僕らの傍らで生まれた星
「環さんてちょっと丸くなりましたよね」
出水の唐突な言葉にペンが止まる。出水の方を見れば、自分の言葉のチョイスに焦ったのか、慌てて「いやさっき歌川と話してるの見たんで」と付け加える。
「それにしても態度がなんか優しくなったっていうか、今までちょっと怖かったけど、近頃はそうでもないな〜、とか」
「何言ってんだ出水、コイツは優しくないし怖くもないだろ。口煩いだけで」
「あ、太刀川さんは例外でーす」
太刀川が「なんだと優しくしろよ」と不満を漏らす。出水への抗議かわたしへのかすら怪しそうなところにため息が出た。はいはいと受け流して、太刀川の前に新しい書類を置く。相手にされないのを理解したか、もしくは諦めたのか太刀川が印鑑のキャップを外して判を押す。
「出水が言うほどわたしって怖かった?」
「やー、なんていうか、怖いっていうか……環さんて暇さえあればずっと訓練やってて、それが鬼気迫る感じで怖いっていうか……射手の訓練とか執念じみてましたし……」
唸りながら出水が答えを探す。怖いと思われていたのは全くわからなかった。初めて会った時から普通の反応だったから。心当たりがないので困る。でも、鬼気迫る、と聞くと三輪あたりが浮かぶ。一周回って彼は大事にされているように見えなくもない。
「三輪みたいな?わたしは一度も復讐心に駆られたことはないけど」
「あー、三輪か。でもなんか近い気がする。なんだろ、あ、ヒステリックな感じっすよ、ヒステリー起こしてる人!」
「表現が失礼すぎる……デリカシーがないの?」
あはは、と笑いながら出水がすいませーん、と謝罪する。
「まあ、ヒステリーは心外ではあるけど、憤ってたのは事実だね」
「え、何にっすか」
「この世の全ての不条理」
出水が引いたように「スケールデカッ……」と感想を口にする。そうでもないよ、と笑って手元のノートに視線を戻した。わたしの世界の不条理なんて、そんな大層なものじゃない。
携帯が着信を鳴らした。ひかる画面に風間先輩の4文字と十三桁の数字が滑る。
「…………風間さんからなんだけど」
「なんかやらかしたのかよ。風間さんから着信とか、もう、やばいじゃん。……つか、おまえ先輩なんてつけて登録してんの?」
わたしのスマホを覗き込む太刀川の肩を押し戻す。わたしが風間先輩をどう呼んだって誰に迷惑がかかるわけじゃないし。
「うっさい。デリカシー皆無野郎は黙ってて。太刀川と同列で括らないでくれる?ちょっとごめん、出るね」
出水の方に断りを入れてソファーから立ち上がる。壁側によって応答すると諏訪さんの声がして「風間を迎えに来い」と告げた。すでに決まっている事項らしいそれに、はあ、と生返事をする。
「……風間さんの番号だったのになんでまた諏訪さんなんですか?」
『おまえの番号知らなかったから借りた。俺ら今大学近くの居酒屋なんだけど』
「行くとは……そもそも、いま本部ですし」
『あ?おまえ今日シフト入ってないんじゃなかったか』
「烏丸が家庭の事情で急遽帰らなきゃいけなくなって、見かねて代わったんですよ。今は終わったんで書類やってますけど」
『じゃあその親切ついでに風間回収してけ』
太刀川たちがこちらに耳を傾けていることはわかった。だから空いている右手でトリガーをスキャンして太刀川隊の隊室からでる。沈黙の後、諏訪さんが大きな溜息をついた。
『風間が嫌いじゃねえなら来い』
「なんですか、それ」
『思うところあんならきとけ。お持ちかえられてもフォローできねえぞ』
お持ち帰り、思わず復唱した。お持ち帰りって、お持ち帰りか。
「春白さんなんかトラブルっすか?」
「なんか、風間さんが潰れたんだってさ」
「マジか。えー、風間さんて弱点あったんすね」
ペンケースをトートバッグに戻す。そこまで急ぐ必要もないような気がしたけど、なんとなく今すぐ全部終わらせたい気持ちになった。
「じゃあ、これで。国近と烏丸と忍田さんによろしく言っておいて」
手を離したのはわたしだった。身勝手だ。わかってる。わかってるけど。焦りは歩幅に正直に反映されて、わたしは気がついたら走っていた。息が乱れる。ネオンライトなんてただ光っている物体で、一文字も理解できなかった。
「悪いな、呼び出して」
「ほんとですよ諏訪さん、マジで信じられない」
珍しく諏訪さんの手にタバコはなかった。わたしをそのまま店内に連れて行く。汗が滲んで色が変わっているシャツ。店内だけ熱帯雨林に移されたようだった。
「風間のやつ早々に潰れたんだけど、明日早いらしいから回収してくれねえか?家まで行って玄関にでも投げておけばいいからよ」
「諏訪さんがやった方がいいんじゃ……?」
タバコを咥え、あー、と気まずそうに声を上げた。深夜のネオンサインに混じって紫煙が見えなくなる。
「俺今回幹事なんだよ、抜けれなくてよ。悪いけど頼まれてくれるか?気の知れた仲なんだろ前ら」
「なにも知りませんよ。他人です、諏訪さんとわたしだって他人でしょ」
「じゃあなんで来た。無意味に強がっても意味ねえぞ」
「家まで送れって言われても、わたしは先輩の家を知りません」
マジかよ。タバコを咥えていたから声は聞こえなかった。そういう顔ということはよくわかった。諏訪さんが風間先輩に無理矢理書かせる。
「引きずっていってもいいぞ。重いだろ、そいつ。無駄に筋肉つけてるからよ」
「あー、まあ、筋トレだと思えば……」
「いや、タクシー拾えよ」
「当然呼ばれたんでお金なんて1600円しかないです」
「中坊かよ。あー、クソ!おまえもおまえだけど……マジで後で覚えておけよ風間のやつ……」
諏訪さんが苦虫を潰したような顔で5000円札をつきつける。受け取ると諏訪さんはむしゃくしゃしたように髪をかき混ぜてから、タクシー呼ぶか、と冷静に戻る。
「ま、潰れてるから心配ねーけど、送られ狼には気をつけろよ。まあ狼つってもそれはヘタレチビ狼だけどな」
「……別に何かあるとは思えませんけど」
諏訪さんは答えず新しいタバコに火をつけた。
先輩の自宅は普通だった。よくある六畳のワンルーム。細い廊下を通りすぎて、奥に置かれたベットに先輩を寝かせた。先輩が身じろぐ。すわ、舌足らずの声で諏訪さんの名前が呼ばれる。
「先輩、冷蔵庫のお水もらって良いですか?」
冷蔵庫の中の電気がつく。青白い光が部屋の壁にまで広がった。冷えたペットボトルを持って先輩の額にくっつける。目を閉じていると年上になんて見えない。先輩。風間先輩。珍しいものは何もなくて、ごく普通の生活をしている部屋だ。床に転がったダンベルが爪先に軽くぶつかった。
「…………春白?」
「諏訪さんじゃなくてすみません。鍵、どこに置いておけば良いですか」
書類とパソコンに占拠されたローテーブルに視線を向ける。大学の課題。ボーダーのエンブレムの入ったクリアファイル。シフト表。筋トレグッズ。
「なあ、映画に行かないか、おまえさえ良ければ」
先輩らしいものの中に、ひとつだけ、異物があった。映画のチケット。二枚。一瞬だけだったのに、上映日もタイトルも、座席の英数字すら記憶に焼きつく。
先輩の赤い目がわたしを写している。もらったんだ。誰からはわからない。先輩の手がわたしの手首を包む。今にも発熱しそうなぐらいに熱い。誰が?
いろいろな物がわたしの瞼の裏で弾け散って、わたしはそのまま逃げ出した。夜の方がマシだ。流れてくる。あの夜の何もかもを亡くした空っぽの喪失感が流れてくる。ねえ先輩、忘れないで。
目に悪いネオンライトの色を浴びた。青春なんてロクでもないもの捨ててしまいたい。馬鹿みたいな繰り返しを終わりにしたい。思い出しかない負け犬になんてなりたくないのに。
◇
母、父、姉、安心できる見慣れた天井。お気に入りの照明。母が選んだこだわりの壁紙。ちょっとだけ軋む床。全てが鮮明な夢。夢は記憶をたぐるようなもので、わたしにはあの日のわたしが帰ってくる。ゾンビみたいに。あの日、校庭に埋めたはずのわたし。
環。父の声がした。声はぼやけている。再生のしすぎで壊れかけたビデオテープのように、わたしの名前は壊れかけだった。行かないで。終わらないで。
「春白」
先輩の声がする。最後に浮上する一瞬の前に、先輩の大人ぶった言葉が聞こえる。好きだった人の声。赤い目がわたしを映す。耳を塞ぎたかった。好きだった、そう言うことにしているから。
酷い夢ばかり見る。怖いのではなく、生々しい夢を。わたしにだけ都合のいいところばかりをきりとって、破綻した日常をみることが苦痛だった。だって目覚めたあともわたしのなかから消えてはくれないから。
目覚めた時にはただ倦怠感だけを得るのだ。それ以外は全て失ったまま。
断捨離をしてよかった。そのおかげでわたしはお目当てのものを見つけた。母が遺した小物。本、家族写真、自宅の鍵。それからもう一つ、錆びた古い鍵。古い鍵の方を取る。
本当は何がほしかったのか。もし確認する方法があるなら、きっとみんな迷わず選ぶ。正しいことをするという確証が持てない。ズルをしているような気がして落ち着かない。
音もなく雨が降っている。雨が振るとあの日を思い出して憂鬱になるから嫌だ。傘をさして街を歩いた。むかし、大きな怪我をしたところが雨の日は痛むように、雨になると、重苦しい空気が蔓延する。誰も悪くない。水たまりに映ったわたしの顔は土気色だった。
春白。夢の続きのように名前が呼ばれる。先日酔いつぶれた人とは思えないくらい、まっすぐ立っていた。
「こんなところにつったっていると危ない。帰るぞ」
「……迅に何を吹き込まれたんですか」
「どういう意味だ?」
困惑が返ってきて、少しだけ意外に思った。あれだけ慌てていた割に追い込みはかけてこないのか。どうせ全部迅にはわかっているから、と思っていたけれどそう言うわけじゃないのかもしれない。傘が邪魔で仕方がなかったけれど、わたしは笑う。
「わからないなら別にいいです」
笑えって、先輩が言ったからだからわたしは笑う。それを知ったら失望されやしないだろうか。風間蒼也を忘れたらわたしは笑う意味をなくすんだろうか。
日本家屋。玄関の前でこの古い民家のことをわたしはよく知っていた。砂利を踏む。あちこち汚れている上に、苔が至る所に生えている。けれど、それでも廃屋と呼べるほど汚くはなかった。
「…………ただいま」
わたしはピアッサーを持って、大きな鏡の前に立つ。イスラーム風の幾何学模様の編まれた鏡。目を瞑る。
確認しなきゃいけない。本当は、わたしは何が欲しいのか。
迅の青い目を思い出す。多分、迅が言ってたことはこれだろう。ようやくわたしにもわかった。望んだ結末にならなくても、見てみぬ振りはもうしない。針を耳たぶに押し込めば痛みが走った。瞼をきつく閉じる。光が煌々と弾けて、熱を呼んで生理的な涙が流れた。
ねえ先輩、わたしは正しく在りたいです。あなたのように正しく在りたい。全く同じものは見えなくても、あなたの隣りに立てなくても、あなたを忘れても、あなたが好きになってくれたわたしが間違いではなかったことを証明したい。
22.06.16