The infinite world



ぬくもりと握られた手の話


『で、どのくらいに帰すって?』

「さぁ……そもそも何をしに来たのかすら、わからないし」

『んだよ、それ』

 直後に電話の向こうから聞こえたのは、盛大な舌打ち。帰ったら締める、と弟に対する武力行使を口にする漱に、勿忘草は背後のコンビニを横目で振り返った。
 姉の怒りなど知る由もない当人は、レジの前で会計の真っ最中。店員と何やら親しげに言葉を交わしているが、恐らく知り合いでも何でもない。

「とりあえず、帰る時間がわかったら連絡するから……遅くなるようだったら、漱は先に寝ていて」

 同居人から了解の返事を受けて、勿忘草は通話の切れたスマートフォンを懐へと仕舞い込む。外気に晒されていた端末の冷たさが、襦袢を通して肌へと伝わり、一瞬だけ肩を震わせた。
 日の長さが中途半端なこの時期、昼間は暖かいが、日が落ちると少し肌寒い。街灯もまばらな薄暗い景色の中で、コンビニの照明だけが目に痛かった。

「なぐちゃん、お待たせ!」

「遅い」

 明るい声に勿忘草が振り向けば、左手に下げたビニール袋を頭上に掲げて、あとで漱に締められる予定の当人──滝次は口を尖らせる。

「えー、五分くらいしか経ってないよ」

「五分もかかった」

「なぐちゃん、厳しい」

 嘆く滝次に、勿忘草は否定も肯定もしなかった。
 厳しく当たりたくもなる。バイト帰りに突然、行きたい場所があると連れ出され、移動すること一時間以上。到着してみれば車もほとんど通らない過疎地域で、目的を聞いても「まだ秘密」の一点張り。いつの間にやら夕飯の時間も過ぎ去って、心配した漱から電話がかかってくる始末。今さら一人帰ろうなどとは思わないが、事前に所要時間を聞いていれば、絶対に付いては来なかった。
 そもそも、滝次には計画性がなさすぎるのだ。遅くまで外に居るつもりもなかったせいで、防寒対策は穴だらけ。出来ることならすぐにでも帰りたいというのが勿忘草の本音だが、滝次の目的はまだ達成されていない様子。コンビニで購入したらしい地図を広げて、熱心に眺めている。
 目的地までの道を把握したのか、納得したように頷いて、ぱっと顔をあげた。

「歩くよ、なぐちゃん!」

「しねばいいのに」

「え〜、ひどい」

 滝次が地図をたたむ乾いた音を聞きながら、勿忘草は再びスマートフォンを取り出す。この様子では、帰りの時間を滝次に確認したところで、明確な答えが返ってくることはないだろう。家で待つ漱には、すぐには帰れそうにないと伝えておいた方が良さそうだ。
 電話をかけようか少し悩んで、結局、メールを打つことにする。文字を入力している最中、背中にふわりと温もりが乗って、視線を上げた。

「漱ちゃんに、メール?」

 そう横から平然と画面を覗き込んでくる滝次。先ほどまで彼の身を包んでいたパーカーが、勿忘草の肩にかけられていた。背中をすっぽりと包むそれは、じんわりと暖かい。

「……風邪をひいても、責任はとれないんだけど」

 肌寒くなってきたとはいえ、昼間はそれなりに暖かかったのだ。滝次も決して厚着をしていたわけではない。一枚脱いでしまえば、薄手の長袖しか着ていなかった。むしろ、きちんと着物を着ている勿忘草の方が、枚数を着込んでいると言える。
 返そうとパーカーに伸ばした勿忘草の左手は、肩に届くことなくあっさりと掴まれた。掴んだ手を下ろしながら、能天気に滝次は笑う。

「大丈夫だよ、馬鹿は風邪ひかないって言うしね。ってか、なぐちゃん手冷たくない?」

 そのまま暖めるように、手を握りこまれた勿忘草。握られた左手と滝次の顔と右手のスマートフォンを交互に見やり、ため息を吐く。片手で楽々と端末を操作できるほど、勿忘草は器用ではなかった。
 かといって、振り払おうとも思わないが。
 メール終わった? と訊ねてくる滝次の方も、手を離す気はないらしい。

「もう少し、待って」

 やりにくさは割り切って、片手で続きを打ち始める。出来ないことはないが、やはり時間がかかりそうだ。打ち間違えて、眉をひそめる。

 何時になるかもわからない帰りの時間は、数分ほど余計に遅くなりそうだった。





fin. 2019/02/21

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七つの水槽