水たまりで飼われたい

生ぬるい眠気が目より下を覆い尽くす。眉間を揉んでいると「寝ても平気ですよ」と気遣われたが人の気配が強いから眠れない。だから大丈夫です、と簡潔に答えた。バックミラーは俺の前髪と、運転する伊地知さんを左上だけ映している。溜息をつく。車窓から見える街路樹は揺れている。雨。憂鬱な気持ちが気管を埋めた。ガラスに叩きつける細かい雨音がうるさい。車の天井は小さく、傾斜が急だからどうしても音が大きく聞こえるような気がする。交差点で信号機が赤に変わり、車は一時停車する。横断歩道を黒い制服の女が傘を持たず走るのが見えた。あ。音にはださなかった。いや、もし仮に、俺が声を漏らしていたって、車を挟んでいるあの人に俺の声が聞こえるわけはなかった。
渡りきる直前、黒い制服をきた女がこちらに走ってくる。伊地知さんも運転席の窓を開けて、「よるさん、今帰りですか?」と声をかけた。
「はい。伊地知さんは……あ、恵ちゃんもいる。やっほー」
「……どうも」
いつも通りの気の抜けた声。前髪をわずらわしそうに流そうとして、すとんと落ちる。
「良かったらお送りしましょうか?この雨じゃ大変でしょう」
「助かります。じゃあお言葉に甘えて」
よるさんが扉を開け、軽く背中を曲げるように乗り込む。細かい雨粒が頭上に溜まっている。払うか払わないか。逡巡。俺の視線の意味には気づかないまま、よるさんはシートベルトをつけた。
「急に降られちゃって困ってたんですよ。もう勢いで強行突破するほかないな〜と」
また、自然と溜息が出た。
「天気予報では午後から雨だってなってましたよ」
「そうなの?」
「まあそもそも今の時期は梅雨時ですからね。せめて折り畳み傘くらいあるといいのかもしれませんね。任務との兼ね合いでどうしても持ち歩く、となると嵩張りますが」
「折り畳み……?あ、あれか。確かに、そうですね、やっぱり傘買った方がいいのかな」
「まさかとは思いますけど、傘、持っていないんですか?」
「ビニール傘は持ってたんだけど、この前壊れちゃって。真希もいろいろ言ってたから探してたけど、見れば見るほど何が必要なのかわじゃらなくなって行くし、もうこの際、面倒くさいからいいかと思ってたんですけど」
「……去年どうやって過ごしてたんですか」
口出しなんてしたらまた巻き込まれる。わかっている。でも、気になるものは仕方がない。
「コンビニで買ったやつ。ビニール傘」
よるさんは肩についた細かい雨粒を軽く払う。頭には気づかないままだった。
「それこそ、この前壊れたビニール傘がそう。でもあれすぐ壊れるし嵩張るしもういいかなって思ってきててさ」
「よるさんの金銭感覚がまともで驚いてます」
「恵ちゃんはわたしのことなんだと思ってるの?」
「面倒くさい人」
「あはは。恵ちゃん、すごい顔してるじゃん」
隣からスペースを侵食してくるよるさんの手を払う。黙って外を眺める。歩道を歩く人たちは鮮やかな傘や透明なビニール傘を差して歩いていた。問題解決を放棄した俺とよるさんに伊地知さんが左目でアイコンタクトをしてきた。
「では、これから傘を買いに行ったらどうですか?よければお送りしますよ」
「え!いいんですか?」
「……伊地知さん、それは」
「伏黒君も息抜きされたらいかがですか?最近どうしても任務が立て込んでますし」
実は私、雨の日のドライブがすきなんですよ。
どこからが本心で、一体どこまでが本当なのか判断に困る。しかし伊地知さんの言葉は無碍にできない。なんでもいいか、と目についた傘を渡す。一番端にかかっていたから。無地でつまらないが、それを気にする人ではないだろう。
よるさんが紐を解いて、傘を開く。真っ青の傘。
「これにしようかな」
「渡しておいてあれですけど、そんな適当でいいんですか」
「恵ちゃんが選んだんでしょ」
目を細めて、それからまたよるさんが口を開く「恵ちゃんってさあ、」その先は何も続かなかった。
「わたし最近ね、青が結構好きみたい」
「はあ」
いつも通りの意味もない言葉だった。でも、恵ちゃん。またよるさんの声が俺をめちゃくちゃな呼称でなぞる。その先を省略されたら何もわからないのに。

結局答え合わせはなかった。全てを分かり合えるほど親しくもなければ、そこまでの関係を築くつもりは毛頭ない。そう、勝手に周りが盛り上がっているだけだ。禪院先輩の顔が過ぎる。ほんのわずかな哀愁を漂わせる指先。あの本。早く引き上げていってくださいよ。よるさんには言わなかったこと。
「布地の傘なんていつぶりかなあ」
「よるさん、時々文化人とは思えない言葉を言いますけど、そんな田舎の生まれなんですか?」
「え?あー、そうだね。田舎かな、なんていうか、まあ、こういう傘はいらない環境だったな」
はぐらかされた。ほら、結局そうだ。
この人は俺を自分の用事に突き合わせるくせに何も大事なことは教えない。恵ちゃん。恵ちゃん。恵ちゃん。馬鹿の一つ覚えのようにそれを唱える。
「まあ今は晴れてるわけですが」
晴れ間。鈍色の雲の隙間から日光は直線軌道でアスファルトまで落ちている。
「晴れてても差しちゃダメなわけじゃないでしょ?」
「…………いや、ダメじゃないですか?」
「じゃあ試してみよっか」
「は?」
よるさんがパッと傘を開く。ワンプッシュで開く傘にしたのをここで後悔するとは思わなかった。よるさんがあはは、と声をあげて俺の手を取った。グレーのコンクリートに青い影が落ちる。よるさんの傾ける傘の骨組みに頭の後ろがぶつかった。屈めばよるさんの顔が近づいた。どうして。どうして、いつも。やらなければいいとわかっていることをこの人の前では繰り返すのだろうか。
「どう?」
「腹立つ程、良い笑顔でムカついてきました」
「わたしのことじゃなくて……まあいいか」
日差しが透けて、よるさんの鼻筋と頬を緩い青に染めている。きっと俺もそうなのだろう。結局、そんな前置きをして俺はよるさんをまっすぐみた。雨は止んだのに、こめかみのあたりが痛い。偏頭痛をねじ伏せて、口を開く。
「よるさんは何がしたいんですか」
俺が問えばよるさんは、ん〜と首を傾げた。数秒の沈黙。何かを探すようによるさんの視線は俺の肩を、輪郭を、耳元までなぞる。それから何かを諦めたように、器用に笑った。
「……仕返し?」
よるさんの傘の柄を持っていない手が俺の頬に差し伸ばされる。
「わたしは、わたしのしたいことをしてるだけだよ。ずっとそう。……だから恵ちゃん、そんな顔やめてよ」
人間みたいによるさんが笑う。器用な微笑みでも、いつもの完璧な愛想笑いでもない。
「……どんな顔ですか」
「迷子でさびし〜ってのを隠してる顔。ひとりじゃないでしょうに」
「本当にどんな顔だよ」
「話したいことがあるなら聞くから。せっかくまだ時間あるんだから何かしようよ。先輩がなにか奢ってあげようか?」
「よるさんは年上面、似合いませんね」
「お、元気出てきた?」
俺は何も言わなかった。その代わり、よるさんの手から傘を奪って、水分を一切含まない乾燥したそれを手早くまとめる。
「すぐそこに喫茶店あるでしょ、そこでいいです」
「……ここから見えるやつ?」
「そうですけど」
一番に目に入ったものをあげれば、よるさんは軽く俺の背中を叩いた。全く痛くはなかった。それから小さな声で何か呟く。
「いいよ、そこで」
電柱を通り抜ける。花火大会。そんな文字を大きく印刷したチラシが見えて足が止まった。怠い重い何かが身体にまとわりつく。眠気はとうに去っていた。これはなんだ。
よるさんが俺を呼ぶ。いつも通り「恵ちゃん」
と。いつも通りだったのに、なぜか今日はやっぱり正直に笑っている。ああ、理解のできないものばかり増えている。
「恵ちゃん!早く来てよ」

23.0606