灰まみれ光の根元

恵ちゃん。名前を呼ばれた。許可してなんていないけど、でも、受け入れてしまった。あのひとだ、とまどろみの中で思う。あの人、そう、名字で呼ばれたがらない、あの変な女。「戸締りはちゃんとしなきゃ」開けっ放しの窓から薄い光が差し込むとともに、古いカーテンが膨らむ。ぼんやりとした狭い視界に映るものはそれだけだった。
俺に「おやすみ……」と声をかける。挨拶を口にする声。髪に触れる誰か。花のにおい。おやすみ。そういえば、津美紀は俺からの返答がなくても、いつも俺におやすみをいってくれた。アイツはそういう人間だった。
注がれていた当時は煩わしくて祓いたかったもの。唾を吐いていたもの。失った今だからこそわかる。すべてが夢でも現実でもどちらでもいい。誰が相手だろうと関係がない。
津美紀の残り香を集めるように素直に「おやすみ」と口にして意識を手放す。落下する錯覚。波の寄せて返す規則的な音を聞いた気がした。そんな音が聞こえるわけもないのに。

寝起きの重い頭を稼働させた。どうにかして目の前の事象を解決したかったから。少し頭が痛い気がする。
目の前にある馬鹿馬鹿しい現実に溜息をついた。溜息つくと幸せが逃げちゃうよ。津美紀の声がする。眉間を抑えた。

馬鹿なことをするひとというのはこの世にごまんといる。理解できないことを馬鹿なこととまとめることもなかなか馬鹿だということにようやく理解が追いついた。

「これ、あの人か」

コンビニの袋を回収した。中にはゼリー、プリン、ポカリスエット、固形携行食、板チョコ、ヨーグルト、りんご。まるで病人への差し入れだ。念のため、あたりを見回す。向かいにある電柱の陰とか、アパートの塀の隅とか。
最近知り合った呪術師の女……もといよるさんの姿はなかった。袋の中をとりあえず漁る。メモとか手紙とかそういう物があるかと思った、これは俺がよるさんからの言葉を期待したというわけではない。そういうわけじゃなくて。意味のないことをしたと顔が歪む。
こんな怪しいものを食べられるわけがない。常識的に見て。……それでも、袋をテーブルの上に置いた。口に入れるのは躊躇うが、保管しておく分には悪くないような気がした、だから。

給食にでたのはリンゴだった。カットされた、遊び心のないシンプルな形状のリンゴ。赤。目立つ色。呪術師の女がふと脳裏に過ぎ去った。可笑しい夢についても。恵ちゃん。暗示じみた不可解な夢だった。
考え出したら足を取られることは予想に難くない。心を空っぽにする。何も考えない。そもそもたかがリンゴ一切れだ。リンゴの呪いなんて大したものなわけがない。なんでもいいから口に入れて噛み砕く。硬さが歯列と舌先に擦れる。甘い。喉の奥が甘ったるかった。

リンゴと連鎖するように断片的な事柄がフラッシュバックした。俺よりも歩幅が小さいこと。車道側を歩くあの人の横顔。恵ちゃんと茶化す声。少し肩を引いただけで、耳を赤くしたあの一瞬。考えたら負ける。何と戦うのかだって理解したら負けたと同義だ。これに囚われては、いけない。

考えるな。肩に、腕に、手のひらに。それぞれの筋肉に力を込めてそれから脱力する。
何ももてない手のひらを見ないように、ランチルームの小さな窓から見える春空を睨んだ。ぼんやりとした薄い灰色の空だ。



迷子になりそうだった。
知らない道を行く怖さではなく、知っているはずの道を疑うことの恐しさ。
何が正しくて何が間違っているのががわからない。自分が何を理解しているのかさえも朧げだ。こんなところで足踏みしている場合じゃないのに。

強い風がフローリングの上に広げた紙を吹き飛ばす。体術の心得から呪物に関するコピー。
クソ、罵倒が口から漏れる。ずっと鍛錬はしてきたのに、いざ呪術を使おうとすれば思うように動けなかった。稽古をつけてもらうにしろ、とりあえず軽いものでもなんでも任務をこなすにしろ、五条さんに俺の現状を見せる必要がある。完膚なきまでに叩かれる。容易に想像できる。スマホに手が伸びる。呼べばいいのに、小さなプライドが指を止めていた。
手持ち無沙汰で、ストレッチにもならない姿勢のまま床に顔をつけた。ひんやりと冷たい。温度なし、光沢なし。もしも津美紀が目覚めないまま俺が高専に進んだら、この部屋はどうするんだろう。
何も考えたくない。考えれば考えるほど今の俺には何も力がないことを理解する。クソ。
そうだ、遠回りなんてしている場合じゃない。道が無かろうとも最短距離を直線で進む、そう生きると決めた。津美紀のために、なによりも俺自身のために。それはあの人のためなんかじゃない。

「や、恵。どーしちゃったの床に寝っ転がっちゃってさ」
「五条さん」

影が落ちる。長身の五条さんが俺を見下ろしてから、様子を伺うようにかがんだ。

「なんか落ち込んでる?何、なんか悩みでもできたのぉ恵〜」
「…………別に」
「ええ〜、しばらく稽古つけてないし任務にも行ってないから鈍っちゃってるんじゃない?呪術師としての身の振り方は鍛錬じゃ理解できないでしょ」

正解を言われるのも釈然としない。五条さん相手につくろっても今更なので、俺は起きあがって正直に要望する。

「……じゃあ任務行かせてくださいよ」
「いーよ。ってことで、今度、よるの任務見学ね」
「よる……?ああ、あの胡散臭い呪術師ですか。あの人そんな参考になる人なんですか?式神使いとか、立ち回りがいいとか」
「や、全く。言われてみればかなり違うタイプだね。よるはどっちかというと体術駆使する感じ」
「…………五条さん楽しいですか?」

五条さんのにやけ面は見慣れている。そのはずなのに、今日は妙に引っかかった。

「なに、恵……僕のこと見つめちゃって。遂に恵もグッドルッキングガイの魅力にメロメロになっちゃった?わかる?僕の隠しきれない有能感……」
「別に」

即答すれば「恵ノリ悪い」と子供のようにブーイングを上げる。それから、全てわかってると言わんばかりに口角を上げた。したり顔。嫌な予感がして、素直に顔を顰めた。絶対ロクでもないこと言うぞこの人。

「恵、よるのこと意識してるよね」
「なんで俺があの人を気にしなきゃいけないんですか?」
「知らない。恵の方が詳しいでしょそれは」

知らないならいうな。その一言さえ無意味に思えて、散らばった資料を回収する。紙は不便だからもうやめるか。

「これ呪物に関するものか、うんうん、勤勉で結構。ちなみに、ちょうどよるはこの辺詳しいよ」
「あの人の手は借りたくないんですけど」
「恵はなんかよるに妙に対抗心あるよね。なんで?」
「なんでって……」

五条さんが拾った紙を俺に手渡す。資料を見るより実物を見た方がいいし、あの人は俺にはない経験がある。でも、頼りたいとはおもえない。

「……………五条さんと似て胡散臭いからじゃないですか。いかにも呪術師って感じで」
「ふうん、丁度いいんじゃない?」
「悪い意味ですよ」
「僕に似てるのに?」

笑い方が同じだ。あの人、よるさんが浮かべる愛想笑いは五条さんの薄っぺらいそれと同じ形だ。自己防衛。セルフプロデュース。異形が人間に収まろうとするかのような歪さ。

「ま、いいや。一回よるのところ行ってみなよ……んー、そうだね、この数日なら面白いもん見れるよ」
「面白いって……あの人が?」

五条さんは愉快そうに頬を緩める。「右腕折って医務室で借りてきた猫みたいに静かにしてるよ」何をやったらそうなるんだろうねえ、という五条さんの声にため息が出た。流石にこれは同情する。本当に。


ゼリー、プリン、ポカリスエット、固形携行食、板チョコ、ヨーグルト、リンゴ。近所のコンビニで手に取ってから気づく、たしかに無難なラインナップだ。嫌われても好かれてもおかしくないもの。

歩くたびに擦れる音を鳴らすビニール袋。600mlのペットボトルのおかげで重量はそこそこある。
誰かのために買い物をするのなんていつぶりだろう。津美紀のために何かを買ったのは、いつが最後だ?見舞いの品とかは選んでたけど。俺は津美紀に何もしてやれなかったな。車窓に映る自分から視線を逸らす。


「本当にいた」

医務室のプレートに従い引き戸を開ける。五条さんに言われたからきたわけではない。おとなしいこの人を見てみたかった、それだけ。

「腕が折れたって聞きましたけど、本当だったんですね」
「ああ、それ自体は問題ないよ。今回はね、呪物に巻き込まれたからちょっと硝子さんのご厄介になっているの」
「……呪物、ですか」

目を伏せ、大人しくベットに座っていても津美紀とは違う人だった。当然だ。でも病人はみんなああなるものだと思い込んでいた自分がいたらしかった。
薬品の匂いも気にならない。病院というよりも理科室のような感覚だ。いつもやかましいぐらいにちょっかいをかけるこの人が、理科室のような落ち着きのある場所にいる事実は確かに面白い。流行りのラブソングが流れるようなラーメン屋だって似合ってるとは言い難いが。

「呪物のこと気になるの?」
「…………呪術師として生きていくなら避けて通れないものでもあるでしょ」

「それもそうか。その辺の呪物よりわたしの呪いの方が濃いからあんまり参考にならないかも。あ、危険性以外の話ならいけるか」
スツールと彼女を見比べる。短く息を吐いて、スツールを自分の方に寄せて腰を下ろした。ビニール袋は床において、手を組む。

「呪いって、術式ですか?」
「そうね。わたしは……うちの一族はやらかして呪われた家だからね。その呪いで呪術を確立して……また呪いを払う。ね、うちの一族みんな愚かでしょ」

俺の目を真っ直ぐ見つめる。日光の差し込まない薄暗い医務室の中で、彼女の瞳だけが光っている。品定めするような目だった。

「語るべきことはないって言ってませんでしたか……よるさん」

「ああ、それもそうだね。じゃあ忘れて」
視線が逸される。この人の、よるさんのなかで俺の価値が決まった、かもしれない。忘れて。傲慢だ。教師が生徒に言うように、指示されたことが俺の神経を逆撫でする。

「すればいいでしょ、そっちは散々聞いてきたんだし俺がアンタに尋ねる権利だってあるわけで」
「…………実はさ、腕さ、呪物とかじゃなくて普通に落下して折れたんだよね」

馬鹿だなと思った。ふ、と笑うよるさんの空気が柔らかくなる。月のような瞳だ。虚ろな目ではなくて、愛想笑いに覆われたものではなくて。恥ずかしくなったら耳を赤くするようなただの、学生のよるさんがいた。

「これ、もらってください」

足元に置きっぱなしだったビニール袋をよるさんに渡す。同じことをやり返す。そう、この人に同じことをしてやればい。笑うのか、困るのか。どっちにしたって俺にとって悪い話じゃない。それができてやっとスタートラインに立ったまである。

「恵ちゃん、これは受け取れない」
「受け取っておいてください、怪我人でしょ。この前、俺の家にきたのはよるさんですよね」
「知らない」
「とぼけないでください、同じようにリンゴとかおいていったやつです。不審ですよ」
「…………まあ、そうだね。その日は恵ちゃんちの近所の見回りに駆り出されてて」
「八十八橋ですか?」
「そうだよ。深夜遊びに来たり通りかかる中学生に声をかけるの。いっちゃえばあれって補導だね」
「ひとりでやったんですか」
「そりゃそうでしょ。これでもわたし二級だから……ああ、意外とあるね言ってないこと」
「次の機会があったら同行します」

よるさんが俺の顔を覗き込む。

「素直だね?」
「……まあ、負けっぱなしは性に合わないんで」
「おとなしく中学生は守られてればいいのに」
「俺だって呪術師の端くれです、少しですけど高専の任務だってこなしてる。……だから、こんどお詫びします。その代わり全部チャラです」
「あはは、ほんとにびっくりするぐらいに素直ないい子だ」
「体のいいパシリにされたくないんで。入学してからもずっといじられたらたまったもんじゃないのでここで清算しておきたいんですよ。そもそも、アンタに守ってもらった覚えもないです」

なにそれ、とよるさんが笑う。彼女にいわれなくても俺自身どうかしている話だと思う。どうかしている、このひととあってからずっと。

「それってどこでもいいの?」
「ある程度は」
「じゃあ……あー、うん……次に会う日までに決めておくね?」
「よろしくお願いします。じゃあ……また」

ああ、そうか俺はこの人がムカつくんだ。俺に説教垂れるくせに、この人は俺と同じ側の人だから。同じくせに、失敗したからと、こっちに来るなという人。偉そうに。
ムカつくのと、同じくらい愛想笑い以外をするこの人をもっと見ていたい。わかり合おうとかそういうことではなくて、隣に立ってみたいと思う。
らしくない感情に思わず笑いが込み上げる。どうかしている。俺は今こんなことしている場合じゃないのに。
ただ、今はよるさんが見ている景色が見たい。呪術師になる意味も誰を救うかもわからない。五条さんだってよるさんだって教えてはくれない。でも、多分、俺が『呪術師』という生き物に今すぐ変化する必要はない。おそらく、この人だって俺に偉そうに指図するほど呪術師の女なんかじゃないのだ。

「うん、恵ちゃん。またね」

帰り道でよるさんの微笑みを思い出す。想像よりも悪くない声だった。

この前よりずっと道がよく見える。誰も永遠に迷子でいさせてくれやしない。迷い続けるほうがきっと楽だ。こんなはずじゃなかったと延々と誰かに責任をなすりつけて、一丁前に己の権利だけを主張する。俺達はもう大人だと。……中学にいる奴等はそうだ。アイツらは皆知らない。そうやって馬鹿デカい声で喚けば喚くほど子供でしかないこと。道が分からないといえる子供時代がどれだけ恵まれているかにも気付かない。
『ほら、どこかに行ける気がしない?』
どう頑張ったって行ける場所は限られていて、きっと俺達は多くの人間を覆う法の下には入れなくて。それでも、それでも俺はまだ生きていた。スーパーの自動ドアをくぐる。結局、生きるためには食べる必要があったから。

22.03.20