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・くっついたあと
・ソフト人魚エッチ



「ナマエさん、今夜予定はありますか?」。そう聞かれたのはランチブレイクの時間でのこと。人でごった返している食堂で、グリムの分のパンを確保しつつ今日は何を食べようかと列に並んでぼんやり考えていたら、声をかけられたのだ。
挨拶もそこそこ、会話もそこそこに冒頭の台詞を切り出した先輩に特に何もない旨を伝えると、先輩はにっこりいつもの笑顔で「ではデートしませんか?」と俺を誘った。それがあまりにも自然な流れで、何も考えずに頷いてからもう一度聞き返してしまったのだが、何度聞いても先輩の言葉は変わらなかった。
デート。ジェイド先輩は俺とデートをしたいらしい。若干の思考停止タイムの後、「はい」と頷いた言葉が変に上擦っていたのがバレていないと信じたい。
デート。何度も頭の中でその単語を反芻する。俺とジェイド先輩の付き合いはそれなりで、一緒に外に出掛けたこともあるが、「デート」というのは初めてだ。というのも俺と先輩は体の関係から入って心が通じ合ったのがつい最近という色々と順番がおかしい間柄なこともあり、健全な営みが殆どできていないのである。
夜のデートってどんな感じなのだろう。先輩はデートということ以外何をするか教えてくれなかった、どこに行くのだろうか。次の日は休日だから夜更かししても問題ないけれど、初めてのデートが夜のデートってちょっと刺激がつよすぎやしないだろうか。まあ夜にすることは大体全部しているのだが。そんなことをドキドキ反面ワクワク反面でずうっと考えていたので、午後の授業が全く身に入らなかったのはまあ言うまでもない。クルーウェル先生にも怒られたがまあそれはそれ、これはこれである。浮き足立ってソワソワしていた様をマブたちに揶揄われたけれど、それもそれだ。
そんなこんなであっという間にその日の授業は終わり放課後。きちんとした私服なんて殆ど持っていないのでこの時ばかりは自分の貧乏さを恨んだが、それでもシンプルかつ小綺麗な服を選び、髪型を整え、いそいそと入念に準備を整える。キスだってエッチだってやることはやっているのに、「デート」というだけで足が宙に浮ついたようにふわふわとして、こんなにドキドキする自分が何だかおかしかった。
指定の時間、どくどくと心臓を鳴らしながら待ち合わせ場所であるオクタヴィネル寮へと赴く。私服姿の先輩はレアだな、何着ても似合うんだけど、と思っていたけれど、俺の予想に反し談話室で待っていたジェイド先輩はよく見るいつもの部屋着姿だった。

「、ジェイド先輩」
「こんばんは」

どういうことなのだろう、てっきりどこかへ行くものだと思っていたのだけれど、違うのか?困惑する俺にジェイド先輩は気にしていないのか、わざとスルーをしているのか、わざわざありがとうございます、と柔和な表情を見せる。

「行きましょうか」
「行くってどこへ?」

俺の手を引いた先輩はこちらを振り返り、楽しそうに、それでいて柔らかく微笑う。

「夜のお散歩です」

   ○

海の魔女を基にする寮だからか、オクタヴィネルは他寮と比べて人魚が比較的多く在籍する傾向があるらしく、そのためか建物自体が海の中にあるオクタヴィネル寮には海へと出られる場所が作られているとのことで。案内されたそこは例えるならとても大きな水槽の入り口のような、洞窟の入り江のような場所だった。初めて訪れるその場所をきょろきょろと見回していると、先輩は入る前にこれを飲んでくださいね、と不思議な色をした液体が入った小瓶をポケットから取り出し俺に手渡した。光に透かしてみると透明で、反射によってその色は淡い水色にも、濃い緑色にも見える。

「それでは僕は先に行っていますね」
「あ、はい………えっ!?」

俺がその液体を観察している間に背後からそんなジェイド先輩の声が聞こえてきたと思ったら、立て続けにざぶん、と水の音。慌てて先輩がいた場所を振り返ったが既に先輩の姿はない。海面には大きな波紋が広がっていて、今は俺だけが一人、なす術もなくぽつんと取り残されている。

「……」

先に行かれてしまった。
先輩の言う「夜のお散歩」とはつまり、夜の海の中を散歩するという意味だったのか。と今更になって気付いて手元の小瓶を見つめる。
多分、これは水の中でも呼吸ができるようになる薬だ。期末試験の騒動の時にアズール先輩からもらった薬とは少し色が違うが、さらさらとした液体の感じは似ている。というと恐らく前回の薬と同じく味も最悪だろうが、飲まないと海の中には入っていけない。

「………」

そんなことを考えていたら味を思い出してしまった。だがここにいつまでもいるわけにはいかない。先輩だって待ってるし、何よりデートがしたいのだ。覚悟を決めるんだ、俺。そう自分を勇気付け、眉を寄せたまま勢いよく栓を抜けばきゅぽん、と小気味良い音。途端何とも言えない香りを放つその薬に一層顔を顰めたが、鼻を摘んで一気に飲み干し、着の身着のまま勢いよく海の世界へと飛び込んだ。

「──……ッ!」

冷たい水が肌を刺す。水面からかなり深そうだと思っていたけれど、俺が飛び込んだくらいで足が地面に付かないのだから深いのだろう。まずはジェイド先輩を探さなければ。水の中で目を開けるのは好きじゃないが、魔法薬が効いてくるまでの我慢だ。と、下へ下へと泳ぎ始めた矢先のことだった。

「っい”、っ、ッ?!」

突然、首に鋭い痛みが走ったかと思えば、身体中が燃えているかのような熱さと痛みが駆け巡る。驚きで目を開けてしまい、海水が眼球に沁みてますます脳内が混乱する。慌てて目を閉じたが、閉じた先は当たり前のように真っ暗闇だ。何も見えない、自分がどうなっているのかも、どうなってしまうのかも分からない。一度平静を失うと、陥ったことのない状況に益々頭は混乱していく。息を吸おうとして思い切り口を開くが、ここは水中だ、呼吸なんてできるわけがない。吸おうとして大量の水が鼻と口から流れ込み、ごぼごぼと空気の泡を吐き出して苦しさを増長させるだけだった。
痛い、熱い、苦しい。複数の感覚が脳内で一つの結論を導き出した。
これはヤバい、死ぬ。

「ナマエさん、落ち着いて」
「っ、……ッ!」

苦しさに悶え、完全なパニックに陥った俺の耳に入ってきたのは先輩の柔らかい声だった。それから俺の背中を優しくさする大きな手。落ち着いて、先輩の穏やかな声がもう一度同じ言葉を繰り返す。

「ナマエさん、少しずつ息を吸ってみてください。大丈夫、薬はちゃんと効いていますから」
「は、っぅ”、は……っ」

どっどっど、激しい心音が頭に響く中、ジェイド先輩の声をなんとか聞こうとする。落ち着け、先輩の声を聞け。大丈夫、ほら、もう息ができるはずですよ。優しく、言い聞かせるように先輩が俺に声を掛ける。
さっき吸おうとした時はできなかったのに。怖かったけれど、でも先輩がそう言うなら。そうして恐る恐る息を吸ってみようとして気が付いた。口の中に、体の中に水が満ちている。けれど苦しくない。

「…もう大丈夫、ゆっくり目を開けてみてください」
「……っ、は、……」

どれくらい時間が経っただろうか。痛みはすっかり消え、心臓の鼓動がおおよそ平常になって落ち着くまで、俺の丸まった背中を先輩はずっとさすってくれていた。先輩の言葉に力一杯閉じていた目をおずおず開ける。先ほどあった目に沁みる感覚はない。ぼやけた視界、見えるのは俺の足と白い地面、端にゆらゆらと揺れる、青みがかったエメラルドグリーンの何か。瞬きを数度繰り返していくことで輪郭がクリアになっていく。
視界の端に写っていたのは、ジェイド先輩の尾びれだった。そう気付いたのはそれを目で辿っていった先にジェイド先輩がいたからだ。

「ね、大丈夫でしょう」
「………はい」

大丈夫、何ともない。人魚の姿に戻ったジェイド先輩が、まるで俺を安心させるかのように微笑む。ああ、もう大丈夫だ。先輩の顔を見たら本当に安心した。さっきまでテンパってたのに今は嘘みたいに落ち着いている。……それにしたってこの類の魔法薬は服用したことがあるはずなのに、激しく取り乱してしまった。ちょっと恥ずかしい。

「すみません、パニクっちゃって……、」

ありがとうございます、と言葉を続けようとしたときだった。なんとなく一番最初に痛みを発した首筋に触れてみれば、………滑らかだった肌の上に、人間には明らかにないはずの何かが、裂け目が、できている。

「……えッナニコレ!?何?!」
「エラですよ」
「エラ?!??!エッッッていうか耳?!ない?!なに???!!」

さっきとはまた別の意味でパニクることになった。にっこり、いつものきれいな笑みを浮かべる先輩に俺はクソデカ声で聞き返してしまった。だっておかしいでしょ!なんでエラが??!!ついでに耳からもなんか別のとんがった何かが生えてるんだけど??!!なんで?!

「薬の副作用ですね」
「副作用??!!」
「ご心配なく、効果が切れたら消えます。──失礼、」
「わっちょ、」

自分に起こった理解不能な現象にびびる俺にジェイド先輩は構わず手を伸ばし、俺の首筋へと指先が触れる。元の姿になって尖った爪が当たらないようにしてくれているのか、指の腹が優しくそこを撫でる。裂け目に触れた時思わずびくりと体が跳ねてしまったが、その手つきを感じる限りだと触診しているらしい。何だかちょっとこそばゆいが我慢だ。しばらくそれに身を固くしていると、こぽ、と口の中に残っていた空気の残滓がこぼれ出た。

「…きちんと作用しているみたいですね」

問題がないことを確認したらしい。首筋から耳を一通り確かめた先輩は手を離し、初めて調合したものですから不安だったのですが…上手くいったようですね、と先輩は満足げだ。さっき落ち着きを取り戻したばっかりなのに、再び俺の心臓はばくばくだ。ていうか初めてってまさかこの人、俺で実験したのか?!

「あの、これ本当に……大丈夫ですか?」
「ええ、本当に大丈夫です。貴方に使う前に自分で試したので」

顔を引き攣らせながら聞く俺に、貴方に何かあっては大変ですから、とジェイド先輩は笑みを向ける。
先輩曰く、俺が飲んだ魔法薬は以前珊瑚の海に行ったときに使ったものよりも強力なものなのだとか。効き目が強く持続時間が長い分、その変化が一部体に現れてしまうらしい。首に現れたエラはまさにその変化の一端というわけだ。前のも結構長い時間効果があった気がするが、果たして強力である必要があったのか?と色々思ったことはあるのだが……ていうか、

「…もう、海に行くんなら言ってくれたら水着持ってきたのに」
「直前まで秘密にしておきたかったので…、僕のために整えてきてくださったんでしょう?」
「そうですよ、だってデートって言うから」
「ふふ、嬉しいです。髪型、キマってましたよ」
「…………。…ありがとうございます」

正直、「デート」なのにこんなに苦しい思いをするなんて聞いてないぞ!なんて文句のひとつでも言ってやろうと思っていたのだけれど。先輩は嬉しそうにはにかむし、褒められたら苦しかったことなんてどうでも良くなってしまった。俺ってマジでチョロいな。

「…痛かったですか?」
「…まあ。そうですね。痛いのもあるし、熱い感じもありましたけど」
「僕が服用した時も多少の痛みがあったので、なるべく軽減されるように調合したのですが……、魔力のないナマエさんが服用すると痛みが増幅するようですね」

すみません、痛い思いをさせてしまって。先ほどとは一転、ジェイド先輩は申し訳なさそうに眉を下げ、俺の頬にそっと手を伸ばす。その手つきは普段の先輩が俺に触れるものよりも大分慎重に感じた。水の中では抵抗があるからそう感じるだけなのか、先輩が何かを恐れているからなのか、それは分からないけれど。

「……気にしないでください、俺が前に海底散歩してみたいって言ったの、憶えててくれたんですよね?そのために作ってくれたんだったら何も言えないですよ。むしろありがとうございます」

まあ、まさかこんな強い薬を飲まされることになるとは思わなかったが。それでもジェイド先輩が俺のために何かをしてくれた、という嬉しさが痛みよりも、何にも勝る。人魚姿の先輩と夜の海の底を歩けるんだから満足ですよ、と続けながら先輩の手に自分のそれを重ねれば、彼はほっとしたのか柔らかにその頬を緩めた。

「では行きましょうか、ナマエさん」

手を繋いで、夜空の星のようにきらきらと光る砂を踏みしめて、二人だけの時間へと一歩踏み出した。