花片と落丁
目を覚ましてから、目頭を押さえる。またあの夢だ。
白く、何もない部屋の中で誰かと歩いている。数歩先を行くその人がこちらを振り返る。唇が動いて、俺の名前を呼んだ。あの人はなんて俺を呼んだ?大切な約束をしていた。どこへ行こうと言ったんだっけ。
騒がしい外に視線をやる。先輩たちは今日も静寂とか落ち着きというものと無縁だった。痛む頭は低気圧のせいにする。
「恵、これやるよ」
「……要りませんけど」
「あ?」
禪院先輩の突き刺さる視線に根負けして、「いただきます」と答える。押し付けられるままそれを受け取った。四六判、いわゆるハードカバーの単行本。
「………銀河鉄道の夜?なんでこれを」
「よるの本だよ」
どうして、尋ねる言葉さえも出てこなかった。なんであの人の私物を俺に。禪院先輩は黙って俺を見ている。押し付けるだけ押し付けてどこかに行ってしまうと思ったのに。曖昧に流すことさえ叶わないまま、俺は唇を舐めてから「なんで、こんなものを、俺に」と質問した。
◇
一般教科の授業を担当する正真正銘の『先生』が黒板の前で、わざとらしい咳払いをした。俺と先生、たった二人の教室は実寸以上に広く感じる。慎重に眼鏡を鼻の付け根まで持ち上げ直す。
「えー………伏黒君には申し訳ないですが、」
何かを言い終える前に教室の扉が開く。
「あ、早かったですか?」
そこから覗く顔に思わず、げ、と顔を歪めた。先輩から表情が丸見えだったにもかかわらず。本当に困ったような表情のまま、いえ、と先生は答える。答えるというよりは答える以外の術を持たなかったというのが正しい。
「…………座学に関してはあまり時間が取れないので、伏黒君には申し訳ありませんが、時間の兼ね合いで……彼女への補講も兼ねさせていただきます」
そんなことがあっていいのか。そもそも俺の授業なのに、補講扱いというのも一体どういうことなのか。いや、間違いなく言葉以上の意味はない。裏を読んでも意味はない。それがわかってしまうから余計に脳内が絡まる。なにもないのに重くなる頭を左手で支えつつ、一つ質問をした。
「……先輩って2年ですよね?」
回答がない。そりゃみればわかるということか。俺の困惑を他所に、先輩は隣の椅子を掴んで数秒考えた後、席を一つ空けて、廊下側にある座席を選んだ。横顔はあっけらかんとしていた。補修を受ける人間とは全く縁がない人生だったが、ここまで何も気にしていない表情をするものだろうか。いや、そもそも座学なんてお遊びレベルの呪術高専で補修ってなんだよ。
疑問、困惑。とりあえず先生の指示通り教科書を開く。
最悪だ。授業終了のチャイムが鳴ると当時に教員はすぐに荷物をまとめて教室を飛び出した。先輩と二人きり。居心地が悪い。
「先輩……あー、よるさんってそんなに座学が苦手なんですか?」
「まあ……やってこなかったし……」
「馬鹿正直にいうことですかね、それ」
先輩の手元が目に入る。なにも書いていない。50分間なにをしていたんだこの人は。
「恵ちゃんは偉いね、一回でわかるんだそれ」
「解説見ればわかるでしょ」
「わかんないから困ってんじゃ〜ん」
「困ってます?」
「困ってるに決まってるじゃない。何回聞いてもわかんないのに、わたしだけずっと補習受けてんだから」
「多分、というか間違いなく先輩側の問題はあると思いますよ。つーか、そんな座学ボロボロなのに逆になんで進級できたんですか……」
「呪術高専だから……?」
「そうなんですが、そうではなくて」
あはは、と先輩が笑う。なにが楽しいんだこの人マジで。
「一回数学やめますか。先……よるさん、得意教科ってあります?」
「恵ちゃんに任せるよ」
「……そこはもういっそ体育とか脳筋みたいな解答して欲しかったですね」
「体育も出来るだけで得意じゃないし。真希とパンダには敵わないかなあ」
「いつもはもっと自信満々じゃないですか?なんで今日に限ってそんな控えめに……」
「そうだ!憂太には体育で勝てる。いける。頑張れば持久走も棘に勝てるし」
よるさんはペンを左手に持ち替えて器用にシャープペンシルを一周させた。中学の時もああやってペン回しばかりが上手くて、勉強ができないやつがいたな、ということを思い出した。
「恵ちゃんのその顔の免じて、真面目に答えるなら……あー、呪術系の座学とか結界術とか?」
「そっちの話はしてませんよ」
「だから困ってんの。わたしだってすきで馬鹿やってるわけじゃないんだからさあ」
「……とりあえず参考書と教科書開いて音読するところから始めたらどうですか」
数学の教科書を音読してなんの意味があるのかは甚だ疑問ではあるが、まあ、なにもないよりはマシだ。
「あんまここでやってると次の授業遅れますよ」
「大丈夫だよ、どうせ次も一緒じゃん」
「……あの、情報はちゃんと共有してもらっていいですか?」
「え、聞いてないの?パンダと棘と同じ寮でしょうに」
この人たち全員が全員に責任を転嫁してるな、これ。苦虫を噛んだ顔で「聞いてませんけど」と答える。今度は自分で聞きに行こう。五条先生に聞いても駄目そうだが、禪院先輩も適当そうだし、よるさんは論外だ。
「次は外で授業だってさ」
「………ご親切にどーもありがとうございます」
「どういたしまして」
「嫌味で言ってんですよ」
着替えてグランドに行けば、まあ、当然だが二年の先輩たちが揃い踏みだった。
「お疲れだな、恵。ま、よる相手じゃしょうがないけどな」
「普段以上に疲れました……」
「明太子」
パンダ先輩と狗巻先輩が両肩を叩いてくる。慰めのつもりだろうが、逆に肩の筋肉を虐めているような錯覚がしてくる。
「おいボケっとしてんな。ほら、わざわざこっちがオマエの方に時間割合わせてやってんだろーが」
「まあまあ真希、恵はさっきまであのよるとマンツーマンだったんだ。ちょっと休ませてやれよ」
「ハ、マンツーマンて。センコーは何やってんだよ」
「投げられました」
禪院先輩はフン、と鼻で笑い飛ばしながら、階段に腰を落とす。そのまま不機嫌そうに脚を組む。落ち着かないのか、脚を変えてまた組み直す。
「まあ怒ってやるなよ。よるは勉強に関しちゃパンダの俺より歴が浅い」
「しゃけしゃけ」
「はあ……」
「オマエみたいな一応普通の義務教育通ってきた奴には実感湧かないだろうが……御三家とか、ああいう呪術師の家系じゃよくあることだよ。私は一応家で教えてもらってたけどな、一応」
禪院先輩がぼそりと付け足した。少し下に座る先輩がどんな表情かはわからなかった。先輩の言葉をフォローするように、パンダ先輩たちが石段を一段飛ばしで降りていく。
「よるんとこは俗世のことより呪術界での身の振り方が中心だったんだろう」
「しゃけしゃけ」
肩を叩かれる。振り返ると
「なーんか皆好き放題言ってるみたいだけど、わたしもちょっとくらいはフツーの学校知ってんだけど」
「よる、遅えよ」
真希さんがよるさんの頭に手にしていた訓練等の武具を振り下ろす。
「あ、ちょっと真希!叩いたらもっと馬鹿になるじゃん!!」
「ならねーよ」
「よるさんは馬鹿な自覚あるなら勉強してください」
「恵ちゃんはそっち側だもんね、知ってた」
「なんですかその反応」
生意気だなあ、とよるさんは笑って、俺の顔を覗き込んで「愛想くらい覚えなよ」なんて言ってきた。本当に勘弁してほしい。
23.03.18