんが呟く。
「呪いも養分もなんでも吸い上げるから、ここで意識を手放すのだけはお勧めしない」
「さっきのは。なんですか」
「……数時間前まで人間だったもの。恵ちゃんが殺さなくてももう死んでたよ」
「ここ呪いの影響ですか」
「まあ、あながち外れでもないかな。心配しなくても君を殺しにくることはないよ」
「さっき殺されかけましたけど」
「あれはノーカン」
こっちを見て笑う度に左目を跨る傷跡は痛々しかった。
壊れたラジオのように短い瞬間を繰り返す。記憶が何度も何度も、男とよるさんの一瞬をなぞる。それでも記憶はそこで途切れている。じくじくと口の中が痛み、殴られたという事実を認識する。地面に転がっていた金色のボタンを拾う。うずまきの印字がされた高専のボタン。つい先程よるさんの制服から取れたもの。
「あの」
背中を呼び止める。よるさんは俺の言葉を遮る。
「あ、脈取ってない。生き埋めにするところだったね。危ない危ない」
いつも通りの愛想笑いをしたのがわかった。自分の身を守るように笑う。現によるさんの視線は誰も見ていない。そこには俺はいないのに。ただ物言わぬ転がった身体があるだけ。やめてほしい。
やめてくれとは言えない。よるさんが動くたび留め具を失った黒い制服から白いシャツが見える。目を逸らす。何をされるかわかっていたのか、声に動揺はなかった。アンタ、そのまま殺されてたかもしれないのに。
「流石にこの出血で生きてたらそのへんのホラーよりずっと怖いですよ」
口の中にできた傷から血が滲んだ。暗闇の中、何も見えなくてとも目の前にいる人の腕をつかむことは造作ないことだった。よるさん。名前を呼ぶ。初めて出した音は俺には不釣り合いだった。それでも繰り返して彼女を呼ぶ。生物がすべて死に絶えたような静かな夜。かすかに風がふく。草同士が擦れる音が遠くからした。
「好きです、アンタが」
「…………すき?」
すき。よるさんが言葉を繰り返す。その行為は子供のようにも教師のようにもみえた。周りから生き物の気配はない。木々も風も全てだんまりを通す。だからよるさんの声は一言一句明瞭に聞こえた。
「良いこと教えてあげるね。いま、恵ちゃんの中に沸いたものは。残念だけど生存本能だよ。君は初めて見た死を目前にして、己の本能に従ってるだけ。生殖行為の相手なら他をあたって」
「誰もそんなこといってません。それ。俺の方見ていってくださいよ。言えるもんならですけど」
「……じゃあ、何回でも言ってあげる。君の中にわいた感情は恋愛なんかじゃない。わたしは、君のそういう相手にはなってあげないから」
強がりなのか、本心なのかわからなかった。本心なら、どうして腕を掴む右手は振り払われないのか。どれだけ見つめてもよるさんは心の内面まで見せてはくれない。触れそうになるたび、歩幅を大きくする。
暗闇になれた目は勝手によるさんの輪郭を浮かび上がらせる。本能じゃだめなのか。よっぽどそうやって問い詰めてやりたかった。これが好きじゃないならアンタがこの感情に答えを出せよ。
よるさんはなにもできない俺を見て、愛想笑いを張り付けた。見飽きた愛想笑い。感情をすべてぞ義落としたような人形じみた微笑みに、俺は毒づく。降伏宣言のように、右手は宙に垂れた。いつだってアンタはそうやってだんまりを貫くよな。
「アンタになんでわかるんだよ。第一、本能は本能であって、感情じゃないでしょ」
「それが恋だったら、わたしが困るもの」
「そんな身勝手な理由が」
「都合が悪いからって、人を殺すことのほうがよほど身勝手だよ。まあ確かにこいつはロクでもないやつだけれど……」
よるさんは勝手に話を切り上げ立ち上がる。慣れた表情で制服についた土を払う。まるで図ったように、暗闇に月光が差し込む。顔についた血。足元に転がった遺体。よるさんが少しだけ意外そうな表情を浮かべる。泥と血で汚れた掌が俺の頬に触れた。思っていたより、人間らしい体温だった。
「でもそんな見当違いのこといえるなんてね……思ってたより平気そうでびっくりしちゃった」
「さっきから、俺のことなんだと思ってんですか?」
「クソガキ。それ以外に何か?」
即答。たかだか一つしか年齢が変わらないくせに、よるさんは平然と言い切り、隣の穴にむけ、遺体を蹴った。月と同じ色の瞳が、一度瞬く。慣れた所作だった。何人こうやって処理したのだろうか。聞いたところで教えてはくれない。それでも一点わかることがあるとすれば、俺もすぐ彼女と同じところまで到達することだ。
目の前にいるのは紛れもない『呪術師』という生き物だった。
いつかこれはよるさんの言う通り生存本能だったと笑うのか?そんな日が本当にあるのか?
「わたしは君のお姉さんと違って、善人じゃない。生まれたときから一度だって善人になんてなれやしないの」
「そんなの」
「期待するだけ無駄だよ」
劇場のライトのように光はまっすぐ広がった。期待。どうして俺はアンタに期待しなきゃいけないんだ。聞けない問ばかりが俺の中に蓄積していく。粉雪のように、落下してその度に溶ければいいのに。月はいつも地球に同じ面を向けている。きっとよるさんはそれだ。よるさんは涙を見せないし、津美紀のようにわざわざ俺だけを選び心配なんてものはしないのかもしれない。誰かを慈しむではなく、きっと呪うことを選択する彼女を俺は。
「……アンタがなんていおうとも、俺はよるさんのことが好きですよ」
頑なにこっちをみないよるさんの背中に宣言する。安っぽい映画のような安いセリフだ。教科書のように、含みのあることなんて言えない。それでもよかった。アンタのいうようにこの感情は恋ではないのかもしれない。転がった死体へ視線を投げた。恋。殺人。身勝手。確かにそうだ。月あかりを浴びて、少しばかりドラマチックにしたところで無意味だ。はじめから俺たちはきっと正気じゃないんだろう。死んだ男も、俺も、アンタも。でも、これからも正気でなんかいられるわけがない。言っときますけど、俺だって、善人になんてなれませんよ。善人じゃない俺には、悪人を裁く権利なんかないでしょう。
「……恵ちゃんが、そんな馬鹿だって知らなかったな」
帰ろうか、という言葉はまだ出なかった。
気がついた時にはこのひと……よるさんばかり目で追っていた。それに理由なんて、意味なんてものも分からなかった。本能反射だとかそんな推論でさえもう煩わしい。そう思う反面いつだって俺はこの人の声を探している。
「恵ちゃん」俺を呼ぶ声は幸せそうなくせに、笑顔はいつだって偽物だった。偽物は偽物なりに美しいことだってある。でも納得はいかない。綺麗で完璧な愛想笑いを粉々にしてやりたかった。それだけだったのに、どうしてあんな夢を見なきゃいけない。
津美紀が囁く。よるさんとは全く違う表情で微笑む。好きな人の幸せだけを考えていた方がきっとずっとしあわせでしょう。津美紀の善人が染み付いた指先を思う。姉貴は狂ったように微笑んだまま動かない。よるさんみたいに。
「恵ちゃんは勘違いしているの。だって、さいわいなんてそんなの願える立場だったことないじゃない」
嘘でも偽善であっても構わない。血と泥で汚れた手でよるさんを抱きしめる。キスも何もかも。わからないままでいるのだろうとあきらめていた。すべて。
「よるさんにわかってもらうまでずっと言い続けますから」
「わたしは、君となんの約束もしたくないよ」
よるさんが呟く。俺の肩口に頭を寄せて、幼い子供に言い聞かすように繰り返す。
「果たせない約束は身を滅ぼすからさ、もう、いいの。わたしはどうせ、君のところからいなくなる、いつか全部忘れるでしょう」
触れたよるさんの手は冷えていた。僅かに震える指は一体どちらの痙攣だったのか。理解するより先に、きっと夜が明ける。
「馬鹿いわないでください。俺は本気ですよ、よるさんの幸せだって探すから。好きです、誰のところにも行って欲しくないぐらい。……だから、勝手に呪われておいてください。約束じゃなくて呪いの方が俺たちらしいでしょ」
「わたし、後悔する恵ちゃんも間違える恵ちゃんだって、みたくない」
全てからよるさんを隠すように抱きしめる。
「俺たちが正しかったことなんて、生まれてこの方ありました?」
よるさんの手が背中に回る。すきだって返事はない。それでも今日はそれで十分だった。よるさんが鼻をすする音がした。何も言わなかった。生ぬるい水滴が繋がった手に落ちたような気がした。俺は目を閉じた。
今日もよるさんの夢を見る。
「よるさん、約束ですから」
「……呪いなんじゃなかったの?」
「どっちでも同じです。呪術師がやる約束なんか呪いと同じでしょ。だから、よるさんがどこへ行っても必ず見つけます」
「恵ちゃん、それじゃあダメだよ。小学生だってもっとマシな、約束するよ」
自覚はある、俺だって昔の方がうまく約束できた。純粋に津美紀のために全てを犠牲にする覚悟があった。無知ゆえの純情だって言うかもしれない。事実だ。
「じゃあ、例えばどんな約束できるんですか」
「…………そうね。弟の平穏のために、人生全部あげるとか?」
「子供のと変わりませんよ。俺には献身が美しいとする価値観は無理です。俺は俺のために約束するんですよ。よるさんがどこにいても、たとえ何年かかっても見つけます」
夜が開けなければいい。「ねえ恵ちゃん」よるさんは泣いていることなんか微塵も伺わせない声で俺を呼ぶ。隠せてるわけないのに。
「わたし、恵ちゃんのこと……待っててもいい?」
「どこでも迎えに行きますよ」
「あはは……絶対にわたしのこと見つけてね」
よるさんが俺の小指を取ってまじないを歌う。
____ゆびきりげんまんうそついたら、針千本のーます。
ここから海は遠いのに、海の匂いがする。春の灰色の海の気配がした。見たことのない海を思って夜が更ける。
22.12.31