夢から覚めても呼吸はつづく
誰もいない部屋で目が覚めた。日の入る時間が終わったようで、寮の廊下には全て薄い灰色の影が降りていた。軽く息を吐く。肩甲骨を剥がすようにぐるりと腕を回した。夢を、見ていた。春の夢だ。笑ってしまうくらいに平穏な、春下がり。……息が乱れている。
冷蔵庫を開けてミネラルウォーターを取るという作業さえ面倒くさくて、そのままグラスを手に取って蛇口をひねって水を注いだ。塩素の鈍い匂い。乾燥して張り付く喉へぬるい水道水を流し込む。外がやけに騒がしい。嫌な予感がしたが、無理をしても把握しておくべきのような気がしてドアノブを開く。五条先生と虎杖、それからよるさん。
「げ、隣かよ」
「恵ちゃんじゃん、おはよ」
よるさんからは顔を逸らす。
「……空室なんていくらでもあったでしょ」
何一つ空気を読まないで、虎杖が「お、伏黒!今度こそ元気そうだな!!」とこちらに向けて手を上げた。五条先生は悪びれず虎杖の部屋のドアを閉める。
「だって賑やかな方がいいでしょ?よかれと思って」
「授業と任務で充分です。ありがた迷惑」
ドアの隙間から覗き込む虎杖の顔ごとドアを閉める。
「悟、あんま恵ちゃんいじめないでくれる?」
「……先輩がいいます?」
「わたしはいじめてないよ、からかってんの」
「同類でしょ」
「まっ、いいっしょ!!それより明日はお出かけだよ!」
良くはない。五条先生は勢いで押し切るつもりらしい。近いうち殴った方がいい気がする。ムカつくぐらいに明るい声に自然と苛立つ。
「三人目の一年生を迎えに行きます」
時折勘違いされるが、別に他人と暮らすことが不快なわけではない。家族揃っての生活とは縁がなかっただけだ。確かに、賑やかな場は得意ではない。でもまあ、受け入れる、それだけならそこまで難しいことではない。ないが。ストレス。自然と眉間に力がこもる。賑やかな奴らをどう思うにしろ、勝手にやっていればいい。だが、それとこれは全くの別物だ。これはおそらく『賑やか』なんて言葉でまとめるものではない。苛立ちを噛み殺しながら、やかましい、とローテーブルを指の腹で叩く。
「コーヒーかなんか飲む?確か……この辺にカップがあった気がする」
「先輩、俺紙コップ持ってこよっか?」
「ん〜、いや、確かふたつくらいはあったんじゃない?」
「や、ふたつじゃ足んねーじゃん。俺ら三人だから」
虎杖の言葉に「そっか」とよるさんがふわふわした返答をする。
関わったら負けだ。しかし、沈黙に効果があるのか。
水を入れて換気扇のスイッチを押す音。「あ。恵ちゃん、やかん借りるね」事後報告。よるさんの横暴さに慣れたとはいえ、全部を諦めたわけではない。虎杖と並んでコンロの前に立つ二人の背中。とりあえず一杯飲ませたら無理にでも帰そう。
台所の上に備え付けられた棚を開けて、ううんと首を捻っていた虎杖がこちらを振り返った。
「なあ伏黒、カップって2個だけ?」
振り返った虎杖は両手を掲げて俺を呼んだ。右手に普通のサイズの白いマグカップ。左手は少し大きめの黒いカップ。
「それだけだな。つーか、オマエ、本当に飲んでくつもりかよ」
「え、ダメなの?」
「……とりあえず飲んだら帰れよ」
「つれねえな〜」
「いいのいいの。恵ちゃんのいうことはひとまず置いて」
「おかないでもらえます?」
よるさんは下手な鼻歌を歌い聞こえないふりをした。
「わたしの分はいいから恵ちゃんと悠仁で飲みなよ」
「え、悪いよそんなの。淹れてもらたったのに」
「……俺の部屋だけどな」
「コーヒー苦手で飲めないからいいの」
「へー、意外!よるさんが大人っぽいし好きかと思ってた」
「人は見かけによらないってことよ。じゃあ悠仁はブラックコーヒー飲める?」
「………………ウィッス」
「あはは、無理しない無理しない!大丈夫、わたしもブラックコーヒー飲めないからさあ。砂糖も牛乳もたくさんいれな〜、いやあ素直な一年坊っていいねえ。新鮮〜」
よるさんがのしかかるように俺の肩に手をのせる。顔を覗き込まれる。つくづくかわいいだの可愛くないだの評価が安定しない人だ。
「なんですか」
無遠慮な視線を振り払うことさえ億劫だった。抵抗しようとこれが終わったら部屋から追い出す。もう決めた。
「こっちの後輩は一ミリも可愛げがないな〜って」
「別に」
「噓だよそういう可愛げの欠片もないとこが可愛いからさ、安心してね」
「……黙ってもらえます?」
「あはは、ウケる」
どの辺が笑うほど面白いのか、理解できない。この人の前で不快さを表すのは無意味だ。わかっていても顔に出る。
「なあよるさん、他の先輩方って何してんの?」
「呪い払ってるよ」
「へー、ってそうじゃなくて……!」
「詳しい土地とか任務内容は流石にわかんないよ。いま繁忙期だもん」
「呪術師にも繁忙期とかってあんだね」
「……おい、他所でやれよ。もうコーヒー飲んだだろ」
限界だった。虎杖とよるさんが揃ってこちらを向く。悪意のない視線に苛立ちが重なる。そう、こいつらに悪意はない。それが甚だ不快なのだ。小さく軽い不快さが澱のように沈澱していく。
「えー、いいじゃん。ちょうど三人揃ってんだから」
「別に集まるんだったら、虎杖の部屋でも問題ないでしょ」
「悠仁は入寮一日目じゃん。これから片付けとか色々あるんだから……恵ちゃんの部屋で問題ってある?」
「俺は自分の部屋でひとりになりたいんで」
自分の部屋、を強調してふたりに告げる。邪魔だ。
「えー、じゃあ悠仁の部屋に移る……?」
「俺の部屋……?」
虎杖が救いを求めるように俺を見た。一年が増えるってことはあの面倒くさい先輩たちのシゴキやイジリも分散する、ということだ。立ち上がって、換気のために窓を開ける。虎杖には悪いが、あとは任せた。
「じゃあ残念だけど、ふたりきりだね」
「……ウッス。あの〜、先輩……ここで言うのもなんですけど、ひとついいっすか」
「どうしたの?」
「女子をこう、部屋に呼ぶの初めてなんすけど……」
「うわっ、それとてから借りた漫画で見たことある!えっ、なになに、ってことは。悠仁はそういうの大事にするタイプ?」
「……まあ……あの、結構」
誇張して芝居めいた言葉の数々に背中がむず痒くなった。マジでふざけてんのか。
「そういうわけで伏黒、頼む!」
「断る」
「頼むって、いくらなんでも、流石に伏黒の彼女とふたりきりなのは気まずい!」
は?
「……今なんつった?」
「え。伏黒とよるさんってそーゆーのなんじゃ……?」
虎杖の言葉によるさんが顔を背ける。表情こそ見えないが、背中が笑いをこらえるように小刻みに揺れている。この人の感性が理解できない。
「え、だって。この前電話したかったのに二人が話し込んでて無視されたって、五条先生が……」
「ちょっとよるさん笑ってないで訂正してください」
「あはは、いや〜、悠仁ピュアだな。それ、悟の出鱈目だよ。こんな簡単に騙されちゃうもんなんだね〜」
「え?」
「五条先生のいってることは9割方テキトーだぞ」
「え?!」
「恵ちゃんやさしーな、わたしなら悟のいうことは信頼すんなっていうね」
「ええ〜……」
困惑。だが。そんなことない、というフォローの言葉はない。むしろ、この一日二日を思い返しているようだった。虎杖の眉根が悩ましそうに歪む。異論はないらしい。
「まあ、前提としてまず高専の中で付き合うとかフツーに馬鹿だよね」
「そんなもん?」
「いわば職場恋愛じゃん」
「あー、なるほど……ナルホド?」
「職場がどんなものが知らないけどね」
「……高専は人が少ないし、ちょっと関係こじれただけでも厄介なのに、さらに恋愛のごたごたが入ってくると面倒くせえだろ」
虎杖が立ち上がって、部屋の隅で手招きする。よるさんに視線をやる。「恵ちゃんじゃない?」虎杖が赤べこ並み、いやすこし速度の速い赤べこのようにうなずいた。
「なんだよ」
「なあ伏黒、もしかして……よるさんってちょっとやばい人?」
「普通にクソ女だろ。いっとくけど、こういうのもよくいる」
「よくいんの?!東京こっわ……」
「あの人の場合はぎりぎりクズまではいってないからマシだと思うぞ」
「うわ……」
顔を寄せた虎杖がひそめた声で呟く。今にも顔尾を覆ってしゃがみ込みそうな姿に俺はひとつ同情を送った。いくら潜めた声だなんだと言っても、カサカサしただけの声は意外と聞き取れる。
「おーい、全部聞こえてるよそこの後輩ふたり」
それで、話は全部終わった?という空気の読めない言葉を聞きながら、俺はやっぱりため息をついた。
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