毒を飲むまで眠れない
なぜ、偶然見かけただけの『それ』を手に取ってしまったか。わざわざ頭の中で言葉にして議論せずとも理由はわかっていた。見せびらかすことでもないから誰にいう気もない。ただ、やめときゃ良かった、とも思っていない。
書店の紙製のブックカバー。景気の悪化と共に薄く軽くなる紙。その薄い紙の向こうに深い藍色の表紙が透けて見えた。全く鮮明ではない。けれど見抜こうとしたらいとも容易く見抜かれるだろう。らしくない選択を見抜かれたくない。いつも使っている布製のブックカバーと迷って、やめた。理由は自分でもわからない。印刷された書店名をなぞった。
喉の奥、気管の先、あらゆる内臓の最終地点。思い出せ、と繰り返し言っている。文庫本特有の生成り色の薄紙を指の腹で捲る。文字を追いかけるように没頭する直前に「忘れて」女の声がした。耳鳴りが海鳴りに重なる。
「あれ、よるさんじゃん。どったの?伏黒ならそこいるよ」
よるさん、という名前に思わず本を閉じた。
ほんの一ミリのやましさ。ひっくり返して、表紙側を下にする。別に何もやましいことなんてない。それは、どう見たって事実だ。でも、確かに消化できない何かが喉に引っかかっている。
「や、今日は恵ちゃんじゃないよ。わたしが用事があんのは野薔薇」
「あ、そういう場合もあるんすね」
「悠仁はわたしのことなんだと思ってんの、っていうか、流石にこれだよ?恵ちゃんっていうか君達には縁もゆかりもないでしょう。もちろん、ほしいならあげるけど」
「どれっすか?……あ〜、これは確かに……」
教室の扉の前で虎杖とよるさんが顔を寄せ合う。ふたりで何か手元を覗き込んでいるようだったが、この距離からでは何もわからない。
「あれ、よるさん。どうしたんですか?伏黒ならさっきからずっとそこで暇してますけど」
釘崎の人差し指が遠慮なく俺に刺さる。
「今わたしが用事あんのは恵ちゃんじゃなくて野薔薇だよ」
「え、そうなんですか。よるさん珍しいですね、なんかあったんですか?」
「そうそう。部屋整理してたらこういうの出てきたけど使う?」
「なんですか?ってうわ、すごい量ですね。これ全部コスメですか」
「多分ね。ほぼ未使用だから欲しいのあったら持ってって。化粧品以外でも使えそうならもらってくれない?」
「え、悪いですよ」
よるさんと釘崎が盛り上がるなか、虎杖が俺の肩を慰めるようにそっと叩く。虎杖の手を振り解きながら「なんだよ」と問えばなんとも言えない視線を浴びせてきた。なんなんだよマジで。
正直、よるさんと意見が合致するのはなんとも言えない不快さがある。あるが、本当にこいつらは俺とよるさんを一体なんだと思っているのか。
「流石にこういうのを恵ちゃんに押し付けるわけにも行かないじゃん?」
「こっちに話題の矛先向けないでもらえます?」
「ちょっと寂しかったくせに」
「誰が」
釘崎に紙袋を渡したよるさんが笑いながらこっちへ向かってくる。今手持ちないんだよねえ、と嘯く。机に伏せた文庫本によるさんの指が伸びた。白い指。クラフト紙の乾いたブラウン。よるさんが表面をなぞる。
「あはは。でも珍しいね、恵ちゃん」
「何がですか」
「ブックカバー。いつもの布じゃなくて本屋さんでかけてもらったヤツのままじゃん」
「あー。言われてみれば、でも俺気付かなかったわ」
素直に感心している虎杖の声を横目に俺は本をカバンにしまう。よるさんの指が所在なさげに揺れた。
「……普通気にしないだろ。っていうか、だからなんですか」
「珍しいねー、って話だよ、そんなイライラしないで」
「イライラさせてんのは誰ですか?」
◇
「夢というものは新しい記憶と古い記憶が混ざり合ってできるものだよともいうよね。それはまあ、科学的な理解で無理矢理に理屈をつけるなら、の話だ」
朝一番で呼びつけてする話がそれか、と寝不足で痛む頭をそのままに五条先生に向き合った。適当なことを言われたら体勢が崩れるのも当然で、俺は背中を壁に預け、半分見下ろすように五条先生に姿勢をやる。
「それがなんですか」
「恵、酷い顔してんじゃん。寝不足?」
「…………別に。大したことはないです」
寝不足?わかりきった言葉を投げてくる。答えたくないから奥歯を強くかんだ。答えないことに意味を見出したらしい五条先生が、足を組み替える。椅子のリクライニングを思いっきり倒しながら口角を上げた。
「たかが寝不足、されど寝不足、ってね。古来から、夢と呪術は深く関係してきた。ここまで言えば優秀な恵ならわかるよね?」
いつかもこんな会話をしたような気がする。ただの夢じゃないなら呪いだって言いたいのか。指の間隔が首回りによみがえってきて、思わず首を触った。
「恵、せっかくなら悪い呪いは殺してあげようか?」
「……祓うんじゃなくて殺すんですか」
「よく気が付いたね」
夢を見るだけで、それ以外に不都合なことはなかった。眠りが浅いのはあの夢を解き明かそうとするからだ。
「知りたくないの?夢の正体とか、仮に呪いだとすると、誰がやってるのかとか」
「たとえ寝不足で悩んでたとしても、相談するなら五条先生だけは選びません。原因を知る人に聞きます」
「へえ?参考にまできくけど、誰?」
忘れて、と泣くあのひとの言葉通り。俺は覚えていない。忘れているものを何かを繰り返している。繰り返して繰り返して繰り返して、壊れたラジオだと諦めるのを待たれている。謝るくらいならしなければいい。泣くくらいなら初めから出会わなければいい。それでもそうなれなかったということだけは理解できた。
「こころあたりは、あります」
恵ちゃん。耳の中で繰り返される言葉。何も知らないはずの五条先生は「ふーん」と訳知り顔で相槌を打つ。
「あ。そうだ恵。これ、病院から連絡あったから」
「まず真っ先に渡してくさだいよ」
津美紀のいる病院。真っ先に連絡がくるのは俺でなく五条先生であるところが歯がゆかった。俺には何の力もない。
23.0606