コレクシオンとプラネーツ

水曜日の段階で、走り出したかった。スキップをしたくなったし、雨が降っていたらその場で踊ったっていい。警官と握手して、強盗とセッションだってする。日曜日だなんてことを言ってる場合じゃなくて、今すぐ。
肺と肋骨の隙間がぴったりくっついて削れてしまいそうなくらい、いつだって痛かった。身体がおかしい。なのに、全てに幸せだと伝え歩きたいくらい。嬉しいとか楽しみとか喜びとか全てを混ぜたらきっとこんな気持ちになる。

世界がチカチカと瞬く。まだ何も変わらない日常がある。でも、きっと近いうちに変わっていく。だって見えるもの全てが昨日と少しだけ違うから。
「ねえ、環。好きな人でもできた?」
「ん〜?そういうんじゃないかなあ〜、なんか、ただ、楽しいって感じで」
幼馴染が悪戯っぽい目でわたしを見た。ふうん、なんて勿体ぶった相槌を打つ。
「なに、いいたいことがあるならいいなよ」
「どうしよっかな〜、あー、環って時々すごい子供だから私が教えてあげなきゃだめかな」
「オイコラ」
きれいに光る黒い髪をいじりながら、彼女は思案に耽る。彼女が悩んでいる時の所作だ。わたしは彼女が口を開くのを待つために、椅子の背もたれに身体を預ける。
「環」
「なーに」
「好きになれるよ、きっと。アンタが気になってる例の風間先輩を」
「ちょっと……狙い撃ちすんのはやめてよ!」
わたしが抗議すると、幼馴染は笑い転げる。いまの言葉のどこに笑えるポイントがあったのかわからない。わからないけど、わたしも釣られて笑う。あの子が言うならそうなんじゃないかなって、思えてしまうから。ねえ、そうなったら真っ先に教えるよ。だからその日も同じように笑ってよ。その日が遠くても絶対に。
「賭けでもするか」
「しないっての」
「しようよ、好きにならないんでしょ〜?」
「あー……もう、勘弁して!」
記憶の中の幼馴染の笑顔が眩しければ眩しいほど、世界は青い透き通った春の空になる。
「まあそれは半分冗談として……。私は進捗みたいなのいらないからね、どーせ亀みたいにのろいのは火を見るより明らかだし」
「そんなんじゃないし。しかもなんか要望細かすぎない?」
「一気に完結まで持っていってよ」
「ほんと意味わからん我儘ばっかり」
仕方がないので、彼女の小指を取ってわたしはゆびきりの呪いを唱えてあげた。
「やっぱ環ってガキだわ」
「もういいよ、それで」
目があう。収まったはずの笑いがぶり返した。



「もう来てたんですか、早いですね」
「おまえこそ」
「なんか、落ち着かなくて……」
全てがしどろもどろになっている。昨日考えた話題とか、切り出し方なんて声にならない。いつもと変わらないはずなのに。
「奇遇だな、俺もだ」
愉快そうに風間先輩が目を細める。わたしの心臓なんていつも通りから一番遠いのに。対して先輩といえば落ち着き払っている。腕を組んで仁王立ちって。学校と違うことは本当に服装ぐらいで。わたしばかりがめちゃくちゃにされているような気がして納得がいかない、本当に、これっぽっちも。
「でも1時間前にいるとは思わなかったんですけど……流石に10時はお昼には早過ぎますよ」
「そうだな」
「まあ今ならモールとかも開いてるとは思うのでそっちでも」
「…………先に俺が案内するか?」
「え、あ、いいんですか」
「ちょうど俺が行きたいのはここから近いところだ」
視線を合わせられない。視線がどうしてもアスファルトにばかり落ちる。下ろし立ての白いスニーカー。たくさん悩んで、幼馴染に揶揄われながら、今日を待ってた。鞄を握る左手に力を込める。
「ぜひ、行きたいです」
言い切ってから、小さく、気づかれないぐらいか細い息を漏らしながら、風間先輩の様子を伺う。そうか、と返す横顔。いつもだったら合う視線だったけれど、先輩も明後日の方を見ている。組んでいた両手。その指先がそわそわと動く。
「……何か、変だったか?」
「あ、えーと……いえ、なんでもないです」
「本当か?」
「本当ですよ。疑うんですか?」
「怪しいからな」
硬いいつも通りぶったポーカーフェイスから、正直な先輩があわられる。制服を着ていないと、年上になんて全く見えなくて、でも、確かに目の前にいるのはいつも頼りになって、ちょっとズレてて、それから。
「春白?」
先輩がわたしを呼ぶ。こんがらがる思考を止めて、わたしは三歩先を行く先輩の後を追った。
今は、まだ答えは出せない。

クラシカルな外装を裏切らない落ち着いた大人っぽい雰囲気の喫茶店だった。美術館なんかのカフェのような独特な雰囲気が素敵だった。革張りのヴィンテージのソファー。ドラマや映画のワンシーンになりそうだ。
正面に座った先輩に視線をやる。目の前の光景がしっくりくるか問われれば答えはイエスだ。大人っぽい雰囲気だし。でも、先輩はこう見えて体育会系の人だ。こんな洒落た空間をどうやって見つけたのか。
お水を持ってきてくれたウェイトレスさんが、わたしと先輩を見て目を見開く。アイラインが綺麗な人だった。
「え、蒼也くん?」
ルージュが引かれた唇が先輩の名前を口にする。上手なメイクも艶のある髪も大人の女性の理想型だった。
「…………お久しぶりです」
「大きく……はなってないよね、でも大人っぽくなったね。蒼也くんももう高校生だっけ」
「はい」
彼女と視線が合う。目を丸くして、それから彼女は破顔した。柔らかいひだまりのような人。わたしとは正反対の女性らしい柔らかさに心臓が硬化する。
「そう、こういうときにウチを選んでもらえて嬉しいわ。彼女さん、はじめまして。わたしは蒼也くんの……昔からの知り合いなの、よろしくね」
え、とか、あ、とか意味を持たない音を発するわたしに助け船を出す用の先輩が手を上げた。
「注文いいですか」
「あ、もう決まってるのね。ご注文は?」
「フルーツサンド」
「蒼也くんが?」
「違う。俺じゃなくて春白……後輩の方だ」
子どもみたいな言い方だった。ちょっと素っ気なくて、でも、目を逸らすほどでもない距離感。学校での優等生然としたあの、張り詰めた空気はない。
「じゃあ蒼也くんはいつもの?」
「いや、俺は……コーヒーで」
「カフェオレにしておいた方がいいかしら」
ウェイトレスさんの言葉に先輩はわたしを見る。
「カフェオレでいいんじゃないですか?先輩、牛乳好きだって言ってましたよね」
「……それでお願いします」
「はい、カフェオレですね。そうだ、あなたは飲み物はどうする?」
「じゃあ……ミルクティーでお願いします」
「かしこまりました、フルーツサンド、カフェオレ、ミルクティーですね。少々お待ちください」
彼女が微笑み、先輩は気まずそうに視線を逸らした。

フルーツサンドとミルクティーは間違いなく美味しかった。先輩はずっと黙って外を見たり、ウェイトレスさんにちょっかいをかけられたりなんとなくぼんやりとしていた。
「いい雰囲気のお店ですね」
先輩の表情はいつも通りのポーカーフェイスだったけれど、わたしの思うことには検討がついたようで「以前、兄がバイトしていた」と情報を付け足した。
ウェイトレスさんが下の名前で呼ぶ理由はわかった。
「え、お兄さんいるんですか?あ、なんか言われてみれば弟っぽいですね」
「そうか?それにしても、おまえ、それはどういう感想なんだ……」
「わたしにも姉がいますよ。いま就活中で大変見たいですけど」
「ああ……妹か、それはそれでらしいな」
好きだとかそういうことはわからない。でも、でも、でも。この人のことをもっと知りたい。
「わたしは姉と結構年が離れてるので、あまりバイト先に遊びに行ったりとかはなかったですね。……あ、幼馴染がいるんですけど、あの子とは時々それに近いことするかも」
姉と不仲というわけではないが、幼馴染の方が過ごした時間は長い。考えれば、あの子はわたしにとって姉妹みたいなものかもしれない。どっちが姉で妹かは揉めるから言わないけれど。
先輩がなるほど、言った表情で頷く。
「幼馴染……おまえとよく教室で馬鹿笑いしてる子か」
「えっ、なんで知ってるんですか」
「教室の前を通ると大抵おまえと女子の笑い声が聞こえるから、自然と」
嘘だとか揶揄わないでくださいとか、抗議の言葉が次々迫り上がってくるけど、それもこれも舌の上で溶けてしまった。その数だけ、顔が熱くなる。
「わたし、そんな馬鹿笑いでした……?」
「冗談だぞ」
「……あー、もう焦った!」
「だが、教室の前を通るとおまえと幼馴染らしい女子の声が聞こえるのは本当だ」
「それはそれで恥ずかしいような気がするんですけど」
先輩はアイスカフェオレをしれっと飲んで、不意に視線を窓の外へ向けた。
「……俺も照れくさい。まあ、お互い様だ」
核心に迫れそうな瞬間だった。けれど、お待たせしました。という品のいい声で中断される。
「フルーツサンドです。どうぞごゆっくり」
微笑む女性は、わたしたちをすごく優しく眺めて、風間先輩の方にひとつ耳打ちをした。先輩はそれを居心地悪そうに聞く。目が一瞬合う。まばたきと同じくらいの時間だけ。
「先輩は昔ここで何食べてたんですか?流石にコーヒーは最近でしょ」
「おまえは俺をなんだと思っているんだ……まあそうだな、牛乳プリンがあって、それをよく食べていた」
先輩がメニューを開く。ほら、と指差す通り乳白色のプリンの写真が載っている。自家製という文字からも、写真の素朴な色使いからも優しい味がすると思った。
「幼馴染がプリン大好きなんですよ、次の誕生日にここ連れてこようかな」
「いいんじゃないか?美味いぞ」
「にしても先輩って本当に牛乳好きですね」
「それもあるが、これはよく兄が作ってくれたからな……この写真も確か兄が撮ったものだったか」
お兄さんの話をする先輩はとても穏やかだった。凪いでいる海のような落ち着き。ひとつひとつ大事なものを拾い集める作業のようで。
「お兄さんは料理上手だったんですか?」
「妙に小器用な人だったが、どうだったんだろうな。両親が遅い時何回か晩飯を作ってくれたこともあるから、人並み以上には上手かったのかもしれない」
「へえ、牛乳プリン以外だと何作ってくれたんですか?」
先輩が赤いストローでグラスの中を混ぜる。氷と氷がぶつかり合って風鈴未満に夏めいた音を鳴らす。外を眺めるのと同じ目線をした。
「カレーと、ポテトサラダはよく覚えている」
「あはっ、なぜそのチョイスなんですか!あ、カツは乗せてもらいました?」
「ああ、近所のスーパーで買ってきたやつをな。あとは……シチューと、肉じゃがか」
「美味しかったですか?」
「……うまかったな」
なにか欲しかったものを手にした子どもみたいに先輩が柔かく微笑む。春の終わりの金色の日差しがガラス越しに差している。それは、それはとても素敵だった。わたし達は透明なグラスに、満杯の水を抱えて、一滴でもを取りこぼさないように歩いている。そんな強烈なイメージがある。

「そう言えば、ここにはカツカレーはないんですね」
「ないな、まあここは元々飯屋じゃないしな。そこは仕方がない」
「この空気感でカツカレー食べる勇気はわたしにはありません」
「俺は食えるぞ」
「だってムードとかそういうの考えないでしょ……風間先輩は自分がやりたいことをするタイプですし?」
「そこまで全く空気が読めないわけじゃない」
侵害そうな顔をされてもわたしには、先輩が仕切りと段取りを華麗にこなす想像がつかない。そもそも、今日だって。
「俺だって今日がデートなことくらいはわかるが」
「………………は?え、デッ、デ……」
「デート」
真顔。嬉しそうでも照れているわけでも、嫌そうでもなんでもなく、数学の数式を解くように先輩が発する。
「男女が出かけるんだからデートで間違いはないと思うが」
「ふっ……あはははは!おもしろすぎる、そそんな真面目に、ふふっ今、いうことですか?あー……お腹痛い、ふふ……」
「そこまで馬鹿笑いされるのは予想外だな」
風間先輩は割と冷静にわたしを眺めている。それが余計に面白くて、笑うのをやめられなかった。
「おい、水飲んで一回落ち着け」
先輩が手を上げてお冷やをもらう。透明なグラスによく冷えた水が注がれる。みているだけで涼しげだった。
「先輩って、どこまでわかっているんですか?」
「残念だが、俺にわかることは自分のことくらいだな」
「ふ……あはは!そりゃ人間みんなそうですよ!」
「春白のことはわかるようでわからないな」
焦ったくて落ち着かない。暑いと平静が絶えず移り変わる。でも、でも、一つも不快なものなんかなくて。ずっとこの時間が続けばいいと、本気でそう思った。もっと先輩と話していたかった。理由とかこじつけとかそんなものを剥ぎ取って。
「知りたいですか、わたしのこと」
「……ああ、知りたい」
表面直力が壊れる寸前のような揺らぎ。きれいな映画のようなワンカット。先輩と目が合う。

22.0525