ふたりの逃げ道が水没した
「風間さんとどういう関係なんです?」
菊地原がそう尋ねてきたのは最後の最後だった。耐えられなくなって、ともまた違う。主にわたしと遼と宇佐美で話をしていたから彼らと話せなかった文句というわけでもない。加えて間違いなく異分子であるわたしをよく思っていない。だから、わざわざ帰るところが話しかけてきた、という段階で既にわたしは困惑していた。
「どうして?」
心臓がざわりと逆立つ。少し早く脈拍はおそらく彼に聞こえている。菊地原くんの眉がほんの数ミリだけ動く。
「ぼくが今聞いてるんですけど。何かやましいことでもあるんですか」
「別にないよ。高校の先輩と後輩なだけ」
嘘は何一つ言っていないのに、心臓だけは静かにならなかった。これじゃまるで嘘だって言ってるようなものだ。でも、それ以外にどう言えばいいのかわからない。好きって言われましたし昔はわたしも好きでしたよ。なんて他人と上司の色恋沙汰を聞かされるのもまた酷な話だ。
「ぼくはどうでもいいんですけど、周りはそういう雰囲気気にする人たちなんで」
言いたいことだけ言って、聞いて判断して、菊地原は歩き去る。わかりにくい気遣い。大人気なかったかな。と思ってからいつからわたしは大人になったのか自信がなくなった。
店の外に出ると既に宇佐美は本部へ戻り、菊地原と遼は自宅へ帰るらしかった。遼がわたしと時計を見比べる。
「環さん、送りましょうか?」
スマートな申し出に感心する。勘違いしてしまいそうになるけれど、遼はまだ子どもだ。高校生。家にはご両親が待っているだろう。何かがあってはこちらが困る。
「いや、遼の方が年下でしょ、危ないから……」
「歌川、気にしなくていい。春白は俺が送る」
「いや……それよりもふたりを送った方が良くないですか?」
「いつも大通りまで行って別れているが、春白は逆方向だろう。加えておまえもまだ未成年だ。未成年に未成年を送らせるわけには行かないからな」
平然と言いのけるところがずるい。大人になってからの先輩はずるいところばかり目立つ。本当にずるい。先輩の言葉はやはり説得力があるようで、遼もそうですか、と笑って引き下がった。
彼らの姿が見えなくなってから「帰るぞ」と手を引かれた。
「……どうして誘ったんですか」
「歌川の動きがすごく良くなった。それのお礼代わりだったが迷惑だったか?」
自然と歩幅が揃う。何度も何度も並んで歩いてきたから、一歩目で既に揃うようになってしまった。夜。足音と少し遠くから聞こえてる車のエンジン音。菊地原君は一体何を聞いたのだろう。
「迷惑ではないです。でも、どういう態度を取ればいいかわからないので」
「普通でいいだろう」
「先輩が普通なのがずるいんですよ」
隣を歩く先輩が柔らかく笑う。満足そうな表情は今まで見たことがなかった。
「それでいい。無理して周りに合わせなくていいだろう。『先輩』でいい」
わたしの全てが許されたような笑みだった。先輩はいつもそうだった。ひとりで完結して納得して目標に向かって走っていく。後ろを振り返らないわけではない。周りを顧みない人でもない。ただ、ただ、今に誠実なだけ。
足が止まる。先輩がわたしの顔を見た。赤い目にわたしは映っている。迷子みたいな顔で。何度も何度も浮かんで、焦がれて、諦めた望みがよぎる。あなたのようになれたらどれだけよかっただろう。過去にも未来にも縛られず今を見れればどれだけ、よかっただろう。
「カツカレー、食べにきますか?」
「作れるのか?」
「ある程度なら……カツは上げたことないですけど、まあせっかくなので」
「おまえのそういう努力するところが好きだ」
「どうしてそんなこというんですか」
「言わないと伝わらないだろう」
夜の中、街灯の白い光に繰り抜かれたアスファルト。見慣れた景色が目に痛い。痛い、とても痛かった。先輩の赤い目がわたしだけを映している。春白、先輩がわたしの名前を丁寧に呼ぶ。記憶の中にある先輩の声が追いかけてくる。
「そうですね、言わなければ何も伝わない」
目を細める。そうじゃなきゃ隣に立っていられなかったから。濃紺の中に消えてくれない。消えてくれれば良いのに。わたしが迅だったらよかった。そうすれば少しは幸せになれたでしょう?だって、わたしはあなたに返せる正しいやさしさを持っていない。
◇
ぐるぐると回りながら幾何学模様が光る。ぼんやりと発光する。お陰で電気を消した部屋の中でも、目の前に座る女性の彫りの深さを暴いた。幾何学模様のピアス。彼女は何も語らない。ただピアスを投影器のように壁に向けてかざす。よく考えれば確かに、それはわたしたちの文明とは別の次元の代物に見えた。フラッシュのように幾何学模様のなかで光り、映像が投影される。
環、とわたしの名前を呼ぶ父の声が流れた。全ての情報を遮断するように耳を塞ぐ。聞きたくない。聞きたくなんてなかった。それでも耳には入ってくる。
鍵の場所。住所。それから、謝罪。
父の自分に酔った声が続く。ヒーローらしい正しさを振りかざして、もう帰らない、と言い切った。わたしはその瞬間に耳を塞いだ。状況のわからない彼女が、わたしの知らない言葉を吐いた。
「環さん、今晩はカレー?」
軽薄な声に顔を上げれば迅は涼しい顔で微笑んでいた。玉ねぎが三つ詰め込まれた袋を手渡される。大人しく受けとる。
「今晩っていうか、まあ、そうだね今日買ったものはカレーになる」
どうせ未来を知っている人間に何を言おうと変わらない。知ってたとか、だよねとかそういうありきたりな相槌を打たずに、迅はわたしの手から買い物カゴを強奪する。
「で、本題は?」
「……悪いこと言わないから怪しい人は通報して関わらないのが良いよ」
「ちょっと何を言ってるかわからないや」
「茶化さないでよ」
わたしは迅の持つカゴに人参を入れた。迅にとびきりの笑顔を向ける。幼馴染にいたずらが決まった時のことがふと身体のなかによぎった。
「悪いけど、迅がいうほど実感はないよ。わかるのは迅はそんな余裕失くすくらいに、近い将来のわたしはやばいことするんだな〜ってことくらい」
「心当たりはないの?本当に」
笑う。嘘をつくのが苦手でもそれでいい。ねえ迅。ちょうど良い機会なんだよ、わたしがわたしを顧みるには。
「……その人とそんなに関わりたいなら、玉狛に来なよ」
「なに?適当いっちゃってさ」
「環さん、おれ本気だよ。玉狛なら春白さんの意を汲める。ここまでいってもしらばっくれるつもり?」
「自分がどこまで行けるのか知りたいと思うのはそんなに悪かな。ねえ、迅」
空のように透き通った青色の目を見た。あなたは何を見たのだろう。わたしはどうなるのか。
「迅だけはわたしが悪意でやったわけじゃないことを証明できるよ」
迅に甘えるのはこれでおしまい。ねえ迅。これで最後にしよう。わたしたち、ちゃんと終わらせなきゃ。
この前いってたカツカレーを食べにきませんか。その問いに先輩は頷いた。六畳のワンルームに先輩がいる。ふたりきりでは息が詰まった。
「……随分と片付いてるな」
「ああ、ちょっと今断捨離してるんで」
先輩は特に関心もなさそうにそうかとだけ呟いた。わたしは二クチコンロの一方に置いたカレーを温める。焦げないようにぐるぐると回す。
「カツは買ってきたのか?」
「これからあげます」
「ならカレーを温める役は変わろう」
先輩が狭いキッチンに入ってきて並ぶ。
「え、大丈夫ですか?焦がさないよう気をつけてくださいね?」
「それくらい俺でもできる、作れと言われたら困るが」
先輩の正直な言葉に思わず笑いが出る。確かに。
「変な工夫しないでくださいね。わたしも揚げ物始めたらそれ以外考えられませんから……」
市販のルーの香りがする。一番母のカレーに近い。でも似ているだけで、母の作るカレーではない。ならばどうするか?諦める、それが正しい。わたしはやっとそれを選ぶことができそうだった。記憶と現実のギャップなんて18年生きていてたくさんあった。だからわたしは大丈夫。
「まあ焦げてはいるが、味はうまいな」
「よかったです。たくさんあるので、おかわりもどうぞ」
先輩がわたしの手元を見る。スプーンを握った風間先輩の右手と、わたしの組まれた両手。まばたきがひとつ。明るい木目調のテーブルに白い皿は違和感なくなじんだ。
「おまえは食わないのか」
「はい、食べません」
先輩の席に並べたグラスの側面を結露が滑り降りた。そして水たまりを作る。
「わたしは先輩とは付き合いません」
わたしはカトラリーを握らない。皿も出さない。一人分だけ。意味もなくずるずると未練を引きずるのをやめる。
「……そうか、ひとつ聞いていいか?」
「どうぞ」
「俺がおまえを一方的に好きでいることは認めてくれるか?」
赤い目がわたしを見ている。それは目の前に座っているからだ、と物理的な結論に至る。そういうことにしておく。ねえ先輩、あなたは三門を出て行く覚悟があるか、と聞いた時のことを覚えていますか。
「…………わたしには答えられませんね」
春になったばかりでも日差しだけは燦々と降り注ぐ。雲ひとつない空と眩しさだけでいえば、まるで夏だった。
「今日は温かいですね」
「そうだな、もう春だな」
22.06.16