夕べには花だったのに
わたしは何度も繰り返す。綺麗に積み上げて、それから壊す。わたしが死ぬまで切れ目のない音楽を続ける。その中で目が合う愛しい人にわたしは笑いかける。君の目に映るわたしは愛想笑いを張りつけていた。不愉快そうに君の眉が歪んで、わたしの方へ手が伸ばされた。
恵ちゃん、わたし。君にひとつ謝らなきゃいけないことがあるの。真夏の太陽の裏、影が伸びる。真っ黒だった。君の髪色みたいだね。
ごめんね。
音にならない謝罪を告げる。眠っている君にしか言えない懺悔。できる限り光を遮った寮の一室。それでも完全な闇にはなってくれない。深夜の街灯が外側から薄らぼんやりと迫ってくる。君の耳元でも囁けない。だから、心の中でだけ懺悔する。
全部忘れてね、なんてのは全部、ぜーんぶ嘘だ。もちろん恵ちゃんがわたしを忘れたっていい。笑って許してあげるけど、でも、忘れた事実までは持っていってあげない。
酷い女だったって覚えていてね。わたしのことを好きだったことは忘れないで。
隣で寝落ちている恵ちゃんの髪を撫でる。硬くて頑固な髪質に思わず笑みが漏れた。口を押さえて声を殺す。わたしとも真希とも弟とも違う髪質は決して触り心地なんてよくはないけれど、それだけで満足だった。
恵ちゃんの横顔はなにも変わらない。眠いは深いのかそれとも寝たふりなのか、寝息は穏やかなままだ。いつも通り眉間には皺が寄っている。どんな夢を見ているんだろう。
好きな人の寝顔を見ながらどんな夢を見ているのか空想するのは、多分、世界でいちばん幸せなことだ。
不鮮明な、それでも幸せな夢の方が指から剥がれ落ちないし、魚の小骨のように無害で、とても煩わしい。わたしは恵ちゃんにとってそういうものでありたい。津美紀さんになんてなれない。君は始めから求めてないんだろうけど。髪を撫でた手をそのまま額まで滑らせる。まともなスキンケアなんかしてないくせに、すべすべとした白い肌が憎い。恨めしくて。鼻の先を少しだけつまむ。恵ちゃんの左手がわたしの指を剥がす。
「…………なに、人で遊んでるんですか」
掠れた声が、威嚇する様にわたしを見た。ゆっくりと青い寝ぼけ眼が開く。瞬きするたび長いまつ毛の淡いグレーの影が小刻みに震える。
「眠れないの」
「今何時だと思ってんですか……つうか自分の部屋戻ってくれます?どうせロクなことしないんだし」
「わたしにもたれかかって寝たのは恵ちゃんじゃん」
わたしの言葉に恵ちゃんはため息をついて、ベットから起き上がる。それから握ったままのわたしの右手をベットの方へ引っ張った。導かれるまま背中をベットに投げ出す。新しい刺激にベットのスプリングが悲鳴のような軋みを立てて、ぐらぐら上下運動をした。
「治した方がいいですよ、その不眠症」
「あはは」
「何が面白いんですか、よるさんのそういうところがわからないんですけど」
「いやあ、なんか、かわいいなあと思って」
は?恵ちゃんの目が不愉快そうに細まって、わたしに続く言葉を吐かせ様とする。必要異常に鋭い「どこがですか」がわたしを追いかける。
「とても感情に素直でかわいいねってこと」
「俺が怒る前に言ったでしょ」
「あ、怒ってる自覚はあったんだ。なんかさあ、恵ちゃんが素直だと面白いし可愛いし、最強じゃない?」
諦めたように恵ちゃんがわたしから視線を逸らす。バカだなあ、と思った。ここで一番バカなのはわたしのくせに。
恵ちゃんに掴まれていない左手で恵ちゃんのこめかみから首筋をなぞった。輪郭。この世にある君の像をなぞる。柔らかいシーツにできた皺がふ、と緩む。
恵ちゃん、ねえ、好きだよ。好きなんて言葉じゃ軽すぎるくらいに好き。わたしの人生なんて死んだら何も残らないくらいがよかった。一番大きな目的は既に完成していて、あとは死んで消化するだけ。食事みたいなもの。悲しみとか哀れみとか尊敬とかそういうものはなくて、ただ死という事実がそこにあればいい。そう思っていた。でも、君にあってしまったから。そう、馬鹿なことに君を、恵ちゃんを好きになってしまって、わたしは繰り返さなきゃいけなくなった。恨んでないよ。幸せだった。でも、感傷的な夢を繰り返し見るような、そんな辛さがいつも日常に蔓延っている。
「よるさん」
恵ちゃんがわたしを呼ぶ。好きだなあと思う。ただの記号なら弟が呼ぶ姐さんが一番好きだったはずなのに、君が名前を呼ぶたびにどうにかして君の声を凍らせたくてたまらない。
「不眠治してあげましょうか」
「何してくれるの?」
「まずは体温あげましょう。よるさんはそこで大人しくしててください」
恵ちゃんは自分が使っていた布団をわたしに押し付ける。外で吹く風の音と静寂と混ざり合う。微かな冷風とほのかな温もり。自分のものではない体温は居心地が悪かったけれど、恵ちゃんのものだと思うとそこまで気にならなかった。
恵ちゃんが冷蔵庫の前で屈む。何をしてくれるのかわからないから、その背中を眺める。
「恵ちゃんは何してくれるわけ?今日は隣に悠仁いるからあんまり騒ぐとかわいそうだよね」
「よるさんは黙っててください。そんなこと言いますけど、今までそこまで我慢したこととかないでしょ」
「つまんないなあ〜、どれだけ言っても愛想が身に付きそうもないのすごいよ」
まあそこが可愛いんだけど、と一言付け加えてみる。背中だけでため息をついたのがわかった。呆れて、困って、面倒だって、あらゆる感情が見える。それでも恵ちゃんはわたしを突き放さない。本当に女の趣味が最悪だ。好きだよ、の代わりにバカだなあ、と思った。
「……純粋に体力有り余ってるんですか?」
恵ちゃんの呆れた声を「そうかも」と笑い飛ばせば、恵ちゃんは「幼児かよ」と本音を漏らす。恵ちゃんが冷蔵庫の扉を少しだけ乱暴に閉める。会話とエアコンの稼働音以外音が一瞬だけ満ちた。
換気扇のスイッチが押されて、コンロの上に鍋が置かれた。カチカチと少し遅めのテンポでコンロの火がつく。
「何作ってくれんの?恵ちゃんてあまり料理得意じゃないよね」
「別に、全くできないってわけじゃないですけど」
「呪術師やってるとなんやかんやで生活能力身につくし、それでいいんじゃない?」
「よるさんだけにはそういう偉そうなこと言われたくありません」
「えー、酷い。なんでそんな酷いこと言うの」
恵ちゃんがこちらを振り返らないまま、ぼそりと吐き出す。鍋の柄から手を離した。
「部屋汚くてどうしようもないからって俺の部屋に上がり込んでる人うえに、眠れないとかなんとか言って後輩に絡んでくる先輩が何言ったって説得力があると思います?」
「酷い先輩だねえ、じゃあそんな先輩やめなよ」
「……やめられたらこうなってませんが」
「恵ちゃんさあ、わたしのこと好きなの?」
恵ちゃんは都合良く黙る。黙って、自分の目の前の鍋に集中しています、みたいなポーズを取る。ねえ、やめなよ。早く終わらせちゃえばいいのに。拒絶されたら笑って許してあげるくらいの、先輩みたいなことさせてよ。
「アンタ、俺が好きだとか愛してるとかそういう言葉を言っても応えてはくれないですよね」
「そんなことないよ。ありがとうって返してあげる」
「そっちの回答する方じゃなくて、真面目に対応してくれないですよねってことですよ」
「それは……まあそうだね」
否定はしない。付き合って何になるの?と聞きそうになって、それは押し殺した。何にもならない。そんなことは恵ちゃんだってわかっている。添い寝もキスもセックスだってなんだって、行為以上の意味はない。わたし達はまだ学生で、別に何か意味ある特別なことができるわけじゃない。
恵ちゃんが振り返る。マグカップを二つ並べて、湯気ののぼる鍋から牛乳を注ぐ。眠れない夜にホットミルク。発想がどこか懐かしかった。
「古典的。なんか一気に冬っぽくなるね」
「やかましいんですよ」
もうすぐ秋だよねー、と一人で壁打ちのように会話をすると恵ちゃんは不機嫌そうに眉根に皺を寄せた。読もうと思えば読める空気だったけれど、気にせず、そういえば、と今日の話を話題にした。
「……そういえば、今日チューリップの球根貰ったんだよねえ。そういうことであげる」
「いりません。もう夏って話をしたところから、なんで春に話題を戻すんですか?」
「チューリップって春の季語なの?」
「いや……知りませんけど」
「チューリップって言っても球根だよ。わかる?小学校の頃育てたことあるんじゃないかな、まあそれで、任務先の住職の奥さんが、園芸が趣味だっていうから」
「多分わかってないから言いますけど、それは全く説明になってませんよ」
青い目がそのまま同じなぜ、と繰り返す。わたしは笑って答えてあげた。世界には知らない方がいいことがあるし、秘密にしておいた方がうまくいくものだってある。口にしたら終わってしまう言葉だって。ね、そうでしょう?
「願掛けだって言ってたけど、どうだろうね?」
「よるさんの話っていつもどこまでが本当のことなんですか」
恵ちゃんが呆れたように、わたしに問いかける。質問の意図を探す。恵ちゃんはごくごく自然と尋ねただけらしい。
「嘘って、え、そんな……アレだった?わたし」
「アレの指すものがわからないですけど、よるさんていろいろ隠してるじゃないですか。家のことも自分のことも」
「いや、隠してるっていうか、見せるほどのことがないだけじゃん。せめて秘匿性が高いと言ってほしい」
「まんま同じことですよ。よるさんは寮の部屋だって入れるどころか見せてくれないですよね」
「……恵ちゃんさ、何に怒っているの?」
「怒ってはいません」
即答する。逆に怪しく感じた。恵ちゃんは自分でも限界があると思ったのか、手元に視線を落とす。影遊びのように手をうろうろと彷徨わせる。
「怒っては、いませんけど……虎杖とか釘崎から聞くような先輩って、俺はあまり見た記憶がないんで」
「あはは、なにそれ。そりゃ色々あるよ、わたし達だってなんやかんや言っていろいろあるでしょ?」
恵ちゃんがそうですね、とわかっていない人の相槌を返してくる。
「嫉妬したの?」
「……………………有り体に言えば」
「あんまりかわいいこと言わないで欲しいなあ」
かわいいことを言うたびに、君の生き方を見せられるたびに、わたしは幸せで同時に苦しくなる。恵ちゃん、わたし。君にひとつ謝らなきゃいけないことがあるの。
部屋は影に覆われているから黒だ。闇になり切れないけれど、光ではないからきっと、正しい黒だった。世界で一番かわいくて、それでいて愚かな後輩から、わたしは奪うことしかできない。君がわたしの隣で笑ってくれても、君がわたしから何かを得ても、わたしはそれを壊すことでしか生きられない。
本当に、本当に、女の趣味が悪いよ。
マグカップの輪っかに指をかけて、表面に息を吹きかける。恵ちゃんはわたしをじっとみていて、どうしたの?と聞いても別にとだけ返した。
「何、言い淀むなんてさ、恵ちゃんらしくないんじゃない?」
ため息。相手にされなくなったことがわかって、わたしは少しだけ恵ちゃんを正面から見た。相手にされないから、なんだって言える。恵ちゃんはわたしがさも嘘しか言わないように言うけれど、そんなことはない。二つ並んだマグカップの作る影を眺めながら、繰り返した。全部嘘なんかじゃないよ。色違いの白と黒のマグカップは少しだけ重量がある。ずるずると机を引きずった。
「……よるさんは俺らしさの何を知っているんですか」
「いろいろ知ってるよ。真面目すぎて厨二病拗らせて地元一体を制覇しちゃうところとか、才能あるくせに持て余してすーぐ命賭けたくなっちゃうところとか、お姉さんのことを勝手に自分の責任にカウントする傲慢さとか、女の趣味が最悪なこととか」
羅列する。恵ちゃんの顔が歪む。何度も何ども嫌そうな顔をするくせに追い出さない。甘いなあと思う。本当に、だからわたしみたいなのに漬け込まれるって多分わかっていない。
「女の趣味といえばさあ、この前東堂に迫られたとき揺るがない人間性のある人がタイプって言ったらしいじゃん」
「それが何か」
うんざりした表情が一周回って、無表情になる。見てて面白いな、と思ったけれど、これ以上揶揄ったら多分朝まで口を聞いくれないので、「真希から聞いたよ」というにとどめた。
「揺るぎない人間性ってさあ、わたしと正反対じゃん」
「そうでもないと思いますけど」
馬鹿な子ほどかわいいって言うけれど、やっぱり後輩も馬鹿なほどかわいいのだろうか。恵ちゃんがわたしをまっすぐ見る。
「よるさんだって一貫した人間性持ってますよね」
透き通るような目だ。影の中で見る恵ちゃんの目は深い青に見える。けれど、僅かに光の入る角度を変えると翡翠のような鮮やかな緑になる。天然石めいた視線に、わたしはあは、と乾いた声を上げた。溺れた人の息継ぎみたいに下手糞。気づかないで、わからないで。そのまま全部忘れて。
「……じゃあわたしがいなくなったら、真希とか野薔薇のことを好きになるね」
「は?」
「つまり、そういうことでしょ」
「全然意味がわからないんですけど。っていうか、あー」
恵ちゃんが言葉を喉で詰まらせる。焦ったそうにわたしを睨んで、テーブルに手を押し付けた。俯く。
「よるさんだって俺のこと好きなんだから細かいことはどうでもいいじゃないですか、っていうか第一そんな東堂に聞かれたことでネチネチ言われる筋合いとかは……」
唐突な饒舌にわたしは笑いが隠せない。ねえほんと、そういうところだよ。そういうところがやっぱりわたしには身に余る人だと思う。
黙ってしまう恵ちゃんに近づく。逃げ場なんて作ってあげなかった。
「ねえ、恵ちゃん」
俯いている恵ちゃんの顔を手で包む。触れているところだけが熱っぽい。
「今どんな顔してるか教えてよ」
「嫌です」
「えー、こんなに耳熱くしちゃってさあ、本当にそういうところが……そういうところだよ、もう」
堪え切れなくて、口からかわいいと出た。こわばっていた恵ちゃんの身体が脱力する。ゆっくりと顔を上げてくれた。暗くても顔が赤いことはわかる。
「あはは、顔真っ赤だね」
「……よるさんも大概男の趣味が最悪ですよ」
「そうかなあ、わたし結構趣味いいと思うけど。そもそもさ、呪術師なんて男女問わず最悪なんだから、誰を選んでも最悪ではあるよ」
視線は逸らされない。逸らせばいいのに。わたしの顔も少しだけ熱を発した。気づかれないくらいの上昇。
「最悪にも限度ってものがありますよ」
「あはは!悟じゃあるまいし」
恵ちゃんがわたしの手を覆いかくす。冷たい手だ。わたしも恵ちゃんも体温が低いから、触れ合うことに生産性がない。それでも恵ちゃんはわたしを離さないし、わたしもしばらくは振り払わないでおいてあげたい。
「別れなきゃいけない宿命論なんて馬鹿馬鹿しいでしょ」
そうやって吐き捨てる恵ちゃんが好きだよ。告げる代わりに、瞼を閉じて恵ちゃんの脈拍を追いかけた。同じスピードで心臓の寿命をすり減らす。
終わらせるのはわたしがいつも先だ。だから、忘れない。誓って、わたしは今日を忘れない。終わらせる代わりに忘れない、それが義務でしょう。
宿命論なんて似合わないって君は言うかもしれないけれど。
22.06.14 作成 / 22.12.05 公開