▼ ▼ ▼


「…………は? それだけ?」
「それだけです」

 フロイド先輩は苦々しい顔、ジェイド先輩はにこにこといつもの笑顔。二人の反応を一瞥してから、フロイド先輩によるラウンジの新しい試作品を一口。うーん、イケる。
 放課後、図書館に一人でいたところをフロイド先輩に襟首をむんずと掴まれて「一緒に来て♡」と問答無用で連行され、現在ラウンジのカウンター席にて新メニューの試食会中。てっきりヤるのかと思っていたのだが、俺を連れてきた用向きは前述の通りモストロ・ラウンジの試作品の試食要員で、ただのアルバイトだった。かなりの拍子抜けである。ぽかんとした俺の顔を見て、「適任だと言ったでしょう?」とカウンターに料理の皿を出したジェイド先輩は笑った。確かにそんなことを最初の試食の時に言われたが、あの時の試食は俺メインで食べ物は二の次だったじゃないか…。と思いつつ、こうして呼ばれたということはどうやら俺の試食要員としてのレビュースキルはジェイド先輩に認められていたらしい。それはちょっと嬉しい。
 が、試食を始めてからの話題といえば、アズール先輩とはどうか、その一点のみである。

「エッチを契約≠チて持ちかけるところはアズールらしいけどさあ……マジでそれしかしてねーの? 今まで数回会ってんのに、やってるのちゅーだけ? しかも触れるだけのやつ?」
「そうですよ、触れるだけのやつ」
「…………なんで⁇」
「いや、それは俺に聞かれても…」

 答えられないし困るのだが、フロイド先輩は本当に理解できていないようだった。ずっと質問攻めされているが俺の答えは変わらない、アズール先輩とはまだキスしかしていない。その答えにフロイド先輩は、意味分かんない、と困惑した表情でのマジトーンである。

「せっかく小エビちゃんと会ってんのに、ちゅーしかしないなんて、もったいなくね…?」
「はあ…まあアズール先輩にはアズール先輩のペースがありますし」

人には人のペースがあるのは確かだが、性行為をすることが目的だとを考えると、数回会っていて触れるだけのキス以上のことをしていないのは、確かに些か進行度は遅いと言えるかもしれない。まあ、それにしたって先輩たちのペースの早さが異常なんだぞ、と思いもしたけど言ったら面倒なことになりそうなので言わない。
俺の答えになっていない答えに、案の定フロイド先輩は眉を寄せ、依然としてモヤついているようだ。

「だってさあ、オレ今週は二回しか小エビちゃんとできないし、それ考えたらアズールぜってえもったいないことしてると思うんだよね」
「……うん? 待ってください二回ってなんですか?」

 フロイド先輩の言葉を一度鵜呑みにして、発した単語に引っかかって話の腰を折ってしまった。二回って、欲望のままに求められているもんだと思っていたがそんな決まりあったのか? 初耳なんだが。すると会話が聞こえていたのか、ちょうど厨房から新しい料理を持ってきたジェイド先輩が「お話していませんでしたね」と間に入る。

「僕たちで決めたんですよ、誰がいつナマエさんとするか、きちんと決めることにしたんです」
「アズールに回数減らせって言われたからさあ」
「え、アズール先輩が?」
「ええ、相手が一人増えたのもありますが、今までのナマエさんの負担も考えて、勉学に支障を来さない程度の頻度まで減らせと言われまして。貴方が補習でいっぱいになったら、僕たちも困りますから」
「…………」

 先輩からの説明を一通り聞いて、あまりのありがたさに無言になったし天を仰いで感謝しそうになった。アズール先輩神か? 行為の相手が二人から三人になっていよいよ限界だな…と思っていたので俺自身も回数を減らしてくださいと頼むつもりだったけれど、アズール先輩が先に言ってくれていたとは思わなかった。後でちゃんとお礼を言っておかないと。今まで不定期に求められていたのが規則的になる分、これで少しは健康で文化的な最低限度の生活に戻れるかもしれない。

「あー、小エビちゃん、オレらとのエッチの回数減って良かったって思ってるでしょ」

 なんて、期待と喜びを噛み締めていたらフロイド先輩が不貞腐れた表情で手に持っていたフォークをぴっと俺に向ける。バレた。

「そりゃあまあ…先輩たちいつでも来るから実際生活乱れまくりだったんで…」
「だーから、この前イヤなら断ればいーじゃんて言ったっしょ?」
「………」

 確かに言われた。言われたが。

「ジェイド先輩はともかく、フロイド先輩断ったら逆ギレしてきそうじゃないですか」
「あ?」
「ほらそういうとこ」

 凄んでくるな。怖いので隣でカウンターに寄りかかっていたジェイド先輩を盾にして隠れると、フロイド先輩は隠れんなよと頬を膨らます。おやおや、と盾にされたジェイド先輩は笑うだけで何もしない。

「ジェイド先輩、後で日程教えてもらっていいですか? その方が俺も助かるので」
「ええ、勿論。今日決めたばかりなので、後でスケジュール表にして共有しますね」
「ありがとうございます! さすが副寮長!」
「雑なお褒めのお言葉ありがとうございます」
「……。」

 にこ、といつものスマイルにさりげなく毒を添えられた。ちゃんと褒めたつもりなんだけどな…。怒ってるのかな……何にかは分からないが………。
 ちょっと冷たい反応にすごすごと元いた場所に戻る。カウンターチェアに座り直した俺をフロイド先輩は相変わらずしかめ面で見て、そして無言でデコピンを喰らわせた。

「いっっったあ‼ 何ですか⁉」
「ムカつく」
「理不尽な!」

 涙目で突っ込むがフロイド先輩は知らねえとでも言うかのようにつーんと顔を背けるだけだ。子供か。絶対赤くなるじゃんこれ…と攻撃を喰らった場所をさする。ああ、額がじんじんする。そんな痛みに涙目の俺のことなんて全く意に介せず、「それにしても」とジェイド先輩が口元に手をやりつつ話を再開させた。今まで主に話していたのはフロイド先輩ばかりだったけれど、なんだかんだでジェイド先輩もアズール先輩とのことが気になっているらしい。

「アズールのことですし進行度に関しては概ねそんなところだろうとは思っていましたが、まさか本当にキスだけだとは」
「信じらんねー。今まで散々会ってんのにちゅーしかしてねぇなんてまーじで稚魚じゃん」
「ふふ、今時稚魚でもいないかもしれませんね」
「……。」

 この感じ、バカにしているのか呆れているのかどっちなんだろうか。フロイド先輩ははあ〜〜と長いため息を吐いて、新しく運ばれてきた試作品の一つである白身魚のムニエルにぷすりとフォークを突き刺す。そして「あーん」と俺の口に突っ込んだ。突然入れられた大きすぎる一口サイズにむぐ、とくぐもった声が出たが、なんとか口に入れ込んで咀嚼する。淡白で噛みごたえのある身とレモンバターのソースが絡まって、じゅわりと旨さが口内に染み込んで。レモンの芳醇さと混ざり合ったまろやかなバターの香りが鼻腔を擽り、体中に染み渡る美味しさにゆるゆると頬が緩んでいく。

「ん、…この魚、すごく美味しいです」
「あ、でしょ? これオレとジェイドの好物。オレは生のが好きだけど」

 時間を掛けて味わい、飲み込んだ後に口にした言葉に、さっきのぶすりと不貞腐れた表情はどこへやら、フロイド先輩は嬉しそうににへらと笑った。かと思えば顔をぐいと近づけられ、それから唇に湿った感触。唇を舐められたと理解するのにそう時間はかからなかった。

「んーーソースうま、オレえらーい」

 先輩は頷いて、満足げにぺろりと唇を舐める。自分で作ったのに試食してなかったのか…。

「先輩たちも食べたらどうですか? 好物なんですよね、生じゃないけど」
「じゃあ食べる。ジェイドも食べよーよ」
「では僕もいただきましょうか」
「はい、そしたら切り分けますね」

 先輩たちの言葉に一口サイズに切り分けていく。かちゃ、ナイフと皿が当たる音。身を切っていけば、とろみのある黄色いソースが弾力のある艶めいた断面を覆っていく。そしてしばらく俺がいそいそと魚を切る様子をしげしげと眺めていたフロイド先輩だったが、やがて何を思ったのか徐に口を開いた。

「小エビちゃんはもだもだしねーの? アズールとちゅーしかしてなくてさあ」
「え? うーん………」

 もだもだしないと言ったらそれは嘘になるのだが、かと言ってアズール先輩のあの状態を見てキス以上のことをできるかと言われたら微妙だ。「契約」だと言われた以上、ちゃんとやらなければいけないのは分かっているのだけど。

「……俺からは、しづらいんですよね」

 アズール先輩は俺のこと好きみたいだし。喉元まで出かかった言葉を飲み込む。この際「好きではない」とバッサリ否定されたことは黙っておくことにした。どう考えてもあの反応は俺のことが好きだ。これで違ったら完全にお笑いものだが、そうとしか思えないのである。

「アズールは別に構わないって言ってるんでしょ? じゃーいいじゃん。小エビちゃんからしないと一生ちゅーだけで終わるよ?」
「それは否めない……いやでも、そういうことじゃなくて、うーん、なんというか」

 なんと言えばいいのだろうか。どうにも説明がしづらい。ジェイド先輩やフロイド先輩のように、「もっと」だとか「ちゅーして」だとか、オープンに求められる方がまだやりやすい。だがアズール先輩は違う。例えば、「始めてください」とは言われるが、キスをとか、ハグをとか、具体的な要求はされない。先輩の表情から明らかに意識されているのを感じるし、反応自体もなんだか………行為に慣れてないというのが丸分かりだ。まるで生娘のようで、しているこっちが申し訳ない気持ちになってくる。

「……ああ、意識してしまっていると。そういうことですか?」
「え?」

 いつの間にかナイフを持つ手は止まっていた。悶々と考えていた折に、突然降ってきたジェイド先輩の言葉に顔を上げる。先輩は表情の読めない顔で、でも口元には静かな笑みをたたえていた。

「自分のことを好きだと分かっている相手と性的なことをして、変に意識してしまっているんでしょう。アズールの初心な反応を見れば尚更では?」
「……」
「しかも、貴方はアズールのことが好きか分からないでいるのではないですか? だから罪悪感があって自分から手を出せない。ふふ、いけませんね、契約≠ネらきちんと守らなければいけないでしょう?」
「…………そう、ですね……」

 全く以ってその通りすぎて返す言葉もなかった。分かっていたつもりだが、いざ言われると先輩の言葉が刃となってぐさぐさと俺の心に突き刺さる。
 今の俺は中途半端だ。相手のペースに合わせることは大事だけど、「契約」という形があるからにはやることはきっちりとやらなければいけない。申し訳なく感じるとか、先輩の反応が初心すぎてやりにくいから手出しができないとか、ある意味、それこそ先輩に失礼じゃないだろうか。一度そう思ったらそうとしか思えなくなってきた。自分の不甲斐なさに自然と声は沈んで、段々と背中が小さく萎んで丸まっていく。ジェイド先輩はそんな俺を見て何も言わない。一方、そのやりとりを静かに聞いていたフロイド先輩が、釈然としない表情で言葉をぽつり。

「…あのさあ、それっておかしくね? オレだっていつもやってんのにさあ。小エビちゃんがアズールにだけ意識してんのって意味分かんねーんだけど」
「は?」
「は?」

 俺の素のは? には? を返された。フロイド先輩の言っていることが分からない。なんのことだ。眉間に皺を寄せる先輩に、俺も同じような表情で見つめ合う。そしてここで妙な沈黙が訪れた。なんだこの間、と戸惑ったその数秒後、何かを察したのかジェイド先輩が若干ではあるが、珍しく躊躇いがちに口を開いて。

「………フロイド、恐らくナマエさんには伝わってないですよ」
「………ハア⁈」
「はあ? ってこっちの台詞なんですけど…いつもやってるって一体なにを…、」

 俺の言葉は途中でフェードアウトする。視界に映るフロイド先輩が、顔を思い切りしかめさせたからだ。

「…………小エビちゃんのバカ……」

 くしゃり、その言葉がぴったりだったと思う。眉を寄せ、ぐ、と何かを飲み込むように口を引き結んだ後に発せられた小さい声。言葉を飲み込みきれず、漏れ出たようなそれを俺にぶつけた先輩は、もう知らないとカウンターに顔を突っ伏してしまった。

「……ああ、フロイドが拗ねてしまいましたね。本当にひどい人だ」

 揶揄うような、困ったような声の調子だった。ジェイド先輩は俺に笑顔を向けるが、その笑顔は貼り付けただけのそれだ。

「…あの、俺、何かまずいことを……」

 どうやら、俺は知らないうちに何かやらかしてしまったらしい。縮こまった声で恐る恐るジェイド先輩に聞いてみれば、それに先輩はいいえ、とはっきりと否定した。

「何もしていませんよ。貴方が気づいていないだけで。知りたいならウツボの生態を調べたらよろしいかと」
「調べなくていい‼」

 フロイド先輩の「いつもしていること」はどうやらウツボの生態と関連しているらしい。だがジェイド先輩の俺への提案に、突っ伏したばかりのフロイド先輩ががばりと勢いよく顔を上げて牽制する。知られたくないのか知って欲しいのかどっちなんだ。

「あの、でも俺調べたんですよ、ウツボの生態」
「へ、」
「おや」

 間髪入れずに入れられた突っ込みに肩が揺れつつ、若干ビビりながらの俺の言葉に二人は目をぱちくりと瞬かせる。先輩たちはウツボの人魚だし、習性とか生態とか行為をする時に何かためになることがあるかもと、足りない時間の合間を縫って図書館で本を読んだのである。

「そしたらギャップ萌えだったっていうか……。ウツボって海のギャングっていうイメージだったんですけど、目が意外とつぶらだし、口ぱくぱくさせてるとことか、実は普段は岩陰で大人しくしてて動かないとことか…実際は思っていたのと違って、なんというか、……かわいかったです」

 まあ結局、フロイド先輩が「いつもやっていること」が何なのかは見当がつかないのだが。
 俺のウツボについての感想に二人は揃って沈黙である。フロイド先輩はぽかんと口を開けて、どこか拍子抜けしたような、でも不満げのような、どちらともつかない表情だ。きっと俺の答えは先輩が思っていたものとは違ったんだろう。ジェイド先輩も口元に手をやって薄い笑みを浮かべたまま固まって、何を思っているのか、これまたなんとも形容し難い表情である。思ったままの素直な感想を言った後にしまったと思ったが、二人の表情から見るに、多分、怒ってはいない。それに少しホッとしたけれど、先輩たちの微妙な反応と二回目の変な沈黙が気まずい。
 そして、そんな時間がまた数秒続いた後、ジェイド先輩がごほん、と咳払いをひとつ。

「………まだまだ調べが足りないようですね」
「足りないですか……」

 図書館にあった「たのしい! まるごとうみのいきもの図鑑」を読むだけでは足りなかったか……。

「あの、ジェイド先輩は教えてくれないんですか?」
「ふふ、そうですねえ。教えて差し上げても良いのですが……」

 せめてヒントを教えてはくれないだろうか、そんな気持ちで聞いてみるものの、ジェイド先輩は思わせぶりに言葉を切ってちら、と視線を横に流す。視線の先にはフロイド先輩がいて、ぎろりとジェイド先輩を睨み付けている。俺でも分かる、その表情からは何かの、無言の圧力を感じる。そんな片割れを一瞥して、ジェイド先輩は「フロイドに怒られてしまうのでやめておきます」とにこりと笑うだけで、結局教えてはくれなかった。

「さて、ウツボの生態はさておき、アズールとの話に戻しましょうか。」

 戻されてしまった。フロイド先輩には少し申し訳ないが、あとでもう一回自分で調べてみるか…。バカって言われたし…。

「アズールは初心ですからねえ。僕の記憶が正しければ、告白されたことはあっても、恋人なんていたことはないはずです」

 すっかりアズール先輩の話に話題を切り替えたジェイド先輩は、ふむ、と口元に手を当てて何やら考えていたようだった。が、やがて何かを思いついたのか、「ああそうだ」と俺を見る。

「………」

 うわその目を輝かせた楽しそうな笑顔、めちゃくちゃ嫌な予感がするのだが。

「……絶対良からぬこと考えてますよね?」
「そんな滅相もない。きっと楽しいですよ♡」

 絶対嘘だ。