とりわけ美しい白痴の話
やっと終われたと思った。先輩の顔が険しくて、ああ、やっと解放されるのだと息を吐けた。これでもう、世界の果てなんか探さなくて済む。抵抗を全くしないわたしに先輩が顔を歪める。
先輩、あなたは昔、何になりたかったか覚えていますか。それを語る自分のことを、忘れられましたか。
人間が忘れることができるのは、忘れたほうが生きやすいからだ。防衛本能だ。建物が風化するのは風が、自然が削っていくからだ。コンクリートだって100年で砂になる。それが世界の摂理で、この世界は滅びることで救われるところがある。昔から、そういうところがある。
人が変わる。人間が心臓を持ち拍動するだけの肉塊から『人間』になれるのは、自分の中で拾っては捨ててを繰り返すからだ。でも例外的に、何かの間違いみたいに、何一つとして風化しない、捨てられない人間がいたら?
ねえ、風間先輩。本当に覚えていますか。
牛乳プリンの写真を見ながら、お兄さんとの思い出を拾い上げた時の先輩自身を覚えていますか?すごく優しい表情で、穏やかな海面めいたあなたのことを。透明で触れると冷たいけど心地よくて、一瞬が永遠みたいに見えるの。
あの日のあなたの内情をわたしは知らなかった。小説みたいに一言一句説明してほしいなんて言わない。でも、それでも、あなたが愛しい思い出を忘れたくないと思っていたことはわかったんですよ。
険しい顔をした迅がわたしの前に座る。長く大きなため息のあと、口を開いた。
「トリガーを扱う近界民との独断接触と、渡航の手助け……まあ後者については未遂だけど」
迅の青い目がわたしに問いかける。何がしたかったの?言葉にしなくても迅が思うことなんて想像がつく。あの人はどうなったんだろう、と少しだけ気にかかった。父の言葉を間に受けてわたしのところに来た近界からの遭難者。
「風間隊が現着しなかったら、環さんも一緒に『向こう』へ行ってた?」
「そんなのわたしより迅の方がよくわかってるでしょ」
「……そうだね」
諦めたように迅が呟いた。迅はやさしいから迅全部わかってくれる。
「ひとつだけ答えてくれる?環さんは近界に行って何がしたかったの?」
窓の外を見た。春の淡い青空が広がっている。
「環状線が見たかった、それだけ。わたしがボーダー隊員だからそう感じるのかもしれないけど、三門ってさ、箱庭でしょ。わたしは、ずっと遠くの世界を見るのが夢だった、きっかけなんてそんなものだよ」
「その箱庭を選択したのはなまえさんでしょ」
「生きていくためにボーダーに入隊したんだよ、わたしたちは。悲劇よりも武器を選んだ。箱庭なんか望んでいない」
「……じゃあなんで今だったの?」
「質問はひとつだって言ったのに」
誰も笑えないところで、わたしはひとり微笑んだ。
「本当に欲しいものがなんだったのか考えた結果だよ。間違えだってわかってたけどもう引き返せなかったから……ありがとね、迅」
「答えじゃないってわかってるよね」
わたしは片耳につけたピアスを外す。眉ひとつ動かさない迅は、わたしに手のひらを差し出した。わたしは軽くなった右耳をなぞりながら「これでいい?」と尋ねた。
「環さんが本当に欲しかったものが何か、おれはわかるよ」
迅がくしゃりと笑って青い目が見えなくなる。ごめんね。
◇
「迅の口添えと風間隊の証言と未遂だったことでおまえは謹慎処分になったらしい」
草臥れたレイジさんがわたしに告げる。いつもと変わらない表情ではあったけれど、やっぱりどこかに疲れが滲んでいる。申し訳ない気持ちで深く頭を下げる。
「ご迷惑をおかけしてすみませんでした」
「俺は随分前から迅から聞いていたから心積もりはあった。というか、上層部からすれば取引相手を捕獲目的でおまえをマークしていた」
レイジさんはそこで言葉を区切る。もっとせめてくれてよかったのに、レイジさんは責めない。責任を負わされず、わたしだけが蚊帳の外。
「どうして相談しなかった」
「……すみません」
「謝罪はいい。それぞれ目的があって、ちょうどいいからおまえを利用したまでだ。俺はおまえの師匠として聞く、どうして相談がなかった。迅がいるのにわからないと思ったか?」
目の前に出されたお茶を眺める。違反者なのに、本部じゃなくて支部に呼んで、そこで師匠と面談なんて、手厚いにも程がある。
だから多分わたしに下される処分はそんなに重くはならない。つくづく迅は甘い。
「全部、終わらせる方法を考えていました」
「……ボーダーをやめたいのか」
「わからないんです。でも、わたしが、解放されたいのは…………」
窓から映る夕焼けが赤い。川面も全て赤く染まり、緩やかに流れている。赤い水。でもわたしはそれが間違いだと知っている。水に色なんかない。空にも色なんかない。ただの人間の都合だ。季節にだって色はない。
赤を見るたびに思い出す人がいる。燃えるような赤い目だから。青を見かけるたびに、わたしは耳鳴りがする。わたしを呼ぶ声が、幻聴がするのだ。
「環さんが解放されたいのは風間さんでしょ」
全部を受け入れた人がわたしの言葉を代弁した。青い目。夕陽が差し込んでも青いまま。誠実な色をしている。教会の壁画に描かれた聖職者のようだった。サファイアを見にまとい、説教を説く。
「どうして?」
「環さんって、風間さんの話する度に怒ってるよね。表面上は笑ってるし、仲だって悪くない、むしろうまく言ってる。でも、ずっと憤ってる。そうだよね?」
「迅」
「わるいけどさ、隠したってわかるよ。環さんはやさしいから、全部、本当に全部をそりゃもう丁寧に見ないふりしてきた結果だよ」
隠したものが全て暴かれている感覚だった。見ないように、気づかないように、泣かなくて済むように。忘れられないなりに、見ないふりをした。
迅の目は青いけれど、あの日の空の青さには及ばない。でも、あの日の青さを求めるならきっと、わたしと先輩もあの日にいなくてはならい。そんな絵空事を吐くほど子供じゃないし。身の程知らずではないから。
「おれは基本的には環さんは自由にすればいいと思うよ。でも、忘れても何も解決しない。ね、そうでしょ?」
おもむろに扉を振り返って、迅が問いを投げる。嫌な予感がした。とびらが開く。最悪な想像をした。その先にいる人は、先輩でいつも通りの顔をしている。泣きも喜びもしないで、わたしを眺めている。
最悪な想像がそこに立っている。ただ、少し考えたのと違うのは、先輩は私服ではなく隊服姿だったことくらいだった。大人。ねえ、先輩。覚えていますか。忘れてしまいましたか。わたしたち、どうなれたんですか。どこで間違えましたか。ありもしない未来を語っても意味はないと迅がいう。
玉狛の温かな空気がつらかった。クリーム色の天井を見ていたくない。ここにわたしの居場所はないことをよく知っていた。
「……覚えてますか?わたしが夢の話したときのこと、覚えてますか」
か細い声だった。自分のものとは思えないくらい。ボーダーの風間隊長の表情のまま、先輩は口を開いた。
「覚えているが、それがどうした」
全部を諦めた顔をしていた。ずっとそうだった。先輩はずっとそうだった。
「…………おまえが望むなら、俺は、祝福する」
春が粉々になる音がする。帰れない場所が存在しない場所になる。シャングリラ。ああ、やっと、やっと全てが終わる音がする。幸せ。忘れられたら、よかった。
「そうですか。じゃあ、これで終わりですね」
やっとあの日のわたしが死んだ。いつまでも際限のない箱庭で、やっと死ねた。風間先輩に恋をしていただろうわたしが、やっとあの春のなかで、先輩を待っていられる。
青い、学生時代を無かったことにできる。最後は考えられないぐらい完璧だったね、って誰かと笑いあえる。あなたは変わりました。わたしも変わりました。それでやっと次の季節が来るのだ。
◇
デリカシーとかそういうものを落としてきたのかと思ってしまった。謹慎処分を受けて、それから毎日先輩は律儀に通ってくる。多分、というか間違いなく半分以上はわたしの監視という目的だろう。でも、だからってこんなに気遣いをしない人だっただろうか。
「もう来ないでください」
「そういうわけにもいかない」
先輩はポテトサラダでも食うか。と的外れなことを口にする。どうしてポテトサラダなのか理解できなくてわたしは舌を噛んだ。目を見たくもなかった。
「自宅に帰ってからポテトサラダ食べてください。今ならスーパーで値引きシール貼られてますよ、よかったですね」
先輩は玄関の三和土のうえで動かない。みじろくこともないし、視線を意味もなく揺らすこともない。
「……先輩がわたしにこだわる理由はなんですか?」
「それを聞かれると端的には答えられない」
あまりにも生産性がなくて頭痛がしてくる。右のこめかみを抑えて「じゃあ結構です」と言葉を絞り出して、残りカスみたいな言葉をぶつける。
「会いたくない理由も、今後の展望だってちゃんとあります。わたし謹慎処分が解けたら、大学の研究室に入って、そこでのこり3年半過ごします、それで、どっかに就職します」
「東さんの研究室か?」
「それでもいいと思いますけど、いま誘われてるのは学科の方で。向いてるって、やっと、やっと……わたしにできることが見つかったんです」
嫌になる、こういう時、心底。顔色ひとつ変えず、全てわかったようにそうか、と相槌を打つ先輩が、嫌だ。
「俺は、おまえがどうしてあんなことをしたのか聞いていない」
「…………終わらせたかったって、言ったじゃないですか」
「その前に告白には答えられないと言った時点で終わっていなかったのか」
何もわからないくせに、わかってはくれないのに、真っ直ぐ向き合うところが、いつだって目に痛い。だから同じものが見たかった。子供のころ、とは言えない。たかだか数年前の希望。あらゆるところを見て、知識を得られれば、有り体にいえば、夢だ。なんの根拠もなく、先輩のようになれると思っていた。そうすれば正しいと思った。先輩はいつだって真っ直ぐできれいだったから。正しく有れば同じ生き物になるんじゃないかって期待していた。
22.06.16