手触りのいい檻

封筒を抱えて自室へ向かう。部屋に帰ったら中身を見ることが憂鬱だった。どうせなにもわからないとだけ書いてある。何もなさないものを抱えている、と思うと足が重い。わざわざ遠回りをするほどには、滅入っていた。
湿度が肌に張り付く不快感。雨こそ降っていなかったが、気分が変わるような天気でもない。どこにも行けないと暗示をかけるように、薄暗く濁った雲が空を覆っていた。何をするでもなく、雲を睨む。睨んだところで意味はない。
「恵ちゃん」
聞こえてはいたが、振り向くのも面倒で黙っていた。「あれ、聞こえてない?」なんてことをいうよるさんが煩わしい。纏まりのない思考がもっと馬鹿馬鹿しく思えてくる。
「ねえ恵ちゃん、これいる?」
性懲りも無く「おーい、恵ちゃん」と繰り返す。することもないししたいこともない。ため息をついて振り返った。よるさんは自室の窓から顔を出していた。箱を差し出される。木箱だ。
「要りません」
整った木目調の箱から目をそらす。このひとが俺に押し付けるもので全うだったものなんてひとつもない。俺の返答に
「じゃあ捨てといて」
「自分で捨ててくださいよ」
ケチ、よるさんが小さく呟いて、それから箱を開けた。中に入ってたのは鍵だった。普通の鍵。どこかの一般住宅に使われる無数の丸い凹凸がついた鍵。高専の寮のカギとは違うメーカーの名前が刻印されている。
「それ、捨てていいものですか」
「うん」
「家の鍵、ですよね」
答えはない。肯定も否定もなく、よるさんが鍵を手に取って、光を集めるように傾ける。鍵は微かに光を反射した。曇りの中でも光は照明からでて、微かに散乱する。言葉を探す気配がした。いつもより視線が遠くを見ていて、この人にもそういう最低限の誠実さがあったことに今更気づく。
「昔の家のだね。正直、あの家のことはあまり覚えてないんだけど。まあ、正直、〜、ほんとうにたいそうな理由もなくさあわたしが持ってたところで……って感じじゃない?せっかくなら整理できるうちに片をつけちゃおうかな〜って」
雲が動いたのかゆっくりと影がうごく。仄暗い午後がもう一段暗くなる。よるさんの横顔は影に飲み込まれた。
「物ってさあ際限なくふえるじゃない?生活してれば当然なのはわかるし毎日掃除はしてるけどさあ。去年グルメブームがきてさ、そん時にいろいろ鍋とかいい包丁買ったけど結局忙しくて刹那の道楽で終わったものね。無駄にでっかいからあれすてるの面倒くさいよ。あとさあ」
「なんで突然、整理を始めたんですか?」
堰を切ったようにしゃべっていたよるさんが薄く唇を開けて俺をみる。何かをいおうと一瞬、ほんとうに一瞬だけ唇を震わせたが、よるさんはなんでもないように、微笑みを形作った。
「明日から遠出の任務だから」
「本当にそれだけならそこまで派手に捨てる必要ありますか?」
「……どうでしょう。じゃあ、恵ちゃんはなんだと思う?」
「言ったら答えてくれますか」
「さあ。恵ちゃんの回答次第かな」
よるさんは綺麗に微笑んだ。心音は平常通りで、耳鳴りもしない。俺の感情は動かない。目の前の視覚的に美しいだけの表情をするよるさんの目を見る。こういう顔をした時のよるさんは隠し事をする時だ。
「部屋上がってくでしょう?積もる話をしようじゃありませんか」
腕を掴んでそのまま部屋に引き摺り込もうとする。やっぱりこの人は何も考えていない馬鹿なんじゃないのか?
「行くわけないでしょ」
「どうして?」
「どうしてもこうしても……。そもそもここ窓だろ……たとえドアだったとしても行く理由も行きたい動機もないです」
「え〜……じゃあ、じゃあさ、コーヒー飲まない?」
死ぬほど適当なナンパ男と同じことを言っている。へらへら笑う道の障害物を想起させるそれに顔が歪む。
「あるんですか?自分は飲めないのに?」
「恵ちゃんに淹れてあげようかって話。最近ね、コーヒー淹れる練習してんの。伊地知さんとか悟とかに」
「今日伊地知さん事務仕事してますよ」
「なんか連絡しても留守電だし既読つかないんだよね」
「諸々理解したんで遠慮しておきます」
「遠慮とかするそういう性格じゃないでしょうに、恵ちゃんは」
よるさんがふと俺の手元を見た。それから封筒に目を留めて、何かを飲み込むように、ふうん、と頷く。腕を握るよるさんの右手が緩み、距離を取った。「逃げる猫じゃないんだから」と、窓枠に肘をついてよるさんが目を細める。
「……コーヒーなら、あの喫茶店でいいでしょ」
「そう。なら、スコーンは食べる?美味しいジャムあるけど」
「ここで食べさせるつもりですか?」
「嫌なら部屋においで」
「食べないし行きませんよ。これ以上変な目で見られたくないんで」
休日なのによるさんは制服だったことに今気づいた。それを指摘する機会を失っているから、言わないが、なんとなく哀れではあった。
「変かな」顔を傾けると長めの前髪が顔の半分んを覆った。黄色い左目に「変ですよ」と答える。
「まあいいや。お土産買ってきてあげるね」
満足そうに俺にそう言い退けたよるさんの顔を見る。
「別に入りませんけど」
「んじゃ、舌がバカになりそうなくらい甘いお菓子探してくるね。しびれちゃうくらいの」
「自分で処理してくださいね。俺は食べないんで」
「絶対?」
「はい」
即答。よるさんは、いつも通り「かわいくな〜い」と口を尖らせた。勝手に言わせておくが一番だ。そもそも俺はかわいくなくて結構だって何度言ったらこの人には伝わるんだろうか。
「ね、じゃあさ夜、電話してもいい?」
「結構です」
「そういいつつ恵ちゃんはしたじゃない。ねえだめ?真希に昨日から今日までずっとブロックされてて今夜からさみしくて死んじゃう」
「勝手にしてください」
「酷い」
「禪院先輩がだめなら他にいないんですか?」
「パンダは早寝だし棘は電話だけだとわかりにくいじゃん」
「乙骨先輩は」
「なにいってんの……恵ちゃん。向こうは真昼間でお仕事中だよ?そんな迷惑かけられないでしょう」
「俺にとって夜は睡眠をとる時間ですよ」
嘘つけ。最近は眠りが浅いくせに。脳内の五条先生が指を刺した。目の下の隈に気づかれないようによるさんから顔を背ける。
「ほんっっっとに、ダメなの?」
「うだうだいってないで早く終わらせてくださいよ」
「恵ちゃん、つめたい。なんか、万年反抗期で逆に面白くなってきた」
「普通に聞きたいんですけど、その態度でなんで慰めてもらえると思ったんですか?」
まるでここを去る予定でもあるみたいじゃないか。そういえば、読んでいる本の中にそんな話があった。星に、太陽に、そこに自分を連れて行ってほしいと頼むよだかの話。
よるさんはあはは、と声を出して笑った。無理矢理取り繕ったような。
「じゃあわたしがいなくても恵ちゃんは大丈夫だね」
ある種の捨て台詞のような言葉で、鼓膜がささくれ立つ。思わず顔を見た。でもそれ以上よるさんは何も言わずに手をひらひらと振る。当てつけのようで、祝福のようでもあった。

部屋に戻る。そのまますぐ封筒を開けようとして、やっぱりやめた。そのまま書類ケースの中に差し込み、代わりに昨日一日中読みこそねていた本を読んだ。
書店の名前が印刷されたブックカバーを剥がす。現れた表紙には有名な童話の名前が記されている。長編風を気取っているが、実質的に短編集で1、話1話の長さは大したものではない。童話集に入ってる話は、説教くさいことを含めてどこにでもある話だった。読み終わったら、どうしようか。捨てるべきか、売るべきか。本棚に並べるにはらしくないと笑われるような気がした。結局手持ち無沙汰で置かれた本は、スマートフォンの隣に並べておいた。

その晩、夢は見なかった。

朝起きて一番に、昨日起きっぱなしにしていた本が目に入った。新訳、銀河鉄道の夜。先の解れたしおりを引っ張って、【ページ数】ページを開く。欲しい答えはそこには載っていないことなど知っていた。結果を知ってもなお、文字を追いかける。寓話の中にある答えなんて笑うくらい絵空事だ。でも、それでも、あの人のことが少しはわかるような気がしていた。

「よるさん」
荷物を傍らに置いて、よるさんは水を汲んでいた。遠出だという割には小さく、いつもの手ぶら当然よりは量があった。壁に青い傘が立てかけられていた。
「なに?」
よるさんは蛇口をひねって水を止めた。俺は緑色のジョウロを持ち上げる。小中学校でも見たことのあるなんてことのないジョウロだった。そこそこの量が入ったせいかずっしりと重たい。
「水やりの代わりってわけじゃありませんけど……帰ったら話あるんで。とりあえず帰ってきたら俺の部屋まできてください」
「え〜……」
いつもは言わなくても、やめろと言っても来るくせに、こっちから頼むとこのザマだ。
「夢の話です。よるさんにしか話してないんで。別にやましい話でもなきゃ、恥ずかしいものではないです」
「流石にそれはわかってるって。いいよ。恵ちゃんの部屋まで行けばいいのね、オーケーオーケー任せて」
「本当ですか……?」
「そんな疑う?」
「今まで散々な目に遭ってきたんで」
「あー、悟?」
「否定はしませんけどよるさんも大概ですよ」
五条先生の名前を引き合いに出すとあからさまに顔を顰める。流石のよるさんでも五条先生には思うところがあるらしい。よるさんが仕方ないなあ、と小指を差し出した。
「指切りでもする?そうしたら信じられるでしょう」
「そういう問題ではないと思いますよ」
「いいじゃない、ほら。ゆびきりげんまん嘘ついたら針千本のーます」
勝手に決めて勝手に俺の小指を絡めとると、よるさんはおまじないを唱えた。簡素な呪い。約束というよりも一方的に呪われたような気さえする。
「あ、針のお代は恵ちゃん持ちね」
「千本飲む前提で話したら意味なくないですか」
「あはは!」
それはいえてる、よるさんが他人事のように頷いた。帰ってきてください、とはいえない。思ってもいないし願ってもいない。でも、全て忘れたいわけではない。誰かが忘れてと懇願する。そんな馬鹿な願いは聞いてやれない。……何もかも諦めた顔でいて欲しいなんてことを願うほど俺はひとでなしではなかったらしい。

23.0606