屋根の下だと悲しくならない

休憩でもするか、と一時的に切り上げられた体術指導に、首や額に吹き出していた汗を拭った。正面に立つ真希さんが腕を組み「恵、オマエさ」と見下ろしてくる。
「恵はよるのどこが好きなんだよ」
真希さんが胡乱な視線を向け「どうなんだよ」と詰め寄ってくる。何が言いたいのか何もわからなくて、ハ?と声をあげるしかできなかった。真希さんの意図はわからない。しかし、通りがかりの釘崎が「確かに気にはなるわね」と応戦し、すぐに苦虫を噛み潰すように「やっぱりいいわ」と吐き捨てる。どっちだよ。いや、どっちも意味はこれっぽっちもわからないが。
「誰が誰をどうだって言いました?」
「恵がよるを好きだってやつだよ。すっとぼけんな」
帰ってきた言葉に再度硬直する。俺が、…………好き?何度聞いてもしっくりこない質問のせいで、眉間が重くなる。まさか、と思いながら訪ねる。真希さんは飄々とした表情だった。特大の爆弾を人に投げ入れた自覚はないらしかった。
「俺がよるさんを……?あの、よるさんってあの人ですか?」
「うちによるはひとりしかいねえだろ」
言われてみればその通りでしかない。ないが、なかなかそうですか、と納得できるものではない。大きな溜息をついて、真希さんに胡乱な視線を向けた。
「……俺とあの人見ててよくそんなこと言えますね」
よるさん。癖が強くてとんでもなく面倒臭い、加えて後輩に容赦ない今の2年の中でも、群を抜いて面倒くさい人。
いつも愛想笑いを貼り付けていて、すぐに怪我をこさえて帰ってくる、あの人。
「逆だぞ、恵。いっつもオマエらを見てるからわかるんだ」
「しゃけしゃけ」
パンダ先輩と狗巻先輩も真希さんの方に同調する。少し離れたところから、真希さんや釘崎はほらみたことか、と冷めた視線を向けてきた。
そういわれても困る。普通に。
「おーい、ねえ君達!」
空気を読まずに、校舎の方から声がする。反射的に振り返ると目があった。榛色の目が瞬く。タイミングが最悪だ。
「よる、なんか用かよ」
「真希ー、ちょっと誰か手貸してくんない?物理的に手が不自由でさ」
「行ってこい恵」
「なんでですか、禪院先輩の方が融通利くでしょ」
「力仕事だったら男の方がいいだろ」
「……先輩が言います?」
そもそも用事がなんだとはまだ言われていない。そもそもこれから授業を受けるという意味では俺自身正当な用事があるといえるわけだが。
「だーーー!もういいから行きなさいっての伏黒!私らを挟んで痴話喧嘩すんな!」
「そうだそうだ、俺らも忙しいんだよ」
「しゃけしゃけ」
「は?」
人数が増えると収集がつかない。釘崎が一度吠えると、パンダ先輩や狗巻先輩が全力で乗ってきた。否定する機会を一度でも逃せば、間違った前提のまま話が進行する。
「そこはさっきからなんの話でそんな馬鹿盛り上がりしてんの?」
「オマエと恵の話だぞ」
「わたしと恵ちゃん……?ああ、恵ちゃんがわたしのこと好きだって話ね」
よるさんがにやにやしながらからかってくる。そう、好きなんかではない。この人がこうやってからかってくる時、勝手に線を引かれていると感じるから。こんな特殊な環境にいれば棲み分けの重要度なんていわれるまでもない。よるさんの帰る場所と、俺の帰りたい場所は同じではない。この人の未来と俺の未来が同じである必要はない。
「黙っちゃって、ずるいな〜。まあでも、恵ちゃんはわざわざわたしなんて選ばないよ」
緩やかな拒絶。頭から手がするりと離れていく。好きじゃない。いつも迷惑。勝手に踏み込んで、自己中心的で、勝手のどこかで怪我をしてくる。理由もなにも答えてくれない。多分死ぬまでそうだ。よく理解しているのに、魚の骨が喉に刺さるように、溢れて手についた糊のような煩わしさがある。
「じゃあ敬愛する先輩のお手伝いしてくれない?片手だと不便だわやっぱり」
肩に手を置かれる。黙ることによって意義を申し立てようとしたが、傍若夫人で形成されたような先輩達を前には無意味だった。

「で、俺は何をすれば?」
よるさんの部屋は殺風景だった。モデルルームのように整えられた空間までいかない。水滴の残るシンクやテーブルに放置されたと思わしき水滴のついたグラスは言いようのない生活感を放っている。
「これから冥さんに電話するんだけどさ、片手じゃ難しいからちょっと用件メモってくれない?」
「スマホならスピーカー機能でハンズフリーにできますよ」
居心地の悪さに早口でいえば、「えっ、そうなの?」なんていうズレた言葉が返ってくる。この人は機能を使わずにどうやって生きてきたのか。
「基本性能じゃないですか」
「うっそだ、知らなかった……今日の今日まで……」
よるさんに向け、スマホを取り出して五条先生に発信する。あと3コール、それ位内に取れなければ人を変えよう、そう決めたところで「もしもーし」という緊張感に掛けた五条先生の声が聞こえてきた。
「ここを押すとスピーカーモードになります。ただ周囲の音を拾うので注意してください」
「すごいね」
「それは製作者に言ってください」
へー、と身を乗り出すようにスマホを覗き込む。この前まで病室で真っ白な顔色だった人には思えない。家入さんの処置が適切だったとはいえ、いくらなんでも回復が早い。
「いま恵とよる何やってんの?」
「あ、もう用事終わったんで切ります。お疲れ様です」
面倒になる前に通話を切る。
「切っちゃってよかったの?めんどくさいのは勘弁なんだけど」
「……よりによってよるさんがいいます?」
「いやあ流石に悟よりわたしの方が100倍マシでしょう」
当たらずとも遠からずの答えに口をつぐんだ。話題を変えるべきだ。とはいえ、うまく話題になりそうなものも見つからない。逃げ場を探すように部屋を見渡した。思っているよりもちゃんとしている部屋だ。殺風景ではあるが、俺だって高専に入るまで住んでいたアパートはこんなものだった。必要なものが必要なだけ然るべき場所にしまってある。
「用事ってそれだけだったとか言いませんよね」
「……あ、そうだ。片手だと布団とか全然綺麗に整えらんないから整えてくれない?」
「なんで俺が……」
「冗談だよ。ほんと騙されやすいね、恵ちゃんは」
「……それより体調、もう平気なんですか?昨日の今日じゃないですか」
「あ〜、それは平気。わたしもともと傷の治りとか速いんだよね、体質的にさ……まあ欠損したらそこまでだからどうにかしないとなんだけど」
スマホの画面を見たままよるさんが適当に答える。電話帳を開く。いつもどおりよるさんから「なんかわかったから、恵ちゃん帰っていいよ」という横暴が聞こえた。結局、なにも聞けていない。針千本飲めば逃げられるとでも思っているんだろうか。
「よるさんはどうなんですか」
よるさんの手首を掴んだ。このまま逃げられるのは御免だった。
「どうって?」
よるさんの目が伏せられる。合わない視線なんて気にせず、よるさんをみつめる。
小骨だって糊だって慌てふためくだけ無駄だ。対処法なんて決まっているし、それがあってもなくても大した問題はない。こだわる必要はない。
「よるさんが俺を好きになることです」
「………恵ちゃんて、わたしのこと好きなの?さっきのってお遊びのやつじゃない感じ?」
隠し事をするとき、よるさんは目を合わせない。茶化して論点をずらす。そんなわかりやすさでどうして呪術師なんてやっているのか。俯いたままなら尚更この人を離したくなかった。どうせ都合が悪くなったら一日ぶらっと消えて、全部リセットしましたって顔で戻ってくるのはわかっている。
「それはいまちょうど終わらせたばっかりでしょ」
「じゃあ恵ちゃんはわたしのこと好きじゃないんだよね」
「だから」条件反射的に言葉は出た。でもその先の言葉を見失う。俺が知りたいのは好いた腫れたの騒ぎではない。そう弁解してもうまく逃げられるような気がして唇を噛んだ。
「それってね、おかしいからね。なんで、気のない人に自分のこと好きだとか聞いてみたいと思うの?」
よるさんの色素の薄い目の中に俺が映る。情けないほどに、困惑を残した俺の顔が。
「あー、もう……やめやめ!こんな状態で頼めるものも頼めないよ。ひとまず、今日のところは後輩の可愛さで免除してあげましょう」
「なんですかそれ」
「いーのいーの。コーヒー飲む?インスタントしか無理だけど」
「流石に危ないんで俺がやりますよ」
「そう?じゃあよろしく。……あ、コーヒカップとマグカップひとつずつしかないからテキトーに選んでね」
「またアンバランスな生活してるんですね」
言えなかった後悔も、言わなかった言葉も何も精算できず俺は、マグカップとティーカップにインスタントコーヒーの粉を入れた。不揃いの食器。白い底が赤黒い粉に覆われ、見えなくなる。俺とよるさんは一体なんなのだろう。考える手掛かりに目を伏せて俺は蓋をした。臭いものには蓋を。たとえ救いようがないほどに、捨てるしかないほどに腐って死んでいくとしても。
今日の俺にはそれ以外の術がない。

23.0622