巡らない夜の破片


規則正しく同じドラム式の洗濯機が並ぶ、コインランドリーの硬い草臥れた長椅子に腰を下ろした。
「なんでも質問してくれていいよ。思い違いってどっちに取っても厄介でしかないじゃない?ホラ、はいッ、どーぞ」
顔が歪む。先輩はそれを見て満足そうに笑って「悟のモノマネ」とご機嫌に口にする。だろうな、という言葉はおそらく彼女をさらに助長するだけだ。だから俺は下を奥歯まで押し込む。
「いいよなんでも話してあげる」
「………………結構です」
「何も質問ないの?」
洗濯機が稼働する機械音と、洗剤と水が混ざり合う形容しにくい音がする。無音ではないが、作業音が余計に沈黙を目立たせた。口の中を湿らせる。唾を飲みこんでも状態は変わらない。
「……先輩の価値観がよくわかりません。俺みたいな……ってつまり、呪術師を中心に助けるってことですか」
人一人分開けて座った先輩を横目で確認する。小さな窓を凝視する彼女の姿勢は正しく、瞳の中には雲が映り込んでいる。
「そんな救いようもない考え方じゃないよ」
「俺みたいな、が抽象的すぎてわからないんですけど」
先輩はまた笑う。下手な方の愛想笑い。普通のものなら下手ではないから、きっと都合が悪いのだろう。誰かの身代わりはごめんだった。その人の理想通りに生きるなんて芸当、俺にはできない。
「あとひとつ聞いていいですか」
「何?」
「なんで『恵ちゃん』って呼ぶんですか」
先輩が俺の顔を覗きこむ。少し傾いた勢いで髪が少し流れた。目が合う。コインランドリーの朧げな白い照明に照らされている。
「呼んじゃだめだった?」
「……釈然としないんでやめてもらえるとありがたいんですけど」
「あはは、何か悪い思い出でもあるの?」
恵ちゃん。こんな名前だからそうやって揶揄われたことは幾度もある。その度に空気の読めない、もう何も覚えていないクズの遺伝子的な父親のことを考えた。
「別に」
「ならいいでしょ」
嫌いなわけじゃない。無反応。それが一番だ。勝手に飽きてやめる。恵ちゃん。耳の中で繰り返される。先輩が俺を恵ちゃんと呼ぶたびには何か大切なものを見落とす錯覚がある。
「誰かに呼ばれたことでもあった?誰か特別なひととかさ」
先輩が立ち上がる。そのままの流れで彼女のスカートの裾がひらりと揺れた。彼女はちょうど背中を向ける。先輩は「恵ちゃんさ」と悪びれもなく俺を呼んだ。嫌だって話をしたつもりだったがが、これはもしかしなくても彼女と俺、どちらが先に折れるかでしかないのだろうか。半分あきらめたように「なんですか」と返事をする。
「ご飯とパン、どっち派?」
「…………それは今必要な話ですかね」
「この近くにさ、美味しいパン屋と美味しい定食屋があるの」
「先輩の味覚センスを信じられないんですけど」
洗濯機から回収を終えた先輩が振り返る。
「定食屋は憂太のお墨付きだし、パン屋は七海さんと棘のお墨付きだけど……?七海さんって知ってるかな、一級術師で、悟の一学年下の人なんだけど」
知っている人との名前を出されると、無闇に抵抗するのは逆に混沌となりそうだった。まあ先輩はともかくとして、七海さんと乙骨先輩のことは信頼できる。アスファルトから街灯へ視線をめぐらせる。自然にため息が口から漏れる。
「………………じゃあパンで……どうせ先輩箸まともに使えないでしょ」
隣で先輩が吹き出す。俺の肩に寄りかかって笑い声を漏らした。震える先輩の背中を眺める。早く終わってほしい。
「終わりましたか?」
「恵ちゃんさあ、ロクでもない女に引っかかんないように気をつけなよ?先輩として心配」
「今ちょうどすっごい厄介な女に絡まれてます」
「大変」
先輩はご機嫌に笑った。どうしてここで笑えるのか理解に苦しむ。床に落ちる影が黒く濃くなるまえに、コインランドリーを出た。不服ながら、先輩とふたりで。

その日は久しぶりに夢を見た。同じような夢。また、誰かが泣いている。迷わず冷たい指先を握った。泣いてるけど可愛そうだとか助けなきゃとは思わなかった。ずっとここでないていればいいと思う。理由は思い出せない。でも、この人がどうしようもなく特別だったことは覚えている。
「果たせない約束は身を滅ぼすからさ、もう、いいの。わたしはどうせ、君のところからいなくなる、いつか全部忘れるでしょう」
痙攣する指。泣いて欲しいわけではない。でもきっと俺はこの人が泣いている時しかそばに入れないような錯覚がしている。津美紀とは違う声が、既視感のある、けれども覚えのない矛盾した言葉を並べていく。
「馬鹿いわないでください。……勝手に呪われておいてください。約束じゃなくて呪いの方が俺たちらしいでしょ」
「わたし、後悔する恵ちゃんも間違える恵ちゃんだって、みたくない」
夢は記憶を組み替えている。恵ちゃん。そう呼ばれたことがわかった。だが、深く落ちた記憶で声の一部が剥がれている。知っている、そう思う脳と、音を中に止められない頭蓋骨。アンタは誰ですか。泣いてるだけじゃ何もわからないんですよ。
「俺たちが正しかったことなんて、生まれてこの方ありました?」
彼女からすきだとは返事はない。それでも今日はそれで十分だった。……そうだ、好きだった。俺はこの人がどうしようもなく好きだったんだ。鼻をすする音。何も言わなかった。生ぬるい水滴が繋がった手に落ちたような気がした。


俺は目を開ける。花の匂いはしなかった。ただ虚しさだけが残った。手のひらを緩く握っていた。手のひらには何もないのに。
「恵ちゃん」
窓の外から声がして、反射的に振り返った。先輩。わかっていた。夢の中でも何度も呼ばれた、ような気がする。
「先輩……朝から活動的ですね」
「それ褒めてるんだよね?ありがとう」
「自己完結しないで貰えれますか…………」
寝起き特有の気怠さが脳の周りを覆っている。全てが見えている気になる、実際は何も見えてないくせに。
「なーに神妙な顔してんの?迷子のみたいな顔してるよ、恵ちゃん」
先輩の目が細まる。快晴の青い空を背景にするには、先輩は陰鬱な容姿だ。額を覆う長い前髪と、月のような双眼。朝日が似合わない。
「そういう先輩だって眼の下の隈が酷いですよ」
「あは、じゃあ夢見が悪い同士で仲良くしよっか」
先輩が手を差し出す。窓枠を超えて、カーテンが翻る室内に入る。俺はその手を眺めて「なにを馬鹿いってるんですか」と冷たくあしらった。



「なんだよ、よる。オマエやけに恵に親切じゃん」
禪院先輩の一言で、ああ心底面倒臭いことになった、と思った。
「しゃけ」
「確かに。よるって基本全てに興味ないもんな〜」
「みんな失礼すぎない?わたしだって後輩はかわいいよ」
「オマエにそういう感性があったのが意外だよ」
これからどんどん暑くなる時期なのに手頃というだけで選ばれた鍋を囲んで先輩たちが好き勝手にしゃべる。俺は話題に挙げられているが、先輩たちの会話に割り込むことはない。お鉢が回ってくる前に食べきって退席したい。無駄に疲れたくなくて、取り皿に取った野菜を口に運ぶ。もはや食事という作業だった。感情が乾いていく。
「恵ちゃんは弟と似てるんだよね、っていうか年が一緒だからなんか感慨深くて」
最悪すぎて思わず、口に入れたばかりの野菜を丸呑みした。
「……禪院先輩、よるさんっていつも調子のいいことばっかりいうんですか?」
よるさんの言葉を切る。周りは俺の様子を愉快そうに眺める。パンダ先輩も狗巻先輩も俺を見る。そこまで注目を浴びるほどのことはしてないと思うが。
「わかってきたな、そうだよ」
「恵、よるのこと結構わかってるな。そうだぞ、コイツのいうことは大抵意味がない。寂しがり屋なんだ」
「しゃけ」
「みんな酷くない?今回のは半分本気なのにね……わたしのこと知りたいっていうからいろいろお話ししてるのに」
「知りたいとは言った覚えがありませんね。俺はアンタが他人だつったんですよ」
「ねえ真希、他人ってさ自分以外の人のこと全てを指す言葉じゃないの?わたしが日本語弱いだけなの?」
巻き込まれた禪院先輩が、俺の方を胡乱げに見て深く息を吐いた。
「恵、馬鹿にもわかるような言葉使え」
顔が歪む。馬鹿って。先輩の方を見ると特に憤りもなさそうに小皿に取り分けた豆腐を食べている。
「そんな馬鹿なんですか?」
「悟と違うベクトルの純粋な馬鹿だからな。学力じゃパンダにも負ける」
思わず「パンダ先輩にも……負ける……」と復唱した。そもそも学力はかつ負けると形容しないのではないか。とか聞きたいことがあったが、先輩達がまともに回答するというのがありえない前提だから言葉を飲み込む。
「……俺は先輩と親交を深める気はありません」
「あは、恵ちゃんおもしろ……一緒にご飯食べたり」
「…………めんどくさ」
上機嫌な先輩を横目で見る。確かに禪院先輩達がいる時の方が、楽しそうに見える。寂しがりというのは多分間違えていない。とはいえ寂しいからって後輩に絡むなよとしか思えない。

「恵、よると仲いいじゃん」
「……いっておきますけど、いつも面倒見てるのはどっちかというと俺ですよ」
「ふーんじゃあ本当に私らがいないときは恵が傍にいたのか」
「本当って……別に。いつもではありませんけど。なんて言うか……こう、野良猫に餌を強要されている、というか。いや、普通に猫の方がいいですね」
俺の言葉を聞いているのか聞き流しているのかわからないトーンで、禪院先輩がふーんと相槌を打つ。
「何はともあれ、アイツが自分から家族の話をするのは初めてみたよ。あの馬鹿は秘密主義だからな」
右手に握ったグラスの中で氷が軽やかな音を立てて回る。それを呼吸音が追いかける。禪院先輩の横顔を見る。理解が追いつかない。
「それがなんですか」
「別に。どうともしねえただの感想だよ。恵が思うよりアレはオマエに懐いてるかもなって」
禪院先輩が水を一口飲む。どうしてあの人が俺に心を開くんですか。そう尋ねるより先に、先輩が「真希〜シメうどんだけど食べる〜?」と声をかける。禪院先輩は躊躇いもなく「食う」と言って室内に戻る。
「恵ちゃんも食べなよ。まだ春先の外って冷えるでしょ」
微笑むこの人がわからない。いつもの通り何か言い返さないと行けないような気がした。でも、言葉が見つからない。五条先生と違うのはこの人は、多分俺の言葉を聞いてくれることだ。普段のらりくらりとかわすし、完全な解答はくれない。でも、俺の言葉を忘れてはいないのだろう。
「……禪院先輩たちの前では普通に笑うんですね」
「そもそもね、わたしいうほど笑うの下手じゃないと思うんだけど。そんな見てられないかな」
「上手くはないでしょ、誤魔化し方をわかってるだけで」
「あは、まるで見てきたかのように言うよね」
「津美紀がそういう笑い方でした」
俺の言葉に先輩が辛そうに笑った。愛想笑いの先に、苦しさが見える。歪む。ひび割れた声が聞こえそうだった。琥珀色が夜を映す。透き通るような色の瞳が、黒を映して、それからそれを振り払うようにまばたきをした。
「…………ごめんね」
それでも、彼女は謝罪を口にする。何を謝ったのか、何がしたかったのかわからない。夜風が俺たちの頬をかすめて、それが形容しがたいほど不気味だった。哀れだった。
「何の謝罪ですか」
「……君が思うよりわたしは最低だって話だよ」
答えたくないと目を伏せる彼女は、一瞬だけこっちを見て優しく微笑む。知らない。知らない人だ。でも妙に懐かしかった。会いたかった人に似ていて、手を伸ばす。
「それで、結局うどんは食べるの食べないの?」
先輩は俺の手から一歩退いた。
「食べますけど」
「ならさっさと入んなよ。あ、恵ちゃんご入室でーす」
さっき俺の手から逃げたくせに、歳上ぶって先輩は俺の手を取った。わからない。手を引く先輩はさっきの辛さなんていつもの愛想笑いで上書きしていた。歪な先輩はそれはそれで綺麗だった。歪であることで守れるものなんてない。でも、彼女が身を守るにはそれしかなかったのかも知れない。初めて、彼女の歪さの理由がわかった。
津美紀も辛かったのだろうか。考えないようにしていた姉の微笑みを思い出す。ずっと一緒にいたはずなのに、毎日津美紀が作った飯を食って、同じ家で生活をしていたはずなのに、津美紀の象徴めいた微笑みしかもう思い出せない。
「よるさんって難儀な人ですね」
一瞬だけ琥珀色の目が見開かれて、よるさんは「恵ちゃんも大概面倒臭いからおあいこだね」と返した。琥珀色が透き通って、月のように見えた。誰かのことを思い出しそうになって、でもやっぱり思い出せない。禪院先輩も狗巻先輩もパンダ先輩も同意も否定もなかった。鍋から白い湯気が上る。