あかあかと燃えて星の海

なんとなくわかっていたから、玄関の前で先輩の待っていた。夜の中に先輩はひとりで立っていた。紙袋を持って、少しだけ疲れたような表情で歩いてくる。
「お出迎えとは丁寧だな」
「昨日の聞いてなかったんですか、わたし先輩に怒ってるんですよ」
「……大いに、笑ってくれて構わないんだが、俺は自分で思っているよりおまえが特別だったらしい」
なにも伝わっていない。なにも。あの日を繰り返しているだけだ。あなたはわたしの傷には気づかない。何回も何回も自殺の道具にされて一体誰がが喜ぶのだろう。好きだ好きだ好きだ。先輩は本当は成就なんて願ってない。終わればいいとどこかで思っている。カウントダウンを唱えて、わたしを試す。わたしが舞台を降りると言い出すことを願っている。ずるい。
「先輩ご存知ですか、初恋を超える恋なんてないんですよ。だから、先輩が抱えてるのは美しい恋への執着です」
「わかってる」
「先輩はなにもわかってないでしょ。もう終わりにしてください、もう、わたしは付き合えないんです」
これ以上一緒にいたら、多分、わたしはだめだ。瓶の中に閉じ込められたらどれだけよかっただろう。青くて青くて青いだけ。痛いだけ。
「全部がわかってるっていうなら、どうして、わたしの言葉をひとつも聞いてくれないんですか」
今晩は無風だった。湿度の高い空気が肌にまとわりつくようで嫌だった。あの日を繰り返しているような錯覚に陥るから。先輩がわたしを見なかったあの日。
「…………わかった、しばらくは来ない」
返事をしなかった。
「嫌かもしれないが、おまえがボーダーである限り俺とは縁がきれない。俺の顔も見たくないなら、それぐらいなら三門市を出るべきだ」
「……どうしてそんなに冷静でいられるんですか」
「おまえに嫌われる覚悟なんかとうの昔にできてる」
ねえ先輩、先輩は本当はわたしなんて眼中にないんじゃないですか。柄にもなく執着して、意味もなく家に来て、否定する。これが夜でよかった。多分今泣いたってわからないから。
「どういう自覚で動いているか聞いてもいいですか」
何者にもなれないわたしは風間先輩の目を見た。もう何も考えたくない。お願いだから終わりにして。目を開けても閉じても同じ濃度の黒ばかり。見慣れた照明も、天井も、好きな人もいない。全てを失ったことだけを痛感している。
「俺は……俺はおまえに幸せになってほしい」
幸せなんて漠然としたものを祈られても答えられない。口をつくんで呼吸を数えて先輩の言葉を待った。
「三門市から出れば、間違いなくおまえは俺を忘れる。希望さえ出せばおまえの記憶の封印措置は完全に処理されるだろうな。そうしたら、この数年の苦しみから解放される」
「苦しみ」
「俺から解放されたかったんだろう」
窓の外から入ってくる街の光だけになって、先輩は夜に沈んだ。見えなければないのと同じだ。先輩らしい正しい、物理法則めいた言葉が聞こえた。
「忘れられたら、全部報われる。そういう意味じゃないのか」
目の前が歪む。目が熱を持つ。
「わたし、多分先輩じゃない人と付き合った方が幸せになれるような気がしてきました」
「だろうな」
肯定。ひどい人だと思う。なら好きとか言わないでほしかった。一度も言わないで手を離して置いて欲しかった。なんでもなかったことにしてさよならって笑い合えばよかったじゃないですか。
「おまえは、俺といると嫌でも失ったものを思い出すからな」
 小さくため息を吐かれる。この街に住む人のほとんどがその悲しみと生きている。だから、わたしだけダメなんて理屈は正しくない。先輩らしくない。どうして。全ての言葉がするりと喉の奥に戻る。
「断定でいいます?なのにすきって言うのはおかしくないですか?」
「おかしくはない」
「なんで」
「そんなの理由はひとつしかない。俺以外に幸せにされるのが癪だからだ」
「意味わかんない」
 子供みたいな表情をすると、童顔の先輩はより一層、幼くみえた。
「……じゃあせめて、おまえも俺から離れる努力をしたらいいんじゃないか?」
「本気ですか?」
「俺におまえの交際関係に口を出せる権利があるのか?」
「ないです」
「そうだろう、だからもうおまえに言えることはない」
開き直る先輩が憎たらしいと思った。
ねえ、馬鹿な話をしていいですか。きっとあなたは忘れてしまったんでしょうけど。わたし、あなたの視線が優しくて大好きで、好きでたまらないんです。過去の話じゃなくて、今も夢に見るくらいに好き。嫌いになってくれって遠回しに言う。きっとそうすれば風間蒼也の中で恋の成れの果てが終わるから。
あなたの中でいつから過去になりましたか。どうやったらわたしもそうなれますか。
先輩の終わった恋を受け止められるくらいに、わたしの恋が終わるのはいつですか。わかるなら、全部答えて。


翌日から先輩は来なくなった。言えばちゃんとできるのだと思った。ひとりで広い家にいるのが心細かったのもやっぱり数日で、慣れれば怖いことはなくなった。ただ、軋んだ音がする廊下とか、父のものらしい奇怪な雑貨類には困り果てた。それくらい、ただそれくらいだった。
だからトリガーを起動しないことも、ボーダーに行かないこともそのうち慣れるだろう。
月曜の一限が終わる。まだ新学期が始まって間もないのに、日差しだけはまるで夏のように地面に蔓延っている。構内は当然日差しがない分涼しい。でも喧騒の中に戻る気になれなくて、木陰に飛び込んだ。持参したミネラルウォーターのキャップをひねる。一口飲んだところで諏訪さんと目があった。その隣に並んでいたレイジさんの視線もこちらに向いた。
「諏訪さんもレイジさんもお久しぶりです」
「環か。ちょうどいいところに来た。諏訪、ちょうど良いから直接渡したらどうだ?」
「直接っていうなら俺ではねえだろ……ったく、今日は太刀川と一緒じゃないんだな」
「毎日一緒なわけじゃないですよ、特に最近は」
諏訪さんはわたしの口ぶりに顔を顰める。そりゃ面白いことなんてない。わかっていたけど、わたしは笑ってやった。
「諏訪さんはご存知なんですね、まあ、同世代の半分が知ってればそうなりますか」
大学構内でレイジさんたちと話すのは妙に慣れない。予鈴がなった。レイジさんが腕時計を確認して、教室棟の方へ向かう。じゃあ、と諏訪さんに挨拶をして、レイジさんがわたしを見た。
「環、日頃のトレーニングはサボるなよ」
返事ができなかった。それから紙袋を渡された。レイジさんの顔を紙袋を見比べる。
「後で渡しに行くつもりではあったが、ちょうどいいから今渡しておく」



「だとよ。春白おまえの次の時間講義入ってるか?」
「……入ってませんけど」
笑顔とかけ離れた表情と言うことはよくわかっていた。それでも諏訪さんは「おら、いくぞ」と当然のようについてくるように促す。わたしは諏訪さんと自分の影を踏みながら、進む。
諏訪さんもわたしも特に何かを話し合うわけでもなく、かと言って軽口を叩き合うわけでもなく、ただ歩いてもっと人通りの少ない校舎脇にたどり着いた。ベンチも何もない。諏訪さんは「煙草吸っていいか?」とだけ確認を取った。
「わたしも吸っていいですか?」
「……春白おめー誕生日いつだよ」
間違いではないから「4月です」と答えれば「日付までいえ」と流された。諏訪さんはパンツの尻ポケットに箱をしまって、ライターをタバコに近づけ点火する。あの独特なにおいがした。記憶に張り付くにおい。
「先輩方、みんな白々しいんですよ」
諏訪さんが面倒くさそうにタバコを咥え直す。面倒くさいのは重々承知で、それでも、言わなくちゃ気が済まない。必死で引き剥がした喪失感がわたしの中を侵食していく。悲しみ。寂しさ。苦しみ。それから、怒り。
ふーっと諏訪さんが長く息を吐く。白い煙がゆらりと揺れて空気中に溶けていった。
「おまえが心底面倒臭いことになってるってわかってて、この前飲み会で風間送らせたのは、あれは、まあ悪かった」
「諏訪さんは悪くないですよ。確かに怒ってますけど、諏訪さんは別に特に責任はないです」
「あくまでも怒ってる相手は風間だってか」
諏訪さんの言葉には答えなかった。だって、あまりにも分かりきっていることだから。
「……おまえに渡しとくもんがある。心して受け取れ」
「はあ」
茶色の紙袋を受け取る。百均で見るタイプのもの。紙しか入っていないのか何も入っていないかと思うくらいに薄っぺらだ。
「なんですかこれ」
「いいんだよ細けえことは。んで、これからどうすんの?」
「将来の展望なら研究者とかも悪くないなって思っていますよ」
聞いたのは諏訪さんのくせに、対して関心もなさそうな声をあげて、なんでもいいけど、と前置きをした。
「多分、自分で思ってるより、おまえはボーダーで生きるのが向いてると思うぜ」
「意味わかんないんですけど」
「自覚あるんだろ?おまえから記憶を無くしたって同じことする」
捨て台詞を吐いて諏訪さんがベンチから立ち上がる。先輩って生き物はどいつもこいつも自分勝手だ。
三限は必修だ。太刀川がいたような気がする。でも次の授業に出る気がこれぽっちもなくなって、大きなため息が漏れた。諏訪さんがくれた封筒を指で引っ掻いて開ける。映画のチケット。今日の日付。座席番号を確認する。……知っている番号だった。

未練がましい。それはわたしにも先輩にも当てはまる。でも、きっとそれも時効だ。忘れることも風化することも他人に評価される場合だってある。

結局映画には行かなかった。冷蔵庫を開けて、黄色い蓋のタッパーを取った。レイジさんが言うから。ここ数日の食生活を振り返る。よくてコンビニ弁当、最悪水、もしくは携行食品とそれっぽいサプリメント。冷えた空気が顔に当たる。ちゃんと食べなきゃいけないような気がした。
「カレー、かあ……」
タッパーを開けると、僅かにスパイスの匂いが鼻にきた。3日前、先輩が持って来たもの。先輩が作ったとは思えないので、多分、レイジさんだ。そう思えば諏訪さんやレイジさんの口ぶりも理解はできる。
あまり気が進まないけれど、フリくらいはしておかないといけないような気がした。マナー違反だけど、まあいいかと人差し指でカレーをすくった。
「…………なんで」
いても立ってもいられなくて立ち上がった。家を出た。石段を駆け降りて、足は河川敷に向かっていた。歩いていたはずが、いつのまにか走っていた。涙が出た。
母さんのカレーの味だった。知るわけないのに、誰もわからない。だって。
「環さん、やっぱり来たね。顔ひどいよ」
橋の上で、迅が笑う。いつものように全部わかってた、そんなやさしい顔をしている。
「ごめんね」
「見えてたよ、大丈夫。間に合うよ、」
「わたしそうやって迅に言わせるのが本当に辛い。……もちろん、迅は嫌じゃないんだろうね、やさしいから。でも、わたしは嫌だ。見てるこっちが痛い。迅だってさ、痛いのは嫌でしょう」
「……風間さんじゃなくてごめんね」
首を振る。そんなこと言わせたかったわけじゃない。川面を通過してくる夜風は冷気をはらんで薄ら冷たかった。
「環さん、玉狛に来ない?戦闘員じゃなくて、エンジニアか研究者として」
まあ答えはわかってるんだけど、なんて言いながら、くしゃりと顔を歪めた。必死に何かを飲み込むように。
「ごめんね。行けない」
月に雲がかかって光源が絞られた。だから迅の表情は夜に隠れて、見えない。でも多分やさしい迅は感情を隠して笑っている。
「うん、知ってたよ。……見えてた。あ、カレーのことなら、レイジさんに話聞くより風間さんにあった方が早いよ」
暗い夜の中で迅の目だけが一番星みたいに光っていた。
「迅、わたし、父さんにあったら殴ってやりたい」
「ええ……家族は大事にしなよ」
「……逆だよ。大事にされなかったの、わたしも母さんも待ってたのに。母さんなんて遺灰になっても待ってる。でも、あの人はもう帰らないんだって」
風が強く吹いて、わたしの髪をめちゃくちゃにしたし、迅の隊服の裾だって激しく揺らした。竜巻にもなれないくせに、そのくせ主張だけ激しい風だった。手を握りしめる。拳はどこにも振り下ろさない。ただ痛みを自覚するために強く、強く握った。
「あのさあ、迅。わたし、ああはなりたくないな。わたし、わたし、自分の思想だけを大事にする人間にだけはなりたくない」
押し付けるだけ押し付けて逃げたくない。対話を諦めてしまいたくはない。
諏訪さんのいう通りだ。どうせ全部忘れたって、諦められない。もう直せないくらいに粉々にして、大事なパーツを壊せば、もう終わりだろうと思っていた。目の奥が熱くなる。
「そっか。…………じゃあこれからもよろしくね、環さん」
そう言って迅は嗚咽を漏らしたわたしにこまったように眉根を下げて笑う。
「そうやって泣かれるとおれが泣かしたみたいじゃん。風間さんとか小南にどつかれちゃうよ」
「迅、今までごめんね」
「……せめてありがとうって言ってよ」
それらしい理屈を捏ねて、子供のように甘えていた。青すぎて、あまりにも痛々しい、青春時代の終わりはもうすぐそこに見えていた。

22.06.16