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赫い糸
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だがニルにはなんであれ、夕方という早い時間に出発したことが異様としか感じられなかった。
泊まるために延長しているという、疑いようもない事実と、宿泊せずに出て行った事実。
その理由に、男は自分を恐れて逃げた。と、ニルは考えた。
しかし、本当に逃げたのだろうか?自分が戻ってくることを想定して、早出したとも考えられたが、いつバレても可笑しくない状況で、わざわざ留めたり、ごく自然に本を読んでいたり、あれほどな屈託のない余裕な素振りが、人になせるだろうか……。否、成し得ていた。自分はこの目で、それを確かに見た。ニルの中で明瞭としているのは、男は余りにごく自然な行いをして、極めて不自然な印象を置き去ったこと。
それらが示すに、自分が戻ろうが戻らまいが、出て行く予定だったのだ。

「それ、見ても……?」
ニルは管理人の手にしていた、名簿を指差して言った。
男は「いいよ」とは言わなかった。ただ、カウンターの上に、くるりと回転させて、何事もない素振りでその名簿を置いたのだ。
ニルはそれを受け取るやいなや、301号室を探した。
(301……名前……これだ。“クロロ・ルシルフル”という男に相違ない。クロロ・ルシルフル……忘れないようにしよう)
ニルは心の中、何度も唱えるように読んだ。男の顔と、名前を照らし合わせ、クロロ・ルシルフルという人物を記憶させた。しかし、男の素性や情報を、僅かに知っただけで、依然と一縷の望みもないことに変わりなく、状況は芳しくないものだ。

「あんたがそいつとどんな関係かは知ったこっちゃねぇさ」
「ありがとう、本当に、ありがとうございます」
ニルはどこかくぐもった笑みを浮かべた。
度重なった、この予期せぬ事変は、もはや諦めるほかない最悪の事態に向かっていくしかないように思えた。
あろうことか、男は既に出て行っ他にもかかわらず、その間に、自分は呑気に本を読んで眠っていたのだ。当然、自分を責めた。もし、あの時もっと早く気付けていたら。もっと警戒をしていたら……もう、自己嫌悪するしかなかった。
完膚なきまでの誤算。今頃は、どこか別の町へと移動しているかもしれない。思い浮かべた父の表情は、寛容とは思えなかった。
ニルは初めて、父がいないことに密かに安堵したのだった。



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