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目黒川の桜はちょうど満開だった。橋の欄干に寄りかかって、澱んでいるのか透き通っているのか判断に困る川面を眺める。桜の花びらがはらはらと川面に散る様は確かに綺麗ではあった。
「桜が見たいなら見たいって正直に話してくださいよ」
「びっくりして欲しくて」
「よるさんが約束を覚えてた時点でサプライズでしょ」
「ひどいなあ、そんなに信用ないのはおかしくない?今はフラットなはずでしょう、親交だって1年ちょっとだけなんだからこれからじゃん。いろいろ判断とかさあ」
白々しい。この人の中の認識がどうなっているのかは理解に苦しむ。どんな表情で入ればいいのかわからなくて、さっき落ちた花びらの行方を追いかけながらいうべき言葉を探した。
「桜こうしてみると悪いもんじゃないですね」
「あはは、でしょう。恵ちゃんと見たかったの」
素直な言葉に思わず顔を上げた。よるさんは俺の隣で、同じように川面を眺めている。桜の行方を見ているのか、別な何かが見えているのかはわからない。それでも、よるさんの横顔から目が離せなかった。
「よるさん」
「ん?」
言葉をひとつ飲み込んで、当たり障りのない言葉を用意した。
「花好きなんですか?」
「そうかも。でも桜って別格じゃない?日本人はいつの時代も桜に狂ってるじゃない」
「言い方もっとどうにかならなかったんですか」
「なんだっけ、ほら、大きな桜の木の下に〜ってやつ」
よるさんが口ずさむのは、大きな栗の木の下でのメロディだった。真顔で間違った童謡を口ずさむよるさんは、まあ、ある意味でいつも通りだ。
「まさかとは思うんですけど、桜の木の下には死体が埋まってる、ってやつですか?」
「そう、それだ!」
「あれにそんなリズムなんてないですよ。普通に考えて童謡でそんな物騒な歌詞が許されるわけないでしょ」
「え〜?あかいめだまのさそり〜とかもあるじゃん」
「それはまた別なんじゃないですか……」
「そうなの?」
本気なのか、わざと素っ惚けているのか。でもひとつだけ確かだった。どっちだってよかった。よるさんが俺と桜を見たいといったことだけが真実であれば、もう他に何も要らなかった。
「じゃ、ぼちぼち帰りますか」
よるさんがまた手を差し出した。今度は普通に。逡巡。それも何もかもを見越してよるさんが俺の手を握った。
「あ、見て恵ちゃん。すごいよ、桜の木の枝売ってる。自分でも育てられるもんなんだね」
「……よるさんにはいいんじゃないですか」
「本気で言ってる?」
「あんな簡素な部屋で生活してたらいつか精神病みますよ」
この前よるさんを送る時に見たあまりに無味乾燥とした部屋を思い返す。
「春以外桜って何があんの……?」
「知りませんけど」
「あれ、提案する割に無策すぎないかい」
「買ったら考えますよ」
よるさんが俺の顔を覗き込む。俺は今どんな表情をしているのか何もわからない。よるさんの視線から逃れようと、反対方向を向こうとして、失敗した。
「そんな顔されたら買わないわけにはいかないじゃん」
よるさんが微笑む。

ねえ、次こそは幸せな春になるといいね。
意味深にあの人はそう告げた。

23.01.31