やわい倫理の走る街並
高専の中で会う。仕方ない。休日、出かけるところを目撃された。これも同様。出かけた先、例えばそこそこの大きさのショッピングモールで姿を見かけると、流石に逆方向へ歩きたくなる。嫌いとか好きという問題ではなく、反射的に。わざわざ遠回りしてたどり着いた先で、一番面倒くさい先輩に会うとは思っても見なかった。
「宮澤賢治なんて読んでる暇あったら勉強したらどうですか」
「痛いところつくね?」
「別にやりたくないならいいですけど」
「勉強は勉強でするよ。将来、まあ将来か、やりたいことあるし」
「なんですか、それ」
「教えてあげない」
君には教えられない。よるさんの指が銀色で印字された銀河鉄道の夜という字列をなぞった。
「恵ちゃんって宮沢賢治呼んだことある?」
「まあ……小中の国語の教科書にありましたけど」
答えると「そうなんだ」とよるさんが意外そうに相槌を打つ。学校で、銀河鉄道の夜そのものは扱わなかったが、宮沢賢治の作品はいくつか触った覚えがある。セロ弾きのゴーシュ、雪渡り、オツベルと象。
「そーだ、恵ちゃんにいいもの見せてあげるよ」
「結構です」
「結構しないでってば。……あ、これだ。じゃーん、ブルカニロ博士版が載ってる本でーす」
見たことのある装丁だった。息を飲む。
「……はあ」
「猫でかわいいでしょ?」
「…………記憶違いだったら申し訳ないんですけど、銀河鉄道の夜って確か人間じゃ」
「合ってるよ、カムパネルラもジョバンニもザネリも人間だね?」
「それ、猫ですよね」
「いいじゃんいいじゃん細かいところはさ」
禪院先輩の声が耳の奥でリフレインしている。よるの本だよ、禪院先輩はそう言った。確かにそう言った。
「よるさん、それ」
「どうしたの?欲しい?」
首を傾げるよるさんに、喉が硬直する。言葉は出てこない。禪院先輩から預かったんですけど。それだけだ。忘れているだけかもしれない。忘れっぽいだけかもしれない。でも。なんとなく言ってはいけないもののように感じている。
「……それ、買うんですか?」
「どうしようかな。まあ、買ってもいいかなと思ってるけど」
「…………おせっかいですけど、家の本棚確認してから買った方がいいと思いますよ」
「なにそれ、そんな忘れっぽくないんだけど。あ、真希が何か言ってたの?」
「まあ……はい……」
歯切れの悪い回答になった。ずっと隣にいるだけ、という環境が苦しくて、本棚に目を通す。いつも見るコーナーとは違った背表紙に目が慣れない。どれもこれもフィクションだ。作家ごとに色の変わる文庫。同じテンプレートにそれぞれの作家の名前とタイトルが入れられたもの。宮沢賢治。その文字はどこにでもあった。
「そう。まあそれならそっちはそっちで恵ちゃんが持っててよ」
「なんでですか」
「よくいうじゃない。布教用、観賞用、保存用って。それの布教用を貰ったと思ってさ」
「いらないんですけど」
「え〜、じゃあそのうち預かるから持っててよ。そのくらいならいいでしょう?」
「勝手にしてください」
「適当だなあ」
よるさんに背を向けて、逃げるようにオーディオコーナーへ向かった。
◇
逃げたつもりだったのに、なぜかよるさんは隣で俺に話しかけてくる。さも当然かのように振る舞う。とりあえず手に取った映画のパッケージからはなんの情報も入ってこない。パステルカラーの浮き輪、エメラルドグリーンっぽい水。夏らしいパッケージ。だが心自体は動かない。勝手にしてください、の解釈の相違を主張したかったが、どう言えば振り払えるのかは全くわからない。
「恵ちゃん、恵ちゃんこれ面白いそうじゃない?ループ物だって、ウケる。なにがいいんだか」
「馬鹿にするか面白いと思うのかどっちかにしたらどうですか」
「観る?」
「先輩が観たいなら勝手に観てください」
「つれないなあ。じゃあわたしCDの方見てきていい?」
「…………いや、別行動ですよね?」
「さっきまであんなに一緒に行動してたのにね。ほんと冷たいんだから」
周りの視線は痛いし、目の前にいる人は話が通じないし。でもなぜかこの人を放置しておくと面倒臭い気がして「なにを探しているんですか」と尋ねた。
「この前お店入った時に流れてた曲」
「……タイトルは?」
「さあ?ああいうのって困るよね、歌手も曲の名前もわからないんだから。でも、多分有名な曲」
どうして覚悟をしたところから、こんなに面倒臭いことを持ってくるのだろう。
「まあ片っ端から聞いていけばわかるんじゃないかな」
「全部の曲が視聴できるわけじゃないと思いますが……」
「そっかあ、じゃあどうしようか」
この前の任務を思い出す。ノープランで突っ込んでいくのは日常生活にも悪影響しかない。
「歌詞、覚えてます?」
「なんとなく……?同じところにピアスを空けたって歌」
「スマホで調べたら出てきませんか?」
なるほど、と小さく呟くとよるさんがスマホの画面に文字を打ち込んだ。見つかったのか。よるさんが満足そうに笑う。
「恵ちゃんってさあ、変な女に好かれるでしょ」
アンタがいうか。
その言葉を飲み込んだのは、別に俺はこの人に好かれているとは思えなかったからだった。好きとかそういう感情がわかっているわけじゃない。でも、この人は俺をみているわけではないような気がした。
「……早く借りてきてくださいよ」
「はーい」
身に覚えがあるような、ないような何かむず痒い感情が喉のすぐ下で暴れている。
よるさんは自己中で、身勝手だ。呪術師らしい人だ。それで、多分とても愚かな人でもある。全部の曲を視聴してでも耳に残った音楽を見つけようとしたり、自分より頑丈な後輩を庇って大怪我を喜んでしたりする。馬鹿でも愚かでもなんでもよかった。
「こうやってあーだこーだ言いながら動き回るのも悪くないけど、やっぱり疲れるね?」
恵ちゃん。そうおかしな呼び名で呼んで、アクエリアスをよるさんが投げてくる。目配せ。そう呼ばれるたびに、何かひとつ諦めている。その呼び名を受け入れる自分。穏やかな日々。あの夢の花の香り。約束。
「じゃあ借りて行きますか、映画」
「あはは。もう今日はCD借りちゃったし、今度でいいよ」
まるで約束のようだった。でも多分よるさんにそんな意図はない。引っかかりを感じるのは多分ごく個人的なものだ。俺は誰となにを約束したんだったか。なにをしてもらってあんなに夢の中の俺はうれしかったのだろう。
忘れてしまうくらいが本当はちょうどいいことを、俺は知っている。それでも覚えていたいと思うことを、どうすればいいのかを探している。
考え混みそうになる俺を「恵ちゃん」とよるさんが呼び戻す。
「今日は付き合ってくれてありがとね」
「正しくは巻き込んでじゃないですか?」
「あはは。いうじゃん」
平日にもかかわらず、珍しく今日は五条先生も暇らしく、教室の教卓のパイプ椅子に腰を下ろし、チョークをテキトーに指で摘んで何かを黒板に書き記していた。多分落書きだ。
「恵はさ、やっぱよるのことなんも感じないわけ?」
突然俺の方に話題をぶん投げてくる。よる、という固有名詞に思わず反応してしまった。まるで何かがあったかのような反応だ。失敗した。
「…………どういう意味ですか?」
「あー、その反応的に駄目か。面白いと思ったんだけどな」
「何か知ってるなら教えてくださいよ」
「そんなのつまんないじゃん」
全部知っている、という顔をしている。
「五条先生、なんでよるさんは補講なんて受けてるんですか」
「ん?ああ、それ僕の方針〜、アイツ引くほど馬鹿でしょ」
「はい」
「即答じゃん。ウケる。まあ、よるの場合は座学とかそっちのほうが高専に来させる意味だったからね」
「なんでですか」
「アイツは馬鹿だからね〜、それで後悔しない?って聞いたら生意気にも黙り込んだから。だからちょっとお願いしてさ」
なるほど、と頷く。様子が怪しいと思ったが、勉強する気も常識も怪しい人の補講をよりによって五条先生から頼まれればそりゃそういう反応になるだろう。
なんとなく自動販売機でコーヒーを二つ買った。無糖と微糖。教科書を開いている背中が目についただけ。
「よるさんって何か目標でもあるんですか?」
「え、どうしたの突然」
「割とちゃんと教科書読んでるっぽいんで……なんかあるんですか」
よるさんがこれみよがしにため息をつく。
「恵ちゃんさあ……。今度はどーせ、悟からなんか変なこと聞かされたでしょう。恵ちゃんもまだまだだなあ……なんでよりによって悟を信じちゃうわけ?あんな軽薄さの固まりみたいなさあ」
「で、実際のところどうなんですか」
「どうって……えー、まあ、お金は欲しい、かな。知ってた?医学部ってすごいお金かかるんだよ」
「行くんですか?」
「いや、わたしの話じゃなくて」
よるさんが言葉を探しながら、缶コーヒーを指先で弄ぶ。プルタブは引かれないままに。
「飲まないんですか、コーヒー」
「え?あ、飲もうかな」
よるさんが言われるがまま、プルタブを引っ張る。一口飲んで、顔を歪めた。
「にっが……」
「は?それ微糖じゃ……」
ふと自分の手持ちを見る。微糖。自分でもプルタブを引っ張って一口飲んだ。甘すぎて喉が火傷しそうだった。黙ってよるさんに缶を差し出す。
「あ、こっちは甘い。なんかあれだね、無糖のコーヒーと微糖のコーヒーって別物なんだね」
「本当にガキなんですね」
「あ、ブラックコーヒーが飲めることが大人だと思ってる厨二病の人だ」
話しかけるべきじゃなかったかもしれない。
「あはは、すごい顔!恵ちゃんはやっぱりもう少し愛想がさあよくなってもいいと思うんだよね、この業界年上ウケが結構大事じゃない?」
「気遣って損しました」
過剰な砂糖のせいで舌がひりつく。洗い流したくて、受け取ったコーヒを口に含む。
「恵ちゃんさあ、ほんとさあ、あのさあ」
よるさんが笑う。意味もないことばかり口にする口だった。幸せそうに弧を描く唇に視線が寄った。酔いそうなくらいに。
「よるさん」
らしくない何かをいいかけて、慌てて言葉を飲み込んだ。輪郭のぼやけた何か。でも、知っているなにか。気まずくなって目を逸らす。うるさいよるさんの視線を受けながら、またコーヒーを一口飲んだ。
「恵ちゃん恵ちゃん」
「なんですか」
「これさあ、間接キスだよね」
「イマドキの小学生男子だってそんなことでここまではしゃぎませんよ」
何かを飲み込んだ自分が馬鹿馬鹿しくなって、残りのコーヒーを呷った。
23.03.18