今宵悲しみは僕だけに傅く

雨の音こそしないけれど、空は重たい色の雲に覆われていた。明日もまたどうせ雨だ。諦念。天気予報によると今年の梅雨は長いらしい。わたしは何も考えたくないから、ゆっくりと形を変える雲をただ見ていた。
隣のソファーに誰かが腰を下ろした気配がする。確認すれば青い目がそこにあった。それから、世界の仕組みの秘密でも教えるように、迅がわたしに顔を寄せた。
「春白さんに吉報、明日は晴れだよ」
迅の青い目に映るわたしは特に感動を見せない。わたしに迅が笑いかける。ぎこちない笑顔。ボーダーのラウンジの中でふたりきりになったタイミングで、天気予報を口にする迅は今日が初めてではない。迅はいつもわたしに変わった新説を向ける。ありえない話をたくさんする。それがどういう意味を持つのか今のわたしだってわかる。
「どうかな?今の時期って梅雨じゃん、梅雨で雨降らないとかどうなの」
「や、ゼロではないでしょ」
「そりゃそうだけど」
わたしの曖昧な同意に満足して、迅はグラスに入ったコーラを飲み干す。未来が見えるとかなかなか信じ難いことを言う中学3年生と出会うとは思わなかった。だから、迅のいうことを信じても面白いかもしれない。外れたら悲しいことに間違いはないけど。
「おまえらなんの話ししてんの?」
「天気の話」
「テンキ?なんで?」
間抜けな顔をする太刀川がわたしと迅のテーブルに帰還する。手には迅と同じくコーラの入ったグラスが握られている。半透明な赤茶色の液体は呼吸をするように、ぱちぱちと炭酸が弾けていた。
「天気なんかよりバトろーぜ、春白も迅もどうせ暇だろ」
「えー……まあ、いいけど」
わたしの回答に、太刀川は特にリアクションを見せず、迅はいいんだ、という表情を浮かべた。未来視なんてものを持っていても、迅はすごく正直な少年だった。
「迅もやろーぜ。あ、あと風間さんも呼ぼう、そうすりゃあ今日とかあっという間じゃん」
「風間さん?なんで」
「春白さん知らないの?風間さんも春白さんばりに太刀川さんとずっとやってるよ。物好きだよねえ二人共……」
『風間さん』の名前に少しだけざわつく。風間さん、心の中で唱える。大丈夫、間違えない。
「太刀川とやるのも小南とやるのも変わらないしね、勉強にはなるから」
「そう?ただ負けてるだけじゃ意味はないけど。まあ、春白さんはトリガーになれるところからだから、数はこなした方がいいよ」
「迅〜、俺は〜?」
「ええ……太刀川さん?ええ…………」
「やろうぜ!」
「あー、もー、わかったよ」
迅は笑う。沢山笑う。子供らしく無邪気に。子供には見えないくらい淡々と戦うのに、トリガーをもたないと子供らしい。迅は太刀川に押されて、対戦ブースに向かう。
「あ、風間さんじゃん。迅と春白のあとでやろーぜ」
足を止めて、太刀川は手をブンブンと振る。事務的な空間の中で迅の周りだけが明るく光っているように見えた。
『風間さん』はわたしたちの方に近づいて、呆れた表情で太刀川に視線をくれた。はしゃぐな、とでも言いそうだった。誰もわからないくらい、ほんの僅かにわたしの喉の真下が硬化する。『風間さん』はわたしを視界に入れないように太刀川と迅に近づいた。
「別に構わないが、今の時間俺は何をすればいいんだ?」
「え、春白とやってれば良くね」
太刀川は平然と言いのける。間違いではないし、本当ならそれでよかった。『風間さん』の視線が怖かった。
「いや、わたし小南のところいく約束あるし……あまりわたしと風間さんがやる意味ないよ」
迅の青い目は全部を見透かしている。過去は見えないから、きっとわたしたちのことを詳細に知っているわけではない。でも、他人ではないことはわかっている。
あの日からずっとわたしは考えている。先輩に普通に話しかけていいのか、とか。別に誰かに言うべき関係でもないし、迅でも過去は見えない。そのはずなのにいつも気遣うような視線が当てられている。だから、多分、わたしたちはただの他人にもなれないz
「まあ、そう言うことなら仕方ないよね」
「……俺は自己鍛錬するから気にしなくていい」
「ふーん、風間さんがいいならいーや」
聞こえないふりをする。見えないことにする。好きだった。あの赤い目を見ると泣きたくなる。死んでしまいたいと思う。それで、全部、はじめからやり直したい。



「レイジさんに弟子入りしたい?」
小南はトリオン体に換装して、短い髪をさらりと透いた。夕陽を溶かしたような綺麗な髪を見ながらわたしはそうだよと相槌を打つ。わたしも換装してトリオン体になる。自分の手のひらが思い通りに動くことを確認する。手首をぐにゃりと曲げストレッチをした。
「それ私に言ってどうすんのよ」
「ストレートにいえばいいかな、結構距離感じるんだよね木崎さんと」
「そ?真正面から向き合えばレイジさんは話聞いてくれるわよ。にしてもレイジさんね……いい所ついているんじゃない?」
自信満々の小南の立ち姿が好きだ。
小南らしい微笑みがわたしの方に向く。
「でも最近のレイジさんは忙しいわよ。スナイパーの訓練やってるから。環って結局攻撃手と射手どっちにするの?やっぱ攻撃手?」
「射手と攻撃手を教わりたくて」
「……あんたが?」
「やめてよそういう目で見るの……選択肢としては有りでしょ」
ジロリと容赦のない視線を浴びせられる。
「あんなにセンスないのによくいえたわね」
「基本は攻撃手で考えてるけど、それだけじゃついていけないから」
「バカ、今は基礎がなってないんだから無闇矢鱈に新しいことに手を出してる場合じゃないでしょ」
「でも」
「あのね環、これは部活でもなければ競技でもないわ。戦場に立つの、わかる?」
真剣だった。大人が子供に言い聞かせる様とも似ている。でも。でも、わたしはこのままじゃ意味がない。わたしだって戦いにきた。戦いがわからないなりに、壊れてしまちゃ。日々の中で生きられなかったなりに、考えてきた。
トリオンでできた部屋の中でわたしは息を吸いこむ。戦えなければ意味がない。いまは戦うことよりも死なないことが重要だって言われても。
「……わたしは間違えていないと思う。わたしはもう、ここでしか生きられないから」
小南は何も言わなかった。硬い表情はきっと肯定の意味だ。
今 、ボーダーにいる人たちは、きっとここ以外では生きられない。いつか、いつの日にかトリガーを手放せる日が来るかもしれない。でも、その『いつか』はきっと遥か遠い未来だ。
「……多分、レイジさんも同じこと言うわよ」
「わかってる」
「私よりずっと強情よ、その辺はみんな」
「そうだろうね」
わたしの空っぽな手を小南の両手が覆う。小南はやさしいね。悲しくなるぐらいやさしい。

木崎さんと真正面から向き合ったのは、あの災害の日以来初めてだ。消防士とかレスキュー隊員めいた身体を前に、わたしは息をゆっくり吐く。
「わたしに指導してくれませんか?」
「…………おまえは確か春白だったな、どうして俺なんだ」
「木崎さんみたいになりたいんです」
「……俺みたいに?」
「はい。木崎さんは、戦場でできることが多いですよね。実際見た時いろいろな武器を駆使してましたし、小南からも攻撃手から射手、今は狙撃手もって聞いて」
「小南や迅に止められなかったか?今はまだ基礎段階だ」
「言われましたけど、わたし諦めません」
木崎さんの顔が険しくなる。別に意地悪で止めているわけじゃないのだろう。わかってる。「迅に唆されたか?」という問いに首を振った。それには少し驚いている。迅にとやかく言われてはいない。唆されて従順にいうことを聞くタイプではない、残念ながら。
「わたしはわたしの意志で来ました。わたしは、未熟だからって守られるのを当然だとは思いたくないんです」
全く相手にされていないことわかっていて言葉を続けた。
「わたしには太刀川みたいな才能じゃないし、小南たちとは期間が違う。でも、それでもわたしはここで生きるって決めたんです。お願いします……!」
「今すぐか?」
「はい、できれば」
木崎さんは時計を見た。あまり変わらない表情から何をどう読み取ればいいのか迷った。落ち着いた声で、いいぞ、と答えた。
「今は無理だ、この後狙撃手の訓練を入れている。だが、その後なら……少しは見てやれる」
「……ありがとうございます!」
木崎さんの言葉に思わず声量が上がる。こんなに大声を出すのはいつぶりだろうか。答えがでそうになって慌てて、トリガーを起動する。
「今すぐ見てやれるわけじゃない」
「大丈夫です!自主練しておきますから」
「……いや、変な癖がつくと良くないからやるなら身体作りだ。春白は運動神経は言い方ではなかっただろう」
「まあ……そうですね」
トリオン体を持て余している自覚はある。太刀川は荒削りながらもっと自由だ。でもあれを成立させているのは太刀川の剣術のセンスと戦闘のセンスだ。それくらいはわかっている。
木崎さんはわたしの葛藤も受け入れたように口を開く。
「ずば抜けた運動神経がないなら鍛えればいい。生身の扱いがわかればトリオン体でも動けるようになる。動けるようになれば攻撃手として成立するし、おまえの言うように射手の訓練をする余裕も生まれるだろうな」
わたしはトリガーを解除し、木崎さんに向き直る。
「これからご指導よろしくお願いします」
「……俺が今日教えられることはこれくらいだ。細かいことはそれをまずこなせるようになってからだ」
頑張れよ、と励ます声は、あの日、わたしに走れと言った時と同じだった。わたしを救ってくれたこの人のようになりたい。
いつかの青い憧憬は忘れたことにする。大事なものを捨てる覚悟なんてとっくにできている。



雨が降っている。かなり水滴は大きくて、その分屋根や庇に叩きつけられる雨の音も激しかった。高校からボーダー基地までは走っても15分はかかる。
それでもなんとなく予感がして、わたしは昇降口の前で立っていた。青い目のひとつ下の男の子。なんとなく彼に今後をかけてみる。

詰襟の中学生が走ってくる。彼が走るたびに差した傘も大きく揺れて、水滴が飛び散る。それから、余裕たっぷりの顔を見せて、笑う。雨でも迅の目だけが青空のように真っ青だった。
「あはは、ごめん。雨だったね」
全く悪びれていない迅にどう振る舞えばいいのかわからなくて、正直に迅のことを指摘することしかできない。
「迅さ、わざとでしょ」
傘を渡す迅に胡乱げな視線を浴びせた。うん、ごめんね。と正直に謝る迅に首を振った。怒ってない。
「怒ってないよ、迅、心配してくれてるんでしょ」
「あー……まあ……」
「いいよ別に隠さなくて。わたしも不甲斐ないな、年下に心配かけちゃってさ」
自然に笑おうと顔をあげたのに、息が詰まるだけで意味がなかった。また視線が床に向く。
「迅はさ、下をむいて息を3秒止めてから顔を上げるとさ、笑ってるように見えるって話知ってる?」
「え、いや……知らないけど」
「じゃあ、見える?わたし、笑えてるかな」
「……無理しなくていいと思うよ」
迅のいいなって思うところ。何があっても目を逸らさないこと。
「そうかなあ」
「いいから早く行こうよ」
わたしが傘を開いた瞬間に、迅は傘の柄を握っていない上の手をとって走り出す。難しいことをしているのに、迅はなんの障害もなくスイスイと走っていく。手を引かれながら、迅、と彼を呼んだ。
わたしはいつだって彼に気遣われている。太刀川だって嵐山だってそんな風に扱われているのを見たことがない。壊れ物とか特別視とかそんなきれいじゃない。ただ迅は、わたしだけこうやって扱う。まるで今にも絶滅してしまうかのように。
「ねえ迅、わたしってそんな今にも死にそうに見える?」
走っている迅の足を止めるにはこれしか思いつかなかった。案の定、迅は走るのをやめてわたしを見た。その表情にはやっぱり余裕のようなものがあって、わたしは彼の見た未来でひとりで愚かに踊る覚悟を決めた。
「迅は……」
「春白さん、真っ直ぐいくと病院に近道で、曲がるとボーダーへの近道だけど……どうする?」
わたしの言葉を遮って、迅は道の選択肢を委ねてきた。意味がわからなくて、わたしは迅の表情を見る。どこかに答えがあるんじゃないかと思って。迅は優しく微笑むだけで、ヒントだってくれなかった。
「……いいよ、ボーダーの方で」
「じゃあこっちに曲がろう」
ようやく手が離される。傘をくるりと回しながら余裕たっぷりで迅が道を行く。大人のような背中。木崎さんや小南もそうだ。子供のわたしに想像できないくらいの日々が彼らをそういう背中にした。
「迅って大人っぽいよね。誕生日いつ?」
「何がどうしてそんな質問なのかわかんないけど、おれは誕生日4月だよ、4月9日……相性占いでもしちゃう?」
「そっか、それもあるのか」
「えっ、なになに?どういう趣旨の納得なのそれは」
「いや、同級生の中でも年上の方になるんだな〜って。わたしと一週間ちょっとしか違わないし」
「あ、えっ……春白さんて太刀川さんと同級生だよね……?一週間、って」
戸惑っている迅は初めて見る。未来が見えるんだったら全く動じないのかと思ったけれど、そういうわけじゃないみたいだった。
「わたしの誕生日4月1日でさ、生まれ年でみると迅と同じなわけ」
「あー、そういうことか……なるほど……なるほど?」
「理解できた?」
迅が苦笑する。「これは一本取られたな」少し悔しそうにいうからこんなやりとりに勝ち負けもないと笑ってあげたかった。しようとしたら顔が痛くなったから諦めてしまったけれど。
「じゃあなんか敬語使うのもおかしいね」
「はじめから敬語じゃなかったでしょ迅は」
「それもそう。んー、じゃあ、環さんでいい?下の名前」
傘を差しているから物理的な距離は一定のまま、呼び方の変更の要望を出される。下の名前。
「……なんか妙に距離近づけてくるね?」
「いいじゃん、8日違いのよしみでさ」
「いいよ」
「あ、フツーに有りなんだ」
笑わなくても迅はとやかく言わない。昔のわたしを知らない人だからとても話しやすい。
「じゃあ改めて。環さん、実はさおれさっき嘘ついてたんだよね」
嘘。迅はあっけらかんとしている。天気予報を間違えて伝えた時から多分、こうすると決めていたんだろう。
「こっちが病院に近い方」
「……なんでそんな嘘つくのか聞いても?」
「環さんのお母さん入院してるんでしょ?忍田さんから聞いたら居ても立っても居られなくなってさ。事情を知っている人が一定数必要だと思って」
「まあそうだけど」
「なら、万が一のことも考えなきゃだめでしょ」
迅の問いには答えず、わたしの視線は迅の傘を滑り落ちる水滴をおった。
「やさしい嘘をどうもありがとう」
迅のきっとダメなところ。あまりにもやさしすぎて、きっと彼が擦り切れてしまうところ。わたしがよりかかったらきっと潰れてしまう。迅の目に映る未来にだってそんな結末があるだろう。それでも迅は雲一つない青い目でわたしに微笑む。明日、と口にする。
「また明日、天気予報さ、雨だから」
「…………本当に?」
「本当だよ。だから、まってて」
迅が何を心配しているのかわからない。青い目はわたしをそれはもう真剣に眺めていて、逸らせそうにもなかった。何か大きな賭けをしていることだけはわかる。迅。彼を呼んで安心させたくて笑おうとしたけれど、口角が硬くて動きそうもない。わたしは、こんなに笑うのが下手だったろうか。

22.06.02