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 ふう、とひとつ深呼吸。それから一拍置いて、こんこん、細やかな装飾が施された木製のドアを控えめにノックする。やがて扉を一枚隔てた奥ではい、と静かな返事が聞こえてきた。そして近付いてくる足音。

「ナマエさん」
「……こんばんは」

 ドアを開けてくれた制服姿のアズール先輩に軽く会釈を返す。頭を上げた拍子に先輩の海色の瞳と視線がぶつかって、息が詰まりそうになった。ああ、やっぱり面と向かうと緊張する。

「…早く入ったらどうです? 時間がもったいない。僕も暇じゃないんですよ」
「あ、すみません…」

 俺が入り口で固まっていると目をすうと猫のように細め、先輩は視線をすいと外してひとつ文句を漏らす。そこで部屋に入れるように先輩がドア側に寄ってくれていることに初めて気づいた。それに謝罪をしつつ、先輩の部屋へと初めて足を踏み入れる。

「(広くて綺麗な部屋だな……)」

 部屋の第一印象はそれだ。オンボロ寮の俺の自室も寮長部屋と思われる一番広い部屋を使わせてもらっているから見た感じ同じくらいの広さだと思うのだけど、先輩の部屋はどこかすっきりとしているように見えた。初めて先輩の部屋を訪れたから、新鮮さもあるのかもしれないけれど。
 きょろきょろとあからさまに見回すのは失礼かと思ったので抑えつつ、それでも気になるので目線だけ動かして部屋を観察する。部屋の内装は同じオクタヴィネルの部屋とさほど変わらないが、俺の部屋のベッドの二倍の幅はありそうな大きいベッド(しかも半天蓋のような貝のような装飾があしわられている)がめちゃくちゃ目立つ。毎日こんな豪華なベッドで寝てるのか…羨ましい。机にほど近い壁に額付きで飾られたコインのコレクションや、サイドチェスト代わりなのか、ひとつだけ部屋の内装とは相入れない重厚な雰囲気の金庫は、アズール先輩らしさが出ていると思うけれど。

「………」

 アズール先輩の部屋を見て改めて思ったが、なんか、オクタヴィネルって全体的にホテルみたいだよな…。ここにきて寮部屋を宿泊施設として貸し出す理由が分かった気がした。そんなことを考えながら部屋のど真ん中で立ち止まる俺を気にせず、先輩は俺の横を通り過ぎる。机に備え付けの椅子を引いて座り、そして優雅にその脚を組んだ。

「適当な場所へ座ってください」
「あ、はい…」

 と言われても。先輩の言葉に僅かに逡巡した後、座る場所をと見つけたのはベッドに隣接している低い長椅子(長ソファか? これは……)である。それに失礼しますと一言断ってゆっくりと腰を下ろした。

「………」
「………」

 そして無言である。
 めっっっっっっちゃくちゃ気まずい。なにこれ、俺はどうすればいいんだよ‼ と脳内で叫んでも仕方ないのだが、気まずいものは気まずい。しまいには気まずいを通り越して何故かドキドキしてきた。
 俺の傍にはいつもの相棒がいない。グリムをエースたちに預け、放課後一人でオクタヴィネルに赴いてきたわけだが、その理由は一つしかない。これ自体はいつものことだ、何をとはお分かりだと思うので今更言わないが、実は普段と違うことが一つだけある。
 そう、今日はリーチ兄弟との日ではないのだ。まさかの、アズール先輩との日である。
 なぜアズール先輩とこんなことをすることになったのか、経緯は話せば長くなるしややこしくなるので割愛するが、つまり俺とリーチ兄弟との陸の人間の性行為をするという関係(言いたくないがほぼセフレみたいなもんである)にアズール先輩も加わることになったのだ。で、今日はその初日。正直色々突っ込みたいところはある。ありすぎるが、まあ百万歩譲って、アズール先輩と何もなければ今まで散々リーチ兄弟とやってきた分、ここにきてもう一人くらい増えるくらいまあいいか…(いや良くないのだが)となったかもしれない。が、何もなかったなんてことは「なかった」のだ。

「………」

 そろりと先輩の顔を窺う。彼は視線を微妙に外したまま、依然と何も言おうとはしない。ため息を吐きたい衝動をこらえ、俺もまた先輩からそろりと目線を外した。
 先輩との間にあった「何か」、つまり、俺がこうも気まずい思いをしている理由。ずばり、アズール先輩は俺のことが好きらしいと知ってしまったから、である。「らしい」と伝聞系なのは本人から直接聞いたわけではないからだが、正直、先輩はマジで俺のことが好きなんじゃなかろうかと思ってはいる。自意識過剰? なんとでも言ってほしい。そう思えるくらいの根拠はそれなりにあるのだ。
 ということで、俺はアズール先輩の気持ちを知ってしまった。にも関わらず、乱暴な言い方だが俺は先輩とヤろうとしているのである。いやいやいや、正直めちゃくちゃやりにくい。無理だよこんなの、目を合わせられないよと心の中で嘆くものの、このまま黙っていては埒が明かない。なんにしても事前に確認しておかなければならないことがある。

「………あの、」
「はい」

 恐る恐る、渇いた口を開いてか細い声で先輩に話しかければ確かな返事が返ってくる。相変わらず目は合わせてくれないが。
 すう、と小さく息を吸う。よし、先輩が何かを言う前になんとか言え俺! 聞こうと思ってたことを聞くんだ!

「………本当ですか? その、俺のこと」
「違います」

 ──好きなんですか。
 続きの言葉は先輩によって見事に遮られた。しかも、めちゃくちゃ食い気味に。否定系で。

「……は?」
「全く、戯言も甚だしい。ジェイドもフロイドも見当違いにも程があります。僕があなたのことが好きだなんて……、ああ、気を悪くされないで欲しいのですが、あなたのことは嫌いだとは言っていませんよ。そういう好き≠ナはないだけです」

 俺の方に一切目線を寄越すことなく、アズール先輩はつらつらと早口で捲し立てる。それに俺はなにも返せない。文字通り口をぽかんと開けて、ただただ呆気に取られていた。

「………」

 俺のことはそういう「好き」ではないと。マジで言ってるのかこの人。
俺の中で先輩の答えは「肯定」だろうと決めつけていた。先日のアズール先輩の酷く取り乱した様を見ていたからだ。だから確認と言っても内心は形だけのつもりだった。まさか、まさか俺の自意識過剰になっている「根拠」を食い気味に即否定されるとは。
確かに本人からは「好き」だという明確な言葉は聞いていない。だとしても、アズール先輩はこの前自分がどれだけ動揺していた姿を俺やリーチ兄弟に見せていたのか分かってないのか? ジェイド先輩に暴露されて、半泣きで顔を真っ赤にして、最終的に俺に良からぬ魔法を打とうとしたあのリアクションが、嘘で、偽物だったと? こんな涼しい顔で「違う」と、「百パーセントあり得ませんが?」みたいな体で否定するのか? というかまるで俺が告白したみたいになっているのだが。え、なんで?

「あー……そう、なんですか」
「ええ。そうなんです」

 とりあえず、色々思うところはあったが先輩の言葉に相槌を打ってみる。すると先輩はにこりと笑みを作って「そうなんです」ときた。
 …………何この感じ。すごい納得いかないんだが。

「……これは、アズール先輩の気持ちを確かめてから言おうと思ってたんてすけど」
「ええ、何です?」

 続きを促す先輩にゆっくりと口を開く。ああ、胸を渦巻くもやついた気持ちのせいで妙にムカムカする。

「俺、アズール先輩が俺のことを好きってジェイド先輩から聞いた時は本当に、素直に嬉しいと思ったんです。…けど、自分も同じ気持ちかと聞かれると正直分からないし、多分違うと思うから」

 ぴくり、アズール先輩が肩を震わせる。その反応をちらりと確認しつつも言葉を止めることはしなかった。

「だから、自分が中途半端な気持ちのままこんなことしたくないと思っていたんです。先輩に失礼だし。……けど、」
「けれどそれは、僕があなたのことを好きだという前提で話そうと思ってたことでしょう?」
「……はい」

 アズール先輩がそこで俺の言葉を引き継いだ。アズール先輩が暗に言わんとしていることは、先輩が俺のことを好きではないのなら、俺の言葉はそれほど意味はないということだ。

「まあ、俺の誤解だったみたいなんですけど、とりあえず俺の心持ちを聞いておいてほしくて…。」

 嘘。それは建前だ。めちゃくちゃテンパって動揺しまくりの姿を見てからの先輩の「違います」がめちゃくちゃ納得いかなかったし、全然信用できないから言った、というのが本音である。

「……そうですか」

 うーん、反応が薄い。素っ気なさすぎる。俺の言葉になにを思ったのか、先輩は一言、ぽつりと漏らしただけ。そして今までの会話がなかったかのように一拍置いて、それで、と切り出した。

「話は終わりですか? そろそろ始めたいのですが」
「いえ、待ってください、まだあります」
「まだあるんですか?」

 一体いくつあるんです? と眉を寄せてことを急かす先輩に待ったをかける。むしろここからが本題だ。ただ、この提案は先輩が俺のことを好きというのが確定していることが前提だったので、これが通用する自信はあまりないのだけれど。物は試しである。

「あの、アズール先輩とすることについてなんですけど……。シェアとかなんとかあの二人は言ってましたけど、そういうのなしに、話したりとか、そういうのだけじゃ駄目かなって」
「……は?」

 俺の思い切った提案に、今度はアズール先輩が拍子抜けた、ぽかんとした顔を向けた。

「いやだってほら、あの時場に流されたみたいなところもあるじゃないですか…。リーチ兄弟には俺からそれとなく言っておくんで」
「はあ?」

先輩のリアクションにちょっとまずったなと思い補足の説明をしてみたものの、今度こそ、心の底から何言ってんだこいつみたいな視線を向けられる。

「……つまり、あの二人に偽って、偽の逢瀬を続ける、ということですか。こうして話すだけで、行為はしないと。」
「…はい」

俺の提案を分かりやすく言い換えてくれたアズール先輩の言葉に頷いた。それに先輩はわざとらしいため息をひとつ吐いて、眼鏡の奥の切れ長の瞳を俺に向ける。ああ、今日初めてちゃんと目が合ったかもしれない。けれどだめだ。どうにかアズール先輩との行為を回避できないかと思っていたわけだが、その目論見は見事に潰れたと悟るには充分すぎる反応である。

「…あなたの気遣いには感謝しましょう。ですが、それは余計なお世話だ。第一僕は流されてなんかない。あなたと陸の交尾を…、性行為をすると決めたのは僕だ」

 ──確かにそうだ。「アズール先輩はどうしたいですか?」と、あの時俺はそう聞いて、アズール先輩は俺をリーチ兄弟とシェアすることに頷いた。けれど分からない。何故こうも行為をすることに前向きなんだ。頭の中に?マークが浮かび上がっては消えていく。リーチ兄弟の「興味本位〜」みたいな理由ならまだしも、同じような理由だけでアズール先輩が頷いたとはどうしても思えない。頷きつつも眉を寄せる俺を一瞥して、アズール先輩は続きの言葉を早口で繰り出した。

「いいですか、これは契約です。あなたが僕のことを好きでいてくれなくても僕は構わない。僕があなたをどう思って、あなたが僕をどう思っているかなんてどうでもいい。契約には個人の気持ちなんて関係ないことでしょう」
「契約って、」
「ええ、契約だ。僕は借りを作りたくないんです。だからあなたが人間の姿での性行為を僕に教える対価として、僕はあなたの勉強のサポートをします」
「は? いやあの、」
「彼らに求められる頻度が多すぎて勉学に支障をきたしていると半泣きだったでしょう。学生の本分は勉学です。身内のせいでその勉学に支障が出てしまうのは、僕としても本意ではない。どうです? Win-Winではないですか? この僕が自ら勉強を教えて差し上げるんです、寧ろあなたの方が得をしていると思いますが」

 俺が口を挟む隙もなく、畳み掛けるように言葉を重ねられる。そして一通り言い終えた後、アズール先輩は得意げに眼鏡のブリッジを押し上げ、とん、と俺の胸に人差し指をついた。笑みを浮かべ、自信に満ちた表情での一連の台詞は、それだけを聞けばかなり強気な発言だけれど。

「……なんです? 何か文句でも?」
「……いえ、なんでも…」

 本人は気が付いているのだろうか。数分前に俺のことを好きではないと宣ったその顔が、茹で蛸のように真っ赤になっていることを。そればかり気にしてしまって、正直先輩の話していた契約内容のことなんて全然頭に入ってこなかった。
 だがこれで確信を得た。この人やっぱり俺のこと好きだ。
 そして半ば呆れた。なんて意地っ張りなんだと。
 以前、オーバーブロットした時の、分厚い顔の皮が剥がれ落ちたアズール先輩を見ているから分かる。この前のアズール先輩の反応はやっぱり本物で、今の反応からも俺のことが好きなのもやっぱり本当だった。
 どうして先輩が「契約」という言葉を使ってまで俺との行為に固執するのかは分からない。けれどとにかく分かるのは、この人はめちゃくちゃ意地っ張りで、面倒くさくて、なんか色々拗らせているということだ。

「……わかりました。先輩がそこまで言うのなら、俺は構わないです」

 途中から、先輩との行為を回避するという考えは頭の中から消えていた。
 行為自体には気が進まない。先輩が嫌いとかではなく、寧ろ好かれているからだ。先輩は俺のことが好きで、でも俺は先輩のことが好きか分からない。俺が先輩の立場だったら、片想い状態のまま意中の人と体だけの関係を持つなんて不毛以外の何物でもない。そんなの先輩が辛くなるだけだ。俺だって辛いし、嫌だ。だからなんとか行為をしない方向に持っていこうとしていた。それは見事に失敗したわけだが。
 かといって、このまま持ちかけられた「契約」を拒絶するのは憚られた。先輩は「俺の気持ちがどうでもいい」とか言っていたけれど、きっとそんなことはない。先輩の外面はすごく分厚いが、その内側はきっと、ひどく脆い。俺が断ったらきっと先輩は傷付くだろう。傷を見せないよう、カモフラージュするのが上手いだけだ。
 先輩を傷付けなくない。……違う、先輩を傷付けて罪悪感に苛まれたくない。これが自分本位なのは、自分でも充分分かっているつもりだ。
 拒絶したら先輩を傷付けて面倒くさいことになって、俺は罪悪感でいっぱいになる。受け入れたら先輩を傷付けはしないけど、どっちにしろ俺は罪悪感でいっぱいになる、で、その後のことは、どうなるか分からない。どっちにしろ泥沼だ。
 頭の中でどちらがいいか、選択肢を天秤にかける。イエスと言ってもノーと言っても泥沼なら、先輩の願い通りに動こう。それがきっと、一番穏便に済む方法だ。

「じゃあ、やりますか?」
「はい」

 俺の問いかけに先輩は頷いて、椅子から立ち上がりベッドに腰掛ける。それに倣って俺も低い長ソファから先輩の隣に座った。二人分の体重で大きなベッドが僅かに沈む。
 俺と先輩の距離は拳一個分。体を先輩の方に向け、先輩の顔をじっと見つめる。

「……あの、本当にいいんですか」
「しつこい。」
「すみません……」

 依然として茹で蛸のように真っ赤な先輩が心配になり、念のため大丈夫かともう一度聞けば、ぎろりと睨まれた。それに若干たじろいだけれど、先輩がやれと言っているのだからと自分に言い聞かせ、遠慮がちに先輩の細い肩に手を置く。触れただけでも分かる。その体は緊張で石のように硬い。
 先輩の瞳を見つめる。眼鏡越しのアクアマリンのようなきれいな瞳は伏せられて、長い睫毛で影が差している。ゆっくり、お互いの息を感じられるくらいまで顔を近付けていった時、先輩がちらりと俺に視線を向けた。

「……っ」

 息を呑む音。眉を下げ、潤んだ瞳と視線が交わる。

「アズール先輩、大丈夫です、目を閉じて」
「ぁ、………」

 怖がらせないように、極力穏やかな声で先輩の名前を呼ぶ。先輩の目を真っ直ぐに見つめ、安心してもらえるように薄く笑みを浮かべれば、小さな声と共にゆっくりとスカイブルーの瞳が閉じられていく。
 ああ、これで本当に、元には戻れない。
 頭の中で自嘲気味にひとりごちて、く、と僅かに力の入る薄く色付いた唇にそっと自身のそれを寄せた。