色も形も声も匂いもあなた以外はわからない
静まり返った深夜の病室にスマートフォンのバイブレーションが響く。額の血を拭っていた看護師と視線が合う。なんで電源を切っていなかったのか。数秒後コールが途切れた。すみませんと謝れば、大人らしい微笑みで気にしないでください、と言われた。壁にかかる時計に視線を向ける。学校にかかっているような、丸いアナログ時計。時刻11時28分。そういえば昨日よるさんに電話をかけたのはこの時間だった。
「怪我したことを連絡しなくていいの?」
ずっと黙っていた看護師がぽつりと尋ねた。誰に。そう尋ねそうになって、スラックスの中のスマートフォンを思い出して口をつぐんだ。
「今じゃなくて大丈夫です」
誰に、と言わなかった。言葉足らずではあったが、目の前のその人にも真意はどうやら伝わったらしかった。額の中心から少し離れたところで、包帯を止める。手が離れる。処置が終わり、「ありがとうございます」と一言告げて立ち上がった。一礼して出て行く俺の背中に看護師より一言付け足された。
「キミ、大切なことは口にしなきゃいけないよ」
初夏の日差しが窓ガラスを突き抜ける。先客は馬鹿正直に窓の方向を向いて、眩しそうに目を細めながらドアの前に座り込んでいた。その光景を見ると、自然と抑えきれないあ溜息が口の隙間から漏れた。
「やっほー、お疲れ様」
「お疲れ様です。ここどこかわかってますか?」
「どこって……恵ちゃんの部屋の前?」
どうせ確信犯だとはわかっていたので、そのままドアノブをひねる。外開きの扉は案の定先輩__よるさんの頭にぶつかる。ゴン、という鈍く低い音が鳴った。
「痛った……ねえ今のさあ、絶ッ対こうなるのわかってやったでしょう」
うめきながら頭を抑えうずくまるよるさんのつむじを見下ろす。
「そりゃぶつかったら痛いと思いますよ」
「これ以上馬鹿になったらどうすんのさ……」
「突っ込みませんよ。色々とよるさんの自業自得でしょ」
いつまでも立ち上がる気配のない先輩の腕を引っ張る。抵抗はなくするりと素直に立ち上がった。同情はない。何を言えばいいかわからず、よるさんの目を見た。おもむろによるさんの手が俺の方に伸びる。病院で丁寧に巻かれた包帯をずらされ、傷を覗き込まれた。
「うっわ、頭、随分と綺麗にいったね」
「……これから家入さんのところいくんで邪魔しないでもらえます?」
「こんなんでもね、一応容体を心配してはいたんだよ。可愛い後輩が初めての遠方任務で四肢粉砕したらかわいそうじゃん」
「してないですよ」
よるさんの手が解いた包帯をたぐるように俺の額に触れる。僅かな傷に触れられて、痛みはないがえもいえぬこそばゆさが込み上げてくる。
「このあたりって出血の割に大したことはない傷になりやすいのはわかってるんだけど、まあ突然写真が送られてきたらびっくりするよね」
「ああ、あれ本当に送ってたんですね」
「電話には出ないし」
「……病院だったんで」
「折り返しもしてくれないしさあ」
面倒くさい人だ。心配して手を伸ばしてもらうほどの接点だとか、理由なんて何も教えてくれない。
「心配してたんですか」
逡巡。よるさんの瞳の奥に少しだけ迷いが見えた。それでもよるさんは「そうだよ」と笑った。迷子の子どもみたいに、笑った。
「心配したら駄目ってことはないんじゃない?先輩と後輩だし」
言い訳のように言葉を重ねるだけ重ねて、よるさんは俺から手を離した。
「硝子さんのところ行っておいでよ。荷物ならここで見ててあげる」
「別に部屋で待ってていいですよ」
「あれ、入っていいの?」
アンタが引き止めたんでしょとかそういう言葉は言っても聞こえないふりか、聞いたところで改善するようなものでもない。だから諦めた。よるさんといると諦めがつく。生活を侵食されるような、それでいて柔らかで、ぬるま湯にいるような安心感がする。決して嫌な諦めではない。だから一周回って馬鹿馬鹿しく思えてくる。もう一度ドアノブをひねり、今度こそ大きく開ける。
「もういろいろ諦めたんで」
よるさんの腕をひいた。もう既に何度も部屋に来ているのによるさんはお邪魔しま〜すと間伸びした挨拶をした。改まっているのかそうじゃないのか反応に困るやつを。
もともと大して深い傷ではなかったから、頭部の傷といえど家入さんの治療はすぐに終わった。白い、薬液の匂いが染み付いた部屋。一瞬だけ津美紀の病室がフラッシュバックした。目を閉じて、深く息を吐いた。背中に違和感。原因は家入さんの視線。
「……ありがとうございました」
振り返ったはいいものの、何をいうべきか測りあぐねて、軽く首だけで会釈をする。
「ああ。気をつけな。そうだ、あとよるに後で顔出すように言っておいてくれる?」
「どうして俺なんですか……」
「どうもこうも随分君達は仲がいいみたいだから。じゃ、よろしく」
「別に仲良くはないですよ」
家入さんどうかな、とだけつぶやいた。仲がいいわけじゃない。俺が単にあの人に振り回されている、それだけだ。仲も良くないし、お互い嫌い合っているわけではない、なんでもないのだ。
「あ、おかえり」
部屋のドアを開ければすぐによるさんと目があった。部屋の端で膝を抱えて、扉の方向を見ていたらしい。
「よるさんは図々しいんだが控えめなんだが全くわからないですね」
「こらこら、そこは言うべきなのは、『ただいま』じゃないの?」
大きくため息をつく。部屋中の酸素をこのため息一回で消費してやりたかった。死んだ顔のまま上着を脱ぎ、ハンガーにかけた。
「自分の部屋なんだからどうだって良くないですか」
「いや〜、どうでも良くないと思うけどな。試しに一回だけ言ってみなよ。言うだけならタダ!ほらほらほら」
「げ、まとわりつかないでくださいよ」
着替えようとする俺のそばまでわざわざ近づいてくるよるさんを遠ざける。部屋に居てもいいと許可するべきではなかったかもしれない。「言ったら出てくからさ」
後悔しているところに助け舟と言わんばかりに都合のいい言葉が出てくる。約束を守らないとまでは思っていないが、アンタがいなきゃこうはならなかったんですけどね、とは思う。4月からの浅い付き合いではあるが、この人のめんどくささは嫌ってほどにわかっている。横目でよるさんを見る。目が合う。よるさんは小首を傾げた。
「………………タダイマ」
「うっわ棒読み」
間髪入れずに手厳しい言葉が返ってくる。こういう時だけはまともなのは納得がいかない。
「……ほら、言いましたよ。着替えるんで出ててもらえます?つーか今度はこういう茶番抜きで帰ってください」
よるさんの肩を掴みそのまま出口へと歩かせる。入ってきた時と変わらず特に抵抗はない。ないなら自分で歩いて行って欲しかった。
「あはは、そんな恥ずかしがらなくても言いのに。棒読みも味があるじゃない、いいよ。初々しいしくてさ」
「そうですかよかったですね」
よるさんの軽薄な言葉には心を無にすべきだ。今日みたいに勢いよく乗り込まれた時には諦めるしかない。そう、触ったら負けだ。反省点を逐一書き出しながら布団に入った。
ああ、まただ。また、この人の夢だ。指に挟まる砂を払うように大きな歩幅で歩き出す。
こうして細かい傷を治した後には、決まって短い夢をみる。同じではないが、似た夢。俺は1人ではなくて、誰かがいる。夢の中ではいつもこの人だ、と思うのに、起きてしまうと誰か思い出せない。でも、なぜだかよく知っているような気がする。花の匂い。夢は出鱈目で、裸足で暮れかかる砂浜を歩いていたと思ったら、いつものスニーカーで真昼のアスファルトの上だったりする。ぱっと、画面が切り替わる。
桜がはらりと落ちる。川面が光る。春の夢。そういえば、違う川だけど、夏には花火が見れることで有名な川があるとテレビで聞いたことがある。何も興味がなかった自分の曖昧な知識に真っ先に苦笑いがでた。
「約束は守ってもらわないと困りますよ。花火見たことないとか言ってたのはそっちでしょ」
ため息交じりにあの人の言葉を待つ。約束は守ってもらわないといけない。そもそもそういうことを言い始めるのは、いつだって……。
桜が作る淡い影が歩道に落ちている。あの人が振り返る。光を背負っているから何もわからないけれど、笑っているような気がした。桜色に色づいたあの人の唇が動く。恵ちゃん。知っている呼び名。
「今度はいい春になるといいね」
彼女が踊るように振り返る。黒い髪が光を集めて、綺麗だった。数歩先、俺の先を歩いているあの人がそう、笑う。笑っていた。逆光でも、わかった。
23.0606