アポカリプスの行方知らず

 「どうした」と、こちらを横目でみる風間先輩の瞳はきれいだ。
 なんでもないで〜す、と笑えば、いやそうに眉間にシワを寄せた。そのあと、小さく息を吐いてまた視線が手元の本に落ちる。ルビーみたいに、トマトみたいに、赤い目は文字を追っている。綺麗なアーモンド型の目と、それをなぞる二重のライン。やっぱり綺麗だなぁ、と先輩を見つめた。どうしてこんなに知りたくなるのか。
「さっきからなんだ。サボってないで、おまえの仕事を全うしろ」
「この本片付けたら終わりですもん」
「じゃあ早く終わらせろ……。俺も帰るのが遅くなるのは御免だ」
「はーい」
 先輩と私の頭の位置はいつもよりずっと大きく開いている。ふつうに立っていても150センチ後半の先輩と大体170センチな私の間には空間がある。あるけれど、先輩が座っているせいでより一層開いている。親子レベルだ。
「終わったか」
「はい、先輩も同じ委員なんだし手伝ってくださいよ。相手サボったし」
「俺は昨日十分やったからな。二日続けては流石に断る」
「だったらなんできたんですか」
「話し相手にはちょうどよかっただろう」
全く目を合わせないでいう先輩がおかしくて、自然に頬が緩む。わたしの変化を察知して風間先輩がこちらを見た。
「なんだ」
睨まれる。この人のこういう温かいところが好きだと思う。勿論、もっとやさしくしてほしいときは大いにあるけれども。
「風間先輩、ほんと頼りになるなぁって」
「褒めても何も出ないぞ。生憎といまは金欠だ」
「え、珍しいですね。何に使ったんです?」
「いろいろとな」
別に何かを奢れと言っていたわけではない。でも、自己管理において高校生らしからぬ面があるから驚いてしまった。いろいろ、に好奇心が疼く。でも赤い目にそれを突きつける勇気はない。
「近々、賭けにでようと思ってな」
やっぱり珍しい言葉が連なって、そうなんですね。と曖昧な相槌を打つ。痛んだ図書室の床に張り付いた先輩の影を蹴ってやる。わからるようでわからない。
最後の一冊を書架に戻す。図書室の引き戸に背をもたれている先輩が顔をあげる。「終わったか」と私にスクールバックを渡した。
「わたし今日お使い頼まれてて」
「スーパか?」
「はい、ここからすぐの……ってついてくる気ですか」
「家がそっちだからな」
飄々とした横顔で歩く風間先輩が面白くて、思わず笑った。流石に自分でも苦しいと感じたらしく、気まずそうにわたしを見ている。でも、否定の言葉はない。下手くそだな、この人。この前別れた時は、わたしの自宅の方だって言って、今日は逆方向がそうだって言う。優しい嘘。しかも嬉しい嘘。
「じゃあ一緒に行きますか」
「そうだな」
「うちの母、料理うまいんですよ。祖母は料理教室やってたらしくて、それはもうすっごく扱かれたらしいです」
「……カレーも美味いのか?」
「美味しいですよ」
アスファルトを見つめる。外が夕方で助かった。赤くなっても、誤魔化せる。気のせいだって笑いとばせる。
「………あ、あの」
「なんだ」
風間先輩はずっと右手をスラックスのポケットに入れたままだった。あまりポケットに手を入れるタイプじゃないのに、珍しいなと思う。
「言っておくが俺も頼まれているからな」
「何を?」
「味噌が切れそうだから買ってこい、だそうだ」
「ふーん」
多分これは嘘ではない。先輩はここまで下心を隠せるほどの嘘は上手くないから。でも、やっぱりわざわざ遠回りする必要もないわけで。
「じゃあそういうことにしておきますね」
考えれば考えるほど、わたしに都合が良すぎる用件なわけで。それ以上考えると、照れくさくてアスファルトを蹴る。削れたアスファルトが砂利みたいに散った。
「しておいてくれ」
もう下手くそなのを隠す気ないでしょ。

足が止まる。道の突き当たりまできてしまってはもう他に寄り道のしようがない。風もないじわりと湿度の高まってきた夕暮れは、もうほとんど夏だ。
「……送っていただきありがとうございます」
「気にするな、ついでだ」
「あはは! そうですね。お味噌のお使いのついで」
風間先輩の手からぶら下がったスーパーの袋はお味噌一個分ふくらんでいる。手だけはぶらぶらと私と先輩の中心に転がっている。
「あ、環?帰ってたの」
玄関からエプロン姿の母が顔をだす。
「母さん」
「あら、え、何……!後輩?後輩くんでも連れてきたの?ねえ君、夕ご飯食べて行く?」
「いや……後輩じゃなくて」
「あらやだ言ってくれればよかったのに〜」
母がわたしと先輩の間に割り込んでくる。肩を掴んで揺すり出しそうな剣幕だった。楽しそうな母にはわるいけれど、さすがに今日は無茶だった。
「母さんってば!もうすみません、放っておいてくれて平気です……」
「そうか?……そうだば、じゃあまた」
「はい、さよなら。また学校で」
「ああ」
振り返った背中は小さい。歩けば歩くほど先輩の背中は小さくなっていく。人差し指と親指で掴めそう。それでも、さっきまでなんて目じゃないくらいに遠い。私と先輩の身長差の何倍だろう。いまなら先輩の手、いや、指先に触れられそうな、錯覚がした。わたしはいつも気づくのが遅いから、遠くなって初めて惜しくなる。


「あのね、言っておくけどあの人は後輩じゃなくて先輩だよ」
ようやく得た訂正の機会を逃すまいと母さんに告げる。当然といえば当然だけど、母さんは目を丸くして「じゃあ今度連れてきて」と笑った。全部お見通しみたいな表情を見ていられなくて、視線を逸らした。唯一状況を理解してない父さんは、首を傾げながらご飯を箸で口に入れる。しばらく咀嚼して飲み込んでから「環にも彼氏かあ」とかいうものだから、違う。違うよ、とたくさん否定の言葉を重ねた。
違うの、わたしはあの人を。
浮かびかけた答えは全部見失ってしまうから、思わず箸が宙で止まる。何を食べるとか食べないとか頭から吹き飛んでしまう。白熱球がオレンジ色の光で照らされている。平和そのもの。
「彼氏くん何が好きとかわかる?」
「だから彼氏じゃないってば」
「……好物ぐらい知ってるだろう」
「父さんまで何言ってんの……」
ホームコメディさながらの会話をする両親にため息が出た。
「で、名前よ。何先輩っていうの?」
「……風間先輩」
「好物は?!」
「…………カツカレー」
「母さんの得意料理じゃないか」
「腕によりをかけます」
「あー……もうっ、恥ずかしいからやめて!呼ぶとは決まってないから」
恥ずかしくて会話を振り切った。完全にわたしを見て遊んでいたふたりは、それでも朗らかに笑う。
「あら、呼んでもいいのよ?」
「……先輩に聞いたらね」
鏡を見たくても自分がいまどういう表情なのかがわかってしまった。だって、こんなに暑い理由なんか他にない。



携帯で風間先輩の電話番号を呼び出す。通り過ぎる。また戻る。どうしようか、誘ってみようか。どうしようかな。ぐるぐる動かしていたら、間違えてかかったりしないかな。照れ臭くて理由を探して、それでも偶然は起こらない。そりゃそうだ。
でも、運命みたいなことが起こると全部操られてるように感じる。深呼吸をする。目を閉じる。発信のボタンを押した。
『……もしもし、風間ですが』
「は、春白です。いま時間大丈夫そうですか?」
えー、とかあーとか煮え切らない音を漏らしながら、何から話せばいいか迷っていた。もうここは恥を捨てて、母さんのカツカレー作戦に乗っかるしかないのでは?
窓から夜空を見る。深い青にぽっかりと半月が浮かんでいた。ハサミでくり抜いたかのような黄色の月。
「わたし、いつかここから出て、いろんなところへ行きたいんですよね」
『突然なんだ』
「いえ、なんとなく……そ、それで、世界の果てまでいって、帰ってきたらやっぱり母の手料理とか食べたくなるんですよきっと」
『想像はつくな』
宛てのない言葉がずっと口から溢れている。ヨーロッパなんかだとずっと終末論患者と世界の果てを探す理想主義者ばかりで。言わなくてもいいこと。言いたいこと。
カーテンを握りしめる。それでも言葉は出てはこなかった。うちで食べませんか。本気ですよ。
「わたしの母のカレー、絶品なんですよ……」
『……今日の帰りでも聞いたぞ』
「はい、だから……その」
唇を舐めて、口内を湿らせて、心音が早まる。聞けばいいだけなのにどうしてできないのかわからない。先輩はもっとさらっと誘ってくれたのに。
『……おまえが、世界放浪に満足したとして』
先輩が仮定を持ち出す。世界放浪。思わず復唱する。それを無視して先輩が続ける。
『自宅のカレーを食べ飽きた頃、俺はフルーツサンドでもコーヒーでもプリンでもなんでも付き合う』
ねえ先輩。いまどんな顔してそれを言ってくれてるんですか。
『おまえが世界の果てから帰ってきたら……おまえの夢が叶って満足したら電話が欲しい、と思った……以上だ』
「……電話じゃなきゃダメですか」
『駄目じゃない。待ってる、いくつになってもまっててやる』
会いたいと思った。でも会ったらきっと恥ずかしくて何もいえなくなってしまう。顔が見えないから、遠いから、心音が暴れていることなんてわからないから、言える言葉がある。先輩、呼べば、なんだと声が返ってくる。
「よかったらですけど……今度、うちでカレー食べませんか?」
『いいぞ。絶品のカレーに関心がある』
下手くそ。言葉を噛み殺して笑う。あまりにも分からないことばかりの世界の中で、ひとつだけわかったことがある。わたし、先輩がうちにくる日伝えることがあるんですよ。
「先輩、いま窓の外見れます?」
『……ああ、見れるぞ。それがなんだ』
だって今日は、あまりにも月がきれいだから。
「今日は月がきれいですねって」
窓に映るわたしの顔は空の色が写り込んで深い青だった。本当に、電話でよかった。


朝、学校に到着したところで、春白!と大きな声に呼び止められる。そのまま振り返ると、ごめん!とクラスメイトが手を合わせ謝罪した。明るい茶髪の彼はいつもちゃらんぽらんだけど、こういう誠実さが見えると強く言えない。
「昨日委員会サボって悪かった……!ひとりでやってくれたって聞いて。まじでごめん」
「あ、ううん。ひとりっていうか……まぁ、気にしないでいいよ」
「今度なんか奢る」
「いやそこで奢るよりはサボらなければいいかなぁ。先生から聞いたの?」
「いや違う。風間先輩から」
「…………そっか。まぁ次サボったら、先生に正式にお伝えするから」
「頑張るぜ」
「うっわあ、ありえないぐらい軽いな……」
軽口に軽口の応酬。誰も気づかないで欲しいと思う。わたしの心臓がいつもより速く動いていること。昨日の電話のこと。わたしのことを知りたいなんてことを言った先輩のこと。昨日の月のことに誰も気がつかないで。
もう少しだけ、わたしだけの秘密。