泣き虫の雨傘

不揃いの色

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 ――……
 ぽつりと、悲しげな声が落ちてくる。どこか憎しみにも似た響きが、ぼんやりとした頭の中で反響した。

 懐かしい蒼の瞳が名無を見つめている。
 “あの日”と違うのは、その瞳に映る自分の姿がだいぶ成長していることだ。あとは、そう、その瞳が真上にあると言うこと。

「目覚めたみたいだねぇ」
 身を引く彼に、のろのろと起き上がる。

 肩まであるさらさらとした金色の髪に、底の見えない蒼い瞳。すらりとした体を添うように作られた、白と青を基調としたどことなく上品な服。
 名無の住んでいた場所では、濃淡の差はあれど髪も瞳も黒ばかりだった。服だって簡素なものが多い。

 端正な顔立ちの物腰柔らかな好青年に見える目の前の彼は、“あの日”出会った老人のように見える彼とは似ても似つかない、はずなのに。
 同じだと思ってしまった。

 どくんと、脈打った心臓に押されて言葉がこぼれる。
「私のこと、覚えてますか?」
 自分の声が、その意味を確かめるように勝手に頭の中で繰り返した。
 ――私のこと、覚えてますか?
 そう繰り返されるたびに、焦りが増してゆく。

「オレと会うのは初めてだよー」
 無害そうにへらりと笑った彼に、馬鹿げた直感に乗せられた自分を恥じた。

 何年も前のたった一日、ほんのわずかな時間のことを覚えていてくれていると思っていたことが透けて見えた気がした。
 私が覚えているから、そう思い込んでいたらしい。
 私だって、“あの日”聞いた彼の名前の“音”を忘れてしまったというのに。

 彼は、人が良いのか、慣れているのか、言い寄っていると揶揄されるような発言を笑み一つで流していた。

 ――思い出したい
 目の前の彼が忘れてしまっていても、名前を聞けば同じ人なのかわかるような気がした。
 同じだと思える人にもう会えないような気がしたから、最後にすがりたかったのかもしれない。

「よければ、名前を教えてもらえませんか?」
 笑っていた彼の視線が下がる。自身の手元を見つめた彼は、
「ファイ」と、その行動を忘れさせるぐらい気の抜けた笑みを浮かべていた。

「まだ濡れてるみたいだから、これ使ってー」と、ファイがタオルを差し出す。「キミの名前はー?」
「名無、です」

 別人なんだろうか。名前を聞いてもなにも感じなかった。それに、一番重要なことを忘れていた。
 彼とは言葉が通じなかったんだ。だから名前を音でしか覚えられずに、目覚めた頃にはするりと抜け落ちてしまっていた。

「キミは、なにを願ったの?」
 ふわりと、頭にかけられたタオル越しの甘い声に耳がぞくりとする。
 いつの間にか手からタオルが消えていた。
「なんの話ですか」
「あの場所に来たのはどうして?」
「どこのことを言ってるのかわかりません」

 自分で初対面だと言っていたのになんなのか。
 ぎゅっと寄った眉間を馬鹿げた直感が弛緩させた。
「あの日出会った場所のこと?」と、出かけた言葉は、幼さの残る少年らしき声によって押しつぶされた。

 二度目の馬鹿げた衝動を抑えた少年らしき人物が窓辺に横たわっている。頭になぜかまるっとした白いのをくっつけていた。
 ファイに気を取られて気づきもしなかったが、他にも人がいたらしい。

 生活感のない四、五畳の和室に五人。
 玄関を背にした中心に名無とファイ。正面には木窓があり、左手の押し入れに沿うように少年らしき人物と少女が眠っている。右手の壁には厳つい男が座り込んでいた。

「あー、目覚めたみたいだねぇ」
 少年の頭からひとりでにとれた白いのをファイが抱き上げる。
 両手に乗せられるぐらいの白いのは、落ち着きなく短い尻尾を揺らしていた。

 ゆで卵のお尻をぺしゃりと潰したような体に、丸みのある小さな手足。ぴんっとしたうさぎの耳がかわいらしく下に垂れている。右耳には光沢のある緋色の珠の耳飾りがあしらわれ、額にはそれを二回り大きくしたものが埋まっていた。

「さくら!」と、突然飛び起きた少年にびくりとする。
 自身の腕の中で眠る少女に安堵したかと思えば、悲痛な表情で抱きしめていた。

 灰茶色の短髪に、琥珀色の瞳。その瞳は蛍光灯のもとでも、陽の光を吸い込んだようにきらきらと輝いている。
 きれいなのに、力強く惹き寄せるその瞳が、あどけなさの残る顔立ちを不自然なほど大人びさせているように見えた。

 彼の腕の中で眠る少女――さくらから生気を感じないせいかもしれない。

 桑色の髪に包まれた小さなかんばせに、今にも手折られてしまいそうな華奢な体。
 血管が透けて見えそうなほど青白い肌は作り物のようで、閉じられた瞼が機械的に開き、宝石のような美しくも虚ろな瞳が現れる――そんな錯覚さえ起こさせた。

「一応、拭いたんだけど。雨で濡れてたから」
「モコナもふいたー!」
「寝ながらでも、その子のこと絶対離さなかったんだよ。君、えっと……」
「小狼です」
「こっちは名前長いんだー。ファイでいいよー」
 ふいに小狼と視線がかち合い、名無は思わず居住まいを正した。
「名無と言います」

「そっちの黒いのはなんて呼ぼうか―?」
 ファイよりいくらか年上の眼光鋭い男が不機嫌そうに声を荒らげる。「黒いのじゃねぇ! 黒鋼だ!」
 抜け目のなさそうな鋭い真紅の瞳がファイをねめつけていた。

 髪は見慣れた黒色なのに、黒い外套に身を包み、真っ赤な額当てをつけた黒鋼の物々しい雰囲気は、とてもじゃないが身近になど感じれない。

「くろがね、ねー。くろちゃんとかー? くろりんとかー?」
 嫌がらせのようなあだ名をぽんぽん吐き出すファイに、名無は顔をひきつらせた。

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