修羅であろうとした春の宵
意味があったはずのものが意味をなくす瞬間がある。携帯電話。お金。先輩がくれた映画のチケット。冷蔵庫の中にあるカレーの材料。夢。もしかしたら恋になったかもしれない感情。
「他に逃げ遅れた人はいないか?」
「は、母の姿が、見えなくて……家の、なかに……」
わかったと答えていくその人の背中を呆然と眺めていた。あたりはほとんど壊滅状態で、知っている場所には見えなかった。SF映画みたい。他人事な感想を捻り出すので精一杯だった。携帯電話が意味をなさないことなんて明白で、わたしは握りしめたそれを瓦礫に向かって投げた。
足がだるくて動かない。もうこんなことになったらもうどうだっていいような気がした。動けないわたしの上に大きな影が落ちる。SF映画の敵っぽいな、乾いた子供みたいな感想だった。
終わる、そう悟ったとき目の前で、『怪物』が真っ二つになった。
刀めいた何かを鞘に戻しながら、大柄なその人は改めてわたしの方を見た。真剣な目がこれは現実だと訴えている。
「病院へ行けばひとまず安心だ、逃げろ」
こんがらがった頭のまま、わたしは立ち上がる。
「振り向くな、走れ」
いいな、と念押しされわたしは頷く。また大きな影が刀を持つその人の背後に迫る。目の前が赤く染まる。警告。走れ。その人が言ったのか、わたしが反芻したのか、または自分で言ったのか。それがどれかわからないくらい、壊れきったボロボロの街を走った。息が荒れるのもお構いなしで、走り続けた。
あの日見た『怪物』は「近界民」と言う。そして刀のようなものを駆使してこの街を救ったのを『界境防衛機関ボーダー』という組織らしい。病室のテレビが繰り返し報道する。ベットに横たわる母はいくつもチューブに繋がれたまま目覚めない。わたしは握り締める。クリアファイルに入れた紙切れを。ボーダ入隊願の承諾書。堅苦しい文字だけが生気のない部屋の底で沈んでいる。
「やっときた!!無事でよかった……。あ、風間先輩が春白のこと探してたぜ」
「どこにいるかわかる?!」
掴みかかるように彼を問いただす。先輩だ。風間先輩もいまここにいる。彼は、一度言葉を詰まらせてから「体育館の渡り廊下にいるって」と答えた。ありがとうとお礼をいいながらそのまま走った。廊下はところどころ濡れていて、ローファーじゃつんのめる。でも、それよりも、会いたかった。泥だらけでも、あざだらけでも疲れ切っていても。先輩に会いたかった。あなたが無事でうれしいと伝えたかった。
息を切らしながら曲がる。先輩が立っている。
「……春白、無事だったか」
「先輩も元気そうで、なによりです」
先輩は私服だった。わたしと違って一度帰宅できたようだった。
「先輩のご家族は無事ですか」
「ああ、両親ともになんともない。それよりもおまえ、確か家は東三門じゃなかったか」
「……はい」
手を握りしめる、そうしないと立っていられない気がしたから。先輩がわたしに近づく。
「おまえに渡したかったものがある。もうただの紙切れ同然なんだが……」
受け取ってほしい、先輩はそう言ってわたしにチケットを差し出した。明後日の日付。わたしが見たいと笑った映画だった。ポスターと同じ絵柄のチケット。顔をあげる。先輩の赤い目がある。でも、あたりが暗くて先輩が何を見ているのかわからない。
「おまえが好きだった」
どこか遠くから聞こえている。目の前にいて、まっすぐわたしだけを見ているはずなのに、どうしてだか、他人事のようだった。
「本当は明日……いやもう0時を回ったからか今日か。好きだと言うつもりだった」
違う。先輩はわたしなんて見てはいない。告白ではなく、もはや告解だった。罪の懺悔。わたしは聖職者じゃない。だから、どう受け止めればいいのかがわからない。
先輩は繰り返す。何度も、終わりだとでもいうように。エピローグのように。あまりにも酷くて、出来の悪い映画でも観ているのかと思った。
非情だ。普通だったらこう言う困難に向き合った時ほど、好きだとか、愛してるとかおまえが必要だとか語るのに。
きれいな映画になんてなれない。
「やらなきゃいけないことができた。厳密に言えばやりたいことだ。だから、おまえと映画にもいけないしカツカレーも食えない」
先輩は最後まで正しかった。あまりにも正しすぎて、わたしが憤慨する隙さえくれない。ねえ、先輩。奇遇ですね、わたしも手探りながら今日、伝えるつもりでした。ねえ、わたしすごく楽しみだったんですよ。
雨上がりの屋外はガソリン臭かった。有害な物質を吸い込んで、わたしはこれが夢ではないことを理解する。濡れた靴先も、色の濃くなったコンクリートもそのままに「どうするんですか」とだけ確認した。
「どうもしない。色恋沙汰に興じる暇なんてないだろう、おまえも俺も」
この目には何が見えているのだろう。非情。赤い目に映るわたしは、特に感情を浮かべることもなくそうですね、と答えたらしかった。透き通るような青はどこにもなくて、鈍くて重い灰色の中でわたしたちは終わった。
何も言えなかった。だって、あまりにも手際がいいから。もうわたしなんて見ていなかったから。
母に渡せなかった承諾書を先生に渡した。先生は戸惑いながら、でも、覚悟したように「いいのね?」とわたしに問うた。
「春白さんに言っておかなきゃ行けないことがあるの」
先生の歳を重ねた手がわたしを握る。かなしそいの微笑むと、おばあちゃんのように見えた。いつも穏やかで手際のいい先生が、視線を落とす。落ち着いて聞いてね、丁寧な前振りから先生は慎重に口を開いた。ああ、聞きたくない。聞きたくないな。先生、言わないで。
「XXXさんが行方不明なの」
知らない音だと脳が思い込もうとする。あの子の名前を上塗りする。名前を呼ぼうとしても呼べない。環。声だけが耳に蘇る。
「まだ安否確認が取れていないだけで、まだ、まだ希望はあるからね」
濡れたコンクリートに映る影を見つめる。月が明るかった。街灯も何もかも壊れている世界で月明かりだけが全てだった。
わたし達は、さよならって言ってもう二度と会わないならまだマシだったかもしれない。まだ間に合うような気がして、制服のスカートを翻す。もしも、いたら、いたらどうしよう。わたしは先輩になんて言えばいいだろう。
職員室を出て廊下を曲がる。つい、よく知っている背中を探す。小柄な背中。真っ直ぐに前を見る力強い背中。いま、いま会いたかった。もう会わなければいいと願ったくせに、わたしは先輩に会いたかった。
もう先輩はいない。あの人はもう、きっとわたしを選んではくれない。空っぽの右手を強く握りしめる。
◇
数日後、幼馴染は発見された。
半壊したモールの中で。彼女は身体の欠損はなかった。でも、頭から血を流して死んでいた。単純に失血死だった。心臓部に空が開いているわけでもなく、ただ、彼女は下敷きになって死んだ。あらゆる不幸の中で一番マシだったのは、彼女にとってよかったのはどうやら即死だったこと。
これをどう喜べばいいのか、わたしにはわからない。
項垂れることすら出来なくて、隣に座る青い目の少年にわたしは問うた。
「どうしてわたしを連れて行ってくれたの?」
青い目の少年がわたしを彼女のところへ連れて行った。彼の名前を呼ぶ。ジン。迅は、未来が見えるといいのけた彼はどう見ても同年代くらいだった。でも慣れたように口を開く。
空よりも純粋な青がわたしを映す。
「大事な人との別れはちゃんとした方がいいでしょ?」
「……そうだね」
空のように透き通った青が眩しくて。なのに、全く関係のない先輩の赤い目が遠くで点滅するような、錯覚がある。
幼馴染は、今日16歳になる。わたしはあの子に何も出来ないまま、何も告げられないまま。何も渡せず、受け取れず、気がついた時には全てを喪っていたようだった。
どうにもなれなかったわたしたちは、いつか、こうやって過去に埋もれて死ぬ。もう二度と手に入らない青い日々の中で。
22.0525