雨後にとけゆく残留思念

「おい伏黒、ちょっとツラ貸しなさい」
「なんだよ……」
釘崎が仁王立ちで腕を組む。バスケのディフェンスのように、虎杖が俺の進路を塞ぐ。訳のわからない行動に俺はため息をついて降参した。キレている人間を放置するのも得策ではないし、そもそも完全なる前釘崎側らしい表情の虎杖を振り払えるわけがない。
「アンタらぶっちゃけどうなってんのよ」
「よくぞ聞いた釘崎。付き合ってないっていってたけどどうみても付き合ってる距離感じゃん!」
「昨日のは何よ、帰ってきたらどうのこうので……ゆびきりまで……」
「見てたのかよ」
「見てたわ!始めから終いまで!!」
朝早かったし誰もいないと踏んでいたのに。よりによって一番見られたくないところを見られたらしい。
昨日触れなかったなら今日も黙っていればよかったのに。蛇口を捻ってジョウロに水を溜める。
「1日ヤキモキしてたの。改めてこう思ったわけよ、なんで私が他人のことでこんなに悩むなんておかしくない?って」
「……どうでもいいだろ」
「いいわけあるか!見ててなんか、こう、わかる?なんかもう見てて焦ったいのよアンタ達……で、なんなわけ?付き合ってるわけじゃないのよね?」
「逆になんで俺があの人とそういう関係にならなきゃなんねーんだよ」
傾けていたジョウロの口から水が止まる。ふたつだけ水滴が落ちた。軽くなったそれを戻しに行く。釘崎が虎杖に向かって「アンタも何か言え!」と吠える。
「釘崎のいいたいことはわかる」
「わかるのかよ」
「いや、なんつーの?よるさんてさ、爆速で距離縮めてくるじゃん、初対面の割にはさ。すぐ下の名前で呼ぶし、パーソナルスペース狭いし……」
「あの人、同級生にもああいう態度だからな。今はいないし後輩でこき使ってるだけだろ」
「じゃあなんなのよあの会話。ただいちゃついてるようにしか見えねえっつーの」
「なんでもかんでもそういうふうに見んな。全部ふわっとした根拠だし、オマエらの見方だろ。説得力のある証拠を出せよ」
「うわ……さっすがに証拠とか根拠とか言われてもわかんねえかも」
「本当ガキね、アンタ達」
さっきから特に進展しないくだらない言葉を交わしながら虎杖と釘崎がついてきた。



「恵ちゃん」
女が俺を呼ぶ。困ったように、呆れたように、全部を諦めたように「忘れていいよ」と告げる。毎晩、救いのように夢の中で女が囁く。繰り返し、繰り返し、繰り返し。同じ映像だけを見ている。マットレスの軋む音。首にかかる指。窓の隙間から入ってくる春の夜風。顔も名前も残さない。なるほど、忘れるとはこういうことだろう。そのくせに忘れろという言葉だけが残っている。


汗は背中にたまってシャツとジャージを濡らす。休めと先輩達はいうが、一瞬だけ足を止めることさえ許せなかった。強くなりたい。変わりたい。今度こそ、こんな目に遭わせないために。そうだ、そのために俺はこの場所にいる。俺が力を振るうのは、俺が助けたい人のため。最悪俺が____。
とりあえず着替えて、今度が走りこみをしようと寮への帰路につく。高専の舗装された石畳。白い石。数メートル先の黒い塊。ちょうど等身大。一歩近づく。黒い髪と黒い制服。投げ出された左手。
血の気が引いていく。「よるさん」なんの確証もないのに声が出た。駆け寄って身体を起こしたとき、何が生暖かいものが触れる。赤。血。驚くほど冷静に事象を受け止める自分に驚く。
脱力した身体。抱き起こすと、よるさんがゆっくりと瞼を開ける。充血した目。
「……恵ちゃん?」
そんな顔しないでよ、よるさんの手が俺の頬を撫でた。泣いてなんていないのに。持ち上げるので精一杯の左手がか細く揺れている。ぎこちなく、中途半端に曲がった指。何馬鹿なことをやってるんですか。言葉にしたかったのに、できなかった。

処置を終えた家入さんが医療用の手袋を脱いだ。うすら青いそれにまとわりつくように赤黒い血液が付着している。
「助かったよ、あと一時間でも発見が遅れていたら危なかった」
「そう、ですか」
「どうしても傷口から毒がまわっていたからな。でも左の指を切るだけで済むなんて温情だろう」
今度はなにもいわなかった。医務室のちいさなスツールに腰をおろす。津美紀のときもこうだった。横たわるよるさんを横目で見た。白いシーツの中に埋まる。白いシーツを黒く細かく刻むように長い髪が散らばっている。随分と長い髪だった。いつも結わえているからわからなかった。
「…………めぐみちゃん、ごめんね」
横たわったまま、瞬きだけをした。いつ目が覚めたのか。
「謝るくらいなら五体満足で帰ってきたらどうですか」
家入さんに報告したほうがいいのか。立ち上ろうと重心を掛けむけた俺によるさんが「恵ちゃん」と繰り返す。壊れたガラクタのように「なんですか」ということしかできない。もし、仮に、この場に立ち合わせたのが虎杖だったなら、アイツならなんて言っただろうか。両手を固く組み合わせ、膝に置いた。まるで碇のように重く。鋭かった。
「恵ちゃんは、寝ないの?」
「……よるさんには関係ないでしょ」
「あるよ。だってわたしの後輩じゃん、君達は」
君達。それが誰と誰を含むのかわかってしまって、膝の上で硬く組んだ指を見つめる以外できなかった。滅多に二人称を使わない人の使う言葉はあまりにも正直だった。『遠出』だったこの人の耳にまで先日の少年院の件は及んでいたらしい。つくづく狭い世界だ。
「……虎杖を、ああいう状態にしたのは、俺です。私情を、任務に持ち込んだ挙句、虎杖を死なせたのは俺です」
沈黙。血色の悪い顔が、はは、と口角を上げた。
「……電話くれればよかったのに」
「しないって言ったでしょ」
「しんどくなったらいつでも話聞くって言ったでしょ。ほら」
よるさんの左手がおぼつかない様子で俺の目の下をなぞった。薬品の匂いがする。オキシドールのような、もっとキツイ薬品のような。震える指はこの前よりずっと軽い。包帯で膨れた手。
「隈が、ある」
知っていた。でも。いや、だからこそ俺は肯定も否定もできなかった。
「よるさんは俺の一体なんなんですか」
「なんだろうね」
何なら名乗って良い?続いた言葉は、驚くほどよるさんらしくなかった。
「俺は」
俺は。
「……今まで通り面倒臭い先輩でいてくださいよ」
静かな夜だった。薬品の匂い。布越しでも、少し熱っぽい指だった。人が死ぬ時と同じ匂いがしている。けれども、目の前の人は図太く生きていた。あはは、と覇気のないよるさんの笑い声は痛々しかったが、少しだけ死人の気配が遠くなる気がした。
沈黙。
雨が降り始めた。まるで沈黙を嫌がるように。窓ガラスに細かい雨粒がぶつかってくる。真っ逆様に振る。ここは狭い車内ではないから、雨音が透明に聞こえた。
布団からはみ出たよるさんの右手を握る。彼女が眠っていないのは知っていた。横になったよるさんの肩がぴくりと跳ねたから。

もう何度目かもわからないが。またあの夢だった。まず初めに呆れが出た。こんな呪いを掛けた呪術師は、どうしようもない奴だということは確かだ。
いつも不鮮明なものが少しだけ鮮明だった。指から伝わる少し低めの体温。震える唇が「恵ちゃん」と動く。知っている。「ごめん、全部忘れて」こめかみが痛む。「怖くないよ。大丈夫、安心してね」強烈な既視感。俺はこれを知っている。これは本当に夢か?
「おやすみ」
さざ波のような声だった。その人が俺の目尻を拭う。離れていく。夢は所詮夢でしかない。繰り返し。生産性のない無感情な再放送。
何もつかみきれず、目を覚ます。まだ夜だった。カーテンの向こうから差し込む白い街灯の明かりだけが床を照らす。
けれども自室と違う景色に一瞬混乱したが、自分以外の気配に現在地を思い出す。そうだ、ここは医務室だ。薬品の混ざった匂いが鼻に戻ってくる。
視線は目の前で寝息を立てるよるさんに落ちる。
もう少し眠ったほうがいい。わかってはいたが。瞼を閉じても眠気は戻ってこない。瞼の裏に散らばる光の粒子を追いかける。時計の秒針が進む厳格な音。沈黙さえ音になりそうな部屋で、小さな寝息が聞こえていた。
聞きそびれた質問を再度舌先で転がす。よるさんの寝顔はどこかあどけなかった。夢の中で繰り返し忘れてしまえという女は、誰だと思いますか。俺は何を忘れたんですか?
触れ合った指先で低めの体温が混ざっていた。
「本当は、アンタじゃないのか」

23.0622