有刺鉄線の赤い糸

人生15年生きてきてわかったことがある。たった15年だと鼻で笑われても、ただの15年と同じにするなと思っている。誰にいう気もないが。それなりに嫌なこともあったし悪くないこともあった。他人のことなんて対して関心はない。勝手に死んで勝手に生きればいい。
俺は俺が助けたいと思う人だけでも救えればそれでよかった。人間なんて、善人とそれ以外の悪人で問題ない。
風に乗って花の香りがやってくる。何の花かはわからない。でも妙に夢に出てくるあの人と似ていると思う朝が、まれにある。
なにもわからない夢の中でごめんと謝るあの人は、ごめんなんていう割に俺に許しなんて求めていなかった。むしろ、俺を許すとでも言わんばかりの手つきだ。許されたいなんて言ってないのに。見当違いのおせっかい。ごめん、の声を思い出せないくせに、どうせすぐ忘れてしまうのに、あの夢を見るのが決して不快じゃない自分がいた。

索敵を兼ねて玉犬を先に行かせた。土を走っていく毛並みを視線で追う。問題は見当たらなかったが、意識しなくてもつい早足になった。「恵ちゃん」後ろから先輩の声がする。先輩の何がそんなに気に食わないのか。子ども扱いされていると感じるからか。それとも。
 「恵ちゃん」
 何度も呼ばれなくたって、それが自分を指しているということはわかっている。釈然としない呼び名を受け入れ振り返ることは簡単だった。でも、のどに刺さった魚の骨のように違和感が残っている。身体に害はない。このひとのこの呼び方に悪意はない。でも、本当に俺を呼んでいるのか。恵ちゃんと呼ぶあの人の色素の薄い目に映る『誰か』のことを考えている。
クソ忙しいスケジュールなのに厄介な先輩の対応もあるとなるといつもの数倍疲労とストレスが貯まる。これが乙骨先輩だったらどれだけよかったか。無意味な仮定をするぐらいには疲れていた。
どうしてこんな人の同行を命じたのか、と五条先生を恨んだ。あの人のことだから一番初めに面白そうじゃん、と言ってきそうなところが最高に腹が立つ。
「恵ちゃんってば、ひとりで先に突っ走りすぎじゃない?早死にするよ」
「……長く生きる理由もないんで」
「そういう舐めたセリフは体術でわたし越えてからいいなよ。あ、もう来た呪霊」
次から次へとよくもまあ言葉が出るものだかなと思いながら、印を
「よくしゃべりますよね、先輩」
そう?問うた彼女は下手糞な愛想笑いを張り付けている。そんなにぎこちなく笑うくらいなら笑わない方がいいですよ。アドバイスなんてする仲じゃない。だから、思考のなかに破棄した。多分、このひとは普通に笑った方がいい、なんて妄想も一緒に。
「最近話題の場所とあって呪いの数が多いね。これはわたしひとりじゃだめだったな、ありがとう」
「……別に、お礼は五条先生に言ってください。俺はいわれた通りに来ただけです」
「うっわ、びっくりするぐらい愛想悪いね。少しは取り繕うことも覚えなよ。ここで生きるならね」
「さっきからずっと先輩風吹かせてるところ悪いんですけど、俺は、別にこの業界でのし上がっていく算段とかないですよ。どうせ早死にする職業でしょ、呪術師なんて」
確かに、今日いますぐに死ぬのは困る。津美紀のことだってあるし、何も為せていない。それは本望ではない。でも、それならそうだと受け止めることは難しくなかった。今にも振り出しそうで降らない今日の天気のような、白黒つかない曖昧な空間に立っている。
「知ってる。知ってるけど、わたしは君に長く生きてほしいから」
「他人のために生きるんですか」
「わたしがそんな善人に見えるんだ、恵ちゃんには」
先輩は楽しそうに俺をみる。どうやら揶揄われているらしい。「そんなわけないでしょ」捨て台詞じみた言葉を吐いて目的の蔵に入る。空気の流れにそって埃が舞う。梅雨が近いからかそれともそもそもの環境のせいか、蔵の中は湿度が高い。
「じゃ、原因の呪い祓って、触媒になってそうな呪物を回収しよう」
「……まず窓開けましょう、埃がすごいしあまりにも暗い」
暗闇の中で、異形と視線が合う。俺と呪いの間に先輩が割り込んでくる。ほんの一瞬。俺が印を結び終える直前の、一秒。
「大丈夫?」
先輩の腕が俺のすぐ横に落ちている。呪霊は灰になっていた。痛いとも苦しいとも言わず、なんでもように薄い微笑みを浮かべた先輩が俺の安否を確認する。意味がわからない。
「それはこっちのセリフですけど……」
「よくあることだから心配しなくて平気だよ」
心配、という言葉でまとめるにはあまりに目の前で起こっていることは重大ではないだろうか。先輩は自分の腕の断面を見て、「うわ、グロテスク」とだけ感想を漏らして、骨の断面を指で突く。趣味が悪い。顔が歪むのがわかった。

軽薄。第一印象から特に逸脱しないひとである意味安心した。
「もう少し理想を見せてくれてもよかったですよね」
「ええ…ひどくない?」
「逆に聞きますけど、目の前で腕がぶっ飛ぶ先輩なんて誰がいると思うんですか?」
「いや現にわたしの腕、吹っ飛んだじゃない。現実現実」
「同じ言葉二回繰り返すの馬鹿っぽいからやめたほうがいいですよ」
医務室。先輩は顔色ひとつ変えず家入さんの治療を受けている。腕落としておいて平然としているのはちょっと納得がいかない。
「君たちちょっとうるさい」
「いつもこうなんですか?」
先輩は分かりやすく聞こえないふりをして、「硝子さーん」と家入さんを呼ぶ。向こうから薬を取り出してきた家入さんが慣れた手付きで先輩の腕をつなぎ合わせる。麻酔をしている様子はない。慣れているとかそういう次元での話じゃないだろ、これ。
「いつもはこうじゃないけど、今の二年じゃダントツでよるが来るね」
「どうして硝子サンは恵ちゃんと会話するんですか……」
「毎回縫合して抜糸するの面倒くさいし、これから任務は全部伏黒に面倒見てもらえば?」
「面倒って……。一応今回の任務だってわたしひとりじゃまずそうだからってついてきてもらったし……後輩にそういう姿晒すのはちょっと……抵抗があるというか……」
家入さんは先輩の言葉に、「あっそ」と愛想なく返す。包帯を巻き終えて、立ち上がった先輩に向き直る。
「そういうならもっとちゃんとしてくれます?ほら、乙骨先輩みたいにああいう常識を」
「いや、憂太を常識人の枠に入れる人の方が世間知らずじゃない?」
「……わかりました、俺は先輩の相手はしないんで。じゃ」
五条先生とは違う。圧倒的話が通じないわけではない。それでも噛み合わない会話が煩わしくて、俺は先輩に背中を向けた。わざわざ俺を庇って作った傷から目を逸らす。



今日は一日中天気が良かった。だから今まで貯めていた洗濯物を一気にどうにかしてしまおうと思っていた。洗剤のボトルを手に取る。キャップを外して、青い液体を規定量を図る。共同の洗濯機ではあるが、ちょうど二、三年はで払っているから気兼ねなく使えるのは有難い。普段ストレスを貯める分こういうところで帳消しにしていきたい。いや、一番はそういストレスの原因になるような人間が俺の周囲から消えることか。ちょうどぴったり終わった自分の洗剤のボトルを眺める。使いきれるのが一番気分がいい。

「あ、恵ちゃん」
「腕まだ治ってないんですね」
先輩は気にしていないかのように「そうだねえ」と返す。腕をつるしたままへらへら笑う様子に思わず表情が険しくなる。関わりたくはない、ないが、この傷に俺の影響があるのは事実なわけで。相手はしないと言い放っただけに気まずい。視線を合わせないように適当に会話を流して、リネン室から出たかった。
「……こっちに何か用事ですか」
「今のうちに洗濯しようと思ったんだけど、ちょうど洗剤が切れちゃって」
「そうですか。大変ですね」
「感情ない返答をどうも。あ、恵ちゃんの使ってる洗剤わたしと同じのじゃん」
同じ洗剤を使っていることにわずかに衝撃を受ける。いくらでもあるのに、なんでよりによってこのひとと被るんだろう。苦手意識があるかないかと問われれば間違いなくあると答える。いまのところ尊敬するべきところが一つも見えない。パンダ先輩ですらあると言うのに。
「それってまだまだ残ってる?」
「使い切りましたけど、近所にドラックストアあるんだから行ってください」
「あははは、この腕で行けって言うの?酷いな〜まあいいや、今日はコインランドリーで」
罪悪感が刺激される。五条先生は俺に対して神経が図太いとかいうこともあるが、俺にだって少しくらい罪悪感はある。まあ今回は苦手意識のある先輩に貸しをつけたままの状態を引きずりたくないというのもあるが。
あれだって、そこまでしてかばう物じゃなかったはずだ。どう見たって3級以下の呪い。あれくらい玉犬で祓えた。確かにかすり傷は負うかもしれないが、その程度だ。そういう自己犠牲的な善意には無性にイラついた。
寝たきりの津美紀が脳裏に焼き付いている。笑っても、どれだけ穏やかに生きようとしても、環境や社会がそうであるわけではない。
「恵ちゃんってさ、わたしのこと善人だと思ってる節あるよね」
「……そうはいってませんよ」
アスファルトに伸びた影が張り付いている。西日を背負う先輩の顔は黒く塗りつぶされている。逢魔が時。アンタはいったい誰ですか。俺が知りたいのはそれだけだ。名前だとかそう言うことじゃなくて、もっと本当のこと。巧妙に彼女が俺から何かを隠していることはわかる。ずっとそういう視線に囲まれて生きてきた。だからわかる、この人が善人なわけはない。初対面の時からずっと見るたび知らない人のようにみえる。
「むしろ、先輩の方が俺のこと見えてないでしょ。勝手に誰かを投影しないでくれますか?それがアンタにとってどんな人か知りませんけど、不愉快です」
「不愉快か」
「アンタが思う以上に」
春の夕方に吹く、少しだけ冷えた風が俺と先輩の間を通り過ぎる。俺はこのひとがわからない。
「……恵ちゃんは、わたしに関心があるの?」
視線がそれる。高専の校舎は視線を逸らすにはあまりにわかりやすくて良くない。何もわかっていないことだけが先輩に伝わる。わかっていたら、こんなことになってない。
「それに関しては謝るけど、やっぱりちょっと勘違いしてるよ」
「勘違いするほど仲良くありません」
「じゃあ恵ちゃんが好きに定義してよ。恵ちゃんが欲しいものあげる。ショートケーキの上のイチゴでも、風邪でも、呪いだって受けてあげるよ」
「そういうのを他人にされるのが嫌って話です」
先輩はようやく黙る。視線を戻せば、色素の薄い目が俺を探るように見ていた。それから、思いついた、と笑う。どうせロクでもない。
「じゃあ他人じゃなくなればいいんだ」
「は?」
「他人じゃなくなればわたしは好きにしてもいいってころでしょ」
「……俺が聞きたいのは、どうして俺なんかを助けたのかってことです」
先輩は一度まばたきしてから俺の髪に触れた。パーソナルスペースを壊すタイプには見えなかったから、少しだけ驚いた。
「……わたしが、命に変えても助けたいって思える人に似てるからだよ」
「やっぱり誰かと俺を重ねてるじゃないですか」
「違うよ、あくまでも概念的なものだから。参考例みたいな……恵ちゃんの善人観だって津美紀さんに影響されてるでしょう?」
津美紀。反射的に先輩の手を跳ね除ける。
「俺、先輩に津美紀の話なんてしたことありませんけど」
「……そうだね、悟から聞いて気になっちゃってお見舞いしちゃった。……ごめんね?」
下手だな、と思った。愛想笑いは愛想に満たないぐらい歪で、やるならもっとうまくやればいいのに。
「コインランドリー行くんですか」
「え。まあ、そうだね。流石に洗濯物溜まってきたしこの休養中にいろいろやっちゃおうと思って……それが?」
自分から切り出しておいて、俺はその先の言葉を言うのをためらった。苦手だ。苦手というか、得体が知れないから関わりたくない。巧妙に何かを隠している人間は、関わったって関わらなくたって同じだ。先輩は俺の表情を読んで、ふーんと訳知り顔でざらりとした視線を向けてくる。
「もしかして恵ちゃんも手伝ってくれる感じ?助かる〜、いくら下着とかインナーが中心といえど片手だと結構キツイな〜、誰か手伝ってくれる後輩でもいないかな〜って思っててさあ」
「確信犯かよ」
「あは、別にいやならいやでいいけど?」
先輩は動かない右手を俺の身体に当てる。無言の圧。ため息が出た。
「…………わかりました」
「ラッキー。じゃあちょっと持ってくるから」
「……ここまできたら先輩の部屋まで行きますよ、片手じゃ持てないんでしょ」
「それでもいいけど、脱いで置いてある服とか下着をランドリーバックに詰めるところからだけど平気?」
「……………廊下で待ってます」
「女子寮には入っちゃうんだ〜真希いなくてよかったね、まあ今は学生はわたし達2人しかいないからどうでもいいか。あ、寂しくなったら遊びにきてもいいよ」
「誰が」

23.03.18