- 少し過去の話 -
※途中で現代に戻ります。
私にとって、絵を描くことは、好きを通り越して呼吸するのと同じくらい自然なことやった。
小さい頃は、絵の教室にもちょっとだけ通ってて。
ただ楽しくて描いてただけやのに、気づけば先生に褒められて、何かの賞ももらったりして。
そんなんの積み重ねで、家には賞状とかトロフィーとかが飾ってある、ちょっとした自慢のコーナーがあるんよ。
もちろん、自分の描いたもんを褒めてもらえるのは嬉しかった。
それが誰かの心に届いたってことやし、それって、すごく幸せなことやと思う。
せやから、中学同様に高校も迷いなく美術部に入った。
もっと上手くなりたいし、もっと描きたい。
理由はそれだけで十分やった。
「天音ちゃん、今度のコンクール絶対選ばれるで! すっごいやんか、この絵!!」
そう声をかけてくれたのは、同じ美術部の子。
真っ白なキャンバスに向かって筆を走らせてた私の横で、作品をのぞきこんできた。
「そうかな? ありがと。」
自然と口元がゆるむ。
今回は、私なりにかなり気合い入れて描いた作品やったし、確かに手応えはあった。
テーマは「心象風景」や。
色も構図も、何日も悩んで試して、ようやく形になったもんやった。
けど―――
私は、選ばれへんかった。
あれだけ時間かけて、悩んで、迷って、それでも納得いくまで描いた絵やったのに。
結果は、ただの一次通過もなし。
名前すら載ってへんかった。
今まで描いてきた作品は、どれも何かしら評価をもろてきた。
けど今回は…ちゃうかった。
この、胸の奥にズシンと沈んだような感覚。
悔しいとか、悲しいだけじゃない。
どこかで誰かを羨んでる、妬ましい気持ち――
こんな自分、知らなかったし、知りたくなかった。
それからやった。
私は絵を描かんようになった。
……ほんまは「辞めた」って言い切れたら、まだカッコついたんやろうけど。
そうちゃう。
描きたくても、筆が動かへんの。
あんなに好きで、自然と手が動いてた絵が…まったく、描けへんようになった。
「天音、今日も部活行かんの?」
「うん。今日も帰る。」
「そか...ほな気をつけて帰ってな!また明日!!」
「うん、部活頑張ってな〜」
そう言って、教室のドアを開けて出ていく凌ちゃん。
軽く揺れる短めの髪が、夕陽に透けて綺麗やった。
私はその背中を、ぽつんと見送った。
教室には、もう私ひとり。
時計の針がカチ、カチって音を立ててるのがやけに耳に残る。
皆もう帰ったか、部活行ってるんやろな。
私が部活に行かんようになって、もう一ヶ月近くになる。
絵を描けんくなってから、私の心にはぽっかりと穴が空いたような気がする。
なにしてても、どこか上の空。
なんも感じへん、なんも残らん。
ただ、ぽっかり。
そんな感じ。
別に、コンクールのために描いとったわけやない。
賞とかトロフィーが欲しくて筆握ってたわけでもない。
それはちゃんと分かってたつもりやった。
けど――
心のどっかでは、そういう評価とか、認められることを目的に描いてた自分がおったんよ。
それにも気づいてしもた。
私は、いったい何のために絵を描いてたんやろ。
描くことが好きで始めたはずやのに、いつの間にか、「うまく描かなあかん」とか「結果を出さな」って思うようになってて。
絵に対するの「好き」が、どっか行ってしもたんやろな…。
静かになった教室の窓際、いつもの席に腰かけて、外をぼんやり眺めた。
グラウンドでは、野球部の子らがノックの練習してる。
白球が高く跳ねて、誰かがそれを全力で追いかけとる。
校庭の端では、陸上部が一列になってハードルを飛び越えていく。
どの子も、汗まみれで真剣で――
なんか、眩しいくらいやった。
そのキラキラした姿がまぶし過ぎて、私の中に溜まってた黒いもんが、どろどろっと溢れ出しそうになった。
悲しさでも、妬ましさでもない。
もっと重くて、苦しくて…でも言葉にできへん。
私はそっと唇をキュッと噛み締めて、感情を飲み込んだ。
「……帰ろ。」
ポツリとそう呟いて、立ち上がったその瞬間。
ガラッ
教室のドアが勢いよく開いた。
びっくりして思わず振り返ると、そこに立っとったのは、運動着姿のクラスメイト………北くんやった。
「……なんや、まだ帰ってへんかったんか?」
「あ、うん……でも、もう帰るとこやで。」
それが北くんとの、初めての会話やった。
クラスは同じやけど、席も遠いし、グループワークとかも一緒になったことなかったし、正直、話すきっかけなんて一度もなかった。
だから、こうして普通に話しかけてくれたことが、私にはちょっと意外やった。
「き、北くんは……部活?それとも、忘れもん?」
そう聞いてみたけど、すぐには返事が返ってこんかった。
北くんは、教室の自分の席に近づいて、机の中から何かを取り出した。
小さな袋に入ったマスクやった。
そのマスクを無言で口元につけてから、ようやく私のほうを見て、ぽつりと返してくれた。
「体調、ちょっと悪いねん。…帰らせてもろてる。」
「えっ、大丈夫なん? なんか手伝えることある?」
自然と一歩、彼のほうに近づいた。
けどその瞬間、北くんは片手をピッと出して、止まれ、のジェスチャーをした。
「風邪かもしれへん。近づいたらあかん。」
「あ、ご、ごめん……っ」
言い方がピシャリとしてて、思わず胸がキュッとなった。
勝手に心配して、ずかずか近づいて、…私、ちょっとお節介やったかも。
そもそも、話したこともないようなクラスメイトから急に距離詰められて、北くんからしたら迷惑だって思っても無理ないねんな…。
そう思って、下を向いてしもた時。
「……すまん。言い方、きつうなってしもたな。……心配してくれて、ありがとう。けど、ちゃんと休むから大丈夫や。」
その声は、さっきとは違って、ほんの少し優しかった。
俯いてた顔を、そっと上げた。
北くんは、照れくさそうにちょっとだけ眉を下げて、私のこと見とった。
「お大事に。」
そう言うて、私は教室のドアのとこから北くんを見送った。
夕陽が差し込む教室には、改めて誰もおらんくて――
差し込む橙の光がやけに長く伸びてて、なんや寂しさだけが広がってる気がした。
その空気に引きずられるようにして、心の中の黒い感情が、またじわっと浮かび上がってくる。
無意識に、手をギュッと握りしめた。
……あぁ、なんでやろ。
私、なんでこんなふうになってもうたんやろ……。
考えても、答えなんか出えへん。
ただただ、私は唇をキュッと噛みしめて、感情を押し殺すしかなかった。
そんなときやった。
――タッタッタッ…!
廊下の奥から、誰かが走ってくる音が聞こえてきた。
驚いて顔を上げると、勢いよく教室の前で立ち止まったのは……さっき帰ったはずの、北くんやった。
「えっ、北くん? 体調悪いんちゃうん……?」
思わず声を上げた私に、北くんは何も言わず、握りしめた右手をグッと差し出してきた。
「……これ。」
また一歩、手を差し出してくる北くん。
私は戸惑いながらも、そっと両手を差し出して、その手のひらの下を受け止めた。
「……心が元気ない時も、ちゃんと休むんや。」
「っ……」
彼の言葉と一緒に、私の掌にぽとん、と置かれた小さな飴が2つ。
パッと顔を上げた時には、北くんはもう背を向けてて、すぅっと廊下の奥へ消えていった。
その背中に、何か声をかけようと思ったけど、結局何も言えんかった。
ただ、彼に言われ言葉だけが胸に残った。
「……心が、元気ない時……」
ぽつりと、小さな声で復唱してみる。
その瞬間――
さっきまでずっと堪えてたはずの涙が、どっと溢れ出した。
ぽた、ぽた、と廊下に小さなシミをつくっていく涙。
唇をきゅっと噛みしめても、もう止まらへんかった。
あぁ……そっか。
私、今……
心が元気ないんや。
私はその場にぺたんと座り込んで、夕陽に照らされながら、しばらくの間、泣いた。
その夕陽は、ぽかぽかと背中を包み込んでくれるみたいにあったかくて、心の奥の冷たくなってた部分が、じんわりと溶けていくのを感じた。
それから、数日が経った。
私は「心の休暇」ってことで、学校をお休みした。
ほんまはズル休み、って言われても仕方ないんかもしれへんけど……
でも、私にはちょっとだけ、ほんまに大事な時間やってん。
絵とちゃんと向き合いたかったんよ。
逃げるんやなくて、ちゃんと、自分の気持ちと向き合ってみたかった。
せやから、休んでる間は美術館に行ったり、図書館にこもったりして、いろんな「芸術」に触れてみた。
静かで、誰にも急かされへん場所で、「私、ほんまに絵が好きやったんかな」って、何回も自分に問いかけた。
答えが出たかどうかって言われたら、よう分からん。
でも、ちょっとだけ、心の中のぐちゃぐちゃが整った気がしてん。
ついでやけど……
家にあった、あの自慢のコーナーは、全部お父さんの書斎に移すことにした。
別に「過去にすがりたくない」とか、そんな大げさなもんやなかった。
……なんやろな。
ただ、今の自分には、そこにそれがあることがちょっとしんどく感じたんやと思う。
だから、ちょっとだけ場所を変えてみただけ。
きっとまた、ちゃんと笑って見れる日が来ると思うから。
心の元気がちょっとずつ戻ってきた私は、久しぶりに学校に復帰した。
いつもよりちょっと早く家を出て――
私はまっすぐ、"彼"がいるバレー部の体育館へ向かってた。
途中、ちょうど体育館の横んとこの水場で、彼ーー。
北くんが何か作業してるのが見えた。
迷わず、私は声を掛けた。
「北くん!」
「っ……なんや、今日はえらい早い登校やな。」
相変わらず普通に話してくれるその声に、私はなんや安心して、思わず顔がにやけそうになった。
「北くん、この間は……ほんまにありがとう。」
そう言いながら、ポケットから出した飴をギュッと握って、そっと彼に差し出した。
一瞬、きょとんとしながらも、ちゃんと受け取ってくれて、
そのあと北くんは、ふわっと、あの優しい笑顔で微笑んでくれた。
「……お互い、元気になれて良かったな。」
「うん……北くんのおかげやで。ほんま、ありがとう。」
言葉に嘘はひとつもなくて。
心の奥から出た感謝やった。
だから自然と、私は満面の笑みを浮かべていたと思う。
「…………。」
「ん?どしたん?」
「……いや、すまん。……朝から、ええもん見れたなって思って。」
なんのことか正直よく分からんかったけど、北くんのその言葉が、なんやちょっと照れくさかった。
「朝練、頑張ってな。」
そう言って私が背を向けたあとも、心の中はずっとぽかぽかしてた。
それから、、
私が北くんに、恋するんはもう時間の問題やったと思う。
「天音、どうしたんや? 顔がニヤけとるで。」
「ん〜?……ちょっと昔のこと思い出してん。」
「なんや、おもろいことでもあったんか?」
信介は首をちょこんと傾けて、優しい顔で私を見てくる。
「ふふ、内緒。」
「なんやそれ、気になるなぁ。」
くすっと笑ってごまかしたけど、ほんまは教えてあげてもよかったんかもしれへん。
けど、今はまだ、私の胸の中にしまっておくことにする。
大好きな人との最初の記憶――
大切に、抱きしめておきたいから。
実は北くん、いつの間にか主人公のことを救っていたんですねぇぇ