夜更かしと混ぜてほしいもの

なぜか、ふと、「夢をよく見るんです」なんて言葉が口をついて出た。無防備な言葉を撤回する寸前、よるさんの視線に絡まれて言葉が消えた。やかましくて、うざったくて、面倒臭い先輩。彼女と思えないほど無色透明で、音をなにひとつ持たない視線だった。
「そういうの全部、忘れちゃった方が楽だよ」
不自然なくらいに鮮やかな緑色のメロンソーダ。身体に害はないのはわかっているが、あまりにも原色で、上に乗っかったバニラアイスの甘い匂いも相まって、メロンソーダは人工物だと思った。それを全部台無しにするように、よるさんはグラスの中を赤いストローでかき混ぜてしまった。喫茶店特有のカラーリングは先輩に似合っていたから、ほんのわずかに残念だと感じた。理由はわからない。
いっつも適当なことばかり、曖昧な言葉だけを告げる人だ。けれどその言葉には「多分」も「きっと」も加えられなかった。
苦労して打ち明けた話も彼女からすれば意味のないことだったらしい。
「わたしの顔に何かついてる?」
「別に」
「え〜、あんなにじっと見つめてくれてたのに?」
「黙ってればいいのにと思ってます」
「かわいくないなあ。わたしは恵ちゃんともっと素直におしゃべりしたいんだけど。あーあ、ほんといつまでも反抗期だね恵ちゃんは」
ため息まじりに「アンタが俺のなにを知ってるんですか」と呟いてコーヒーカップに口をつけ、残り全部を飲み干した。ブラックコーヒーの苦味が喉を潤す。大きな窓から差し込む日光は、机の真ん中に大きなひだまりを作る。さっきまで鬱々とした調子で雨を落としていたとは思えない。寮内の自室でもしこの光を受けたら多分不快だろう。でも不思議とこの空間で感じる陽光はなぜか花の香りがした。夢の中で嗅ぐものと同じ匂い。
「それで……どんななの?」
「なにがですか」
「そっちが言ったんじゃん。夢だよ、夢。ほら恵ちゃんが時々見る夢のこと」
まだ三分の二ほど残っているグラスをそっと端に寄せ、先輩が手を組む。その所作は両手を押さえつけるようにも、祈るようにもみえた。
「どういう時に見るの?」
「…………寝付きが悪かった日とか」
「なんじゃそりゃ。寝付きが悪いのは当たり前じゃない。何かもっと原因があるんじゃない?ストレスとかさ」
「強いて言えばこの時間が非常にストレスです」
俺の言葉にあはは、とよるさんが笑う。なにも面白くはないことをさも面白いという顔をするのがよるさんの特徴だった。「面白いねえ」口先だけのそれが憎たらしくて、つい言葉が尖ったまま口をついて出る。
「花の匂いがします。なんの花かは知りませんけど、いつも、何かの約束をして…………」
喋りすぎだ。唇を噛む。
「忘れちゃう約束に気を配るのは無意味じゃない?」
「……そういうこと言うからよるさんとか五条先生は信用無くすんですよ」
「ひどい」
「事実でしょ」
カップの縁に口をつけてから飲み干してしまったことを思い出す。ダサい。メニューに視線を走らせた。
「ここ気に入ったの?」
「まあ……はい。」
絡みつくような、舐めるような何とも言えないにやにやとした視線がうるさくて「なんですか」と刺々しい声が出た。
「別に。ここに何回でも来たら良いよ、と思って。あ、そうだ!恵ちゃんの好きなもの知れたし奢ってあげよっか?」
喫茶店のなかは外よりずっと心地よかった。
「じゃあそれでお願いします」
「あ、そこは結構しないんだ」
心地よくて、立ちあがることができない。終わらせなければ、頭では十二分にわかっているにもかかわらず。けれど先輩は「暑くなってきたね」と言う。横にそれたメロンソーダのストローを口で迎えにいく。子供のような横顔を眺めていたら、よるさんは気まずそうに視線を泳がせた。
「もう一杯コーヒー頼んでいいですか?」
「いいよ〜。でも平気?そんないっぱいコーヒー飲んじゃってさ。いっぱいなのか一杯なのかわかんないよ」
「滑ってますよ」
「恵ちゃんこういうので笑うかなって思って……」
「そんなギャクセンス悪いと思わないで貰えます?」
「つまんない」
「それで結構です」
「結構しないで」
まるで追いかけるように結構を重ねられる。あはは、とよるさんが声をあげて笑った。左のこめかみがむず痒い。何か思い出せそうな、気がする。
「やっぱりさ、忘れちゃいなよ」
「……なんの話ですか」
「夢の話だよ。忘れちゃうような約束はいらないでしょ?」
「泣いていても?」
撤回すればよかった。そんな顔をされるなら、こんなこと言わなければよかった。張り付いた笑みの下、素顔が一瞬見えた。苦痛。不自然な笑窪。だが、2秒後には全部を塗りつぶし、よるさんは「そうだよ」と頷いた。許されたいと言いながら、自ら地獄に堕ちていくような、身を削るような痛み。ごめんね。声を覚えていないのに、彼女が繰り返していたその言葉が耳に張り付いて剥がれない。
「約束を、忘れるのは相手に対して酷いと思うんですけど」
「忘れちゃう相手は忘れてさあ、楽しいこととか好きなことを覚えてなよ」
「楽観すぎますよ」
「よし、じゃあこうしよう!もし万一、恵ちゃんが忘れても代わりにわたしが全部覚えていてあげる」
影の中に落ちている、よるさんの微笑み。不幸だと言わんばかりの愛想笑い。この人の愛想笑いをはぎ取る方法はいつも忘れてしまう。世界には神様なんていないと、言い切ってしまいそうな表情が嫌いだ。
「神様にでもなったつもりですか?傲慢ですよ」
「結構結構、傲慢上等」
「それだと韻踏めてませんよ」
神様なんて信じない。救われたいわけではないから。俺は地獄に堕ちていくあの人そのものを忘れることができない。それが運命だとか神様の手のひらの上なんて言うのなら、そんなものに意味はない。
「これでもダメか。……じゃあ、恵ちゃんの快眠のために先輩が身体を張ってあげようかな」
「気持ちだけで十分です、結構なんで」
「いいじゃんいいじゃん。愚痴言って寝ればスッキリすんじゃない?」
「……わかりました。提案だけは聞きます、採用はしません」
よるさんが黙った隙に手をあげてコーヒーをもう一杯頼む。窓の外を眺めるよるさんの横顔は静かだ。額に汗して歩いていくサラリーマン、短いスカートを翻す女子大生、髪を派手な色に染め、大きなリングピアスをつけた若い男。六月の晴れ間。
視線を辿るようによるさんがこちらを見て、微笑んだ。
「電話してあげる、ってのはどう?今度初めての出張があるでしょう。恵ちゃん、ひとりじゃ寂しいんじゃないかと思って」
「結構です。間に合ってます」
「だからさ、その結構ですってのやめてよ。かわいくない」
「……ずっと思ってたんですけど、よるさんがいう、かわいいっての一体何ですか?」
「さて、なんでしょう?」
俺はこの人のこういうところが嫌いだった。



ホテルに戻ってシャワーを浴びた。なにも考えずそのまま蛇口を捻ったから頭から冷水を被ってしまった。無性に苛立つ。公立高校の百葉箱に特級呪物を保存しよう!なんてことを考える奴らは馬鹿だし、案の定危なくなったからとってこいと命令する上層部は能無しで、ウケるねとか笑い飛ばす担任教師は殴るしかないし、そんなトラブル程度で頭から水をかぶる自分が惨めだ。
列挙すればするほど怒りが湧く。行き場のないストレスは、タオルで髪に残る水分を拭き取る手に露骨に現れた。
「………………疲れた」
ベットに倒れ込む。とりあえず明日はもう一度杉浦第三高校へ行く。呪物が今も学校にあるのか、すでに誰かに持ち去られたあとか判断する。話はそれからだ。
ベットサイドテーブルに伏せられたままのスマートフォンから着信音が鳴る。時刻11時15分。誰だ。どうせ五条先生だ。一回無視する。数秒開けず二回目が鳴る。寝っ転がったままスマホを手に取る。オレンジ色の間接照明だけの部屋は静かで、本当はそのまま眠ってしまいたかった。こんなにスマホがうるさいと眠れるものも眠れない。一瞬画面を明るくして通知を確認する。五条悟。ほら見たことか。
予想が当たったのに舌打ちが出そうになった。パスワードを入力する。021222。電話帳の履歴から適当に無記名の電話番号を選んだ。無意味な確信があった。コール音が一回、二回、三回。一つずつ増えていく。四回、途切れる。
「……もしもし、伏黒ですけど」
一瞬向こうが息を呑む。
『あはは、こんばんは。恵ちゃん』
「五条先生の着信がうるさいんで、寝るのに付き合ってください」
衣擦れの音がする。『いいよ』とよるさんが答えた。視界に入ったホテルの時計は11時23分を表示していた。
『かわいい後輩のお願いだからね、きいてあげる』
「そういうのは結構なんで」
『照れちゃって』
目を閉じる。俺は、この人のこういうところが本当に嫌いで、こんなに煩わしいものもないと日々溜息をついている。でも、そのやかましい手を取ってしまう。気づけば、諦めてしまう。

23.0606