思い出にできない春の話
ありがとうございました、という声を背に、日鷹れんは花屋を後にした。
店の外へと踏み出した瞬間、吹き抜けた風に目を細める。日差しは十分に暖かく見えるが、頬を撫でる風は未だ冷たい。腕に抱いた軽い包みが煽られて、かさかさと乾いた音を立てる。
風避けに、と店の人が気を遣って包んでくれた白い包装紙に透けるのは、淡い桃色の花──八重桜だった。
数十分前、通りすがりの花屋の店先。目に留まった八重桜を無視することが出来なくて、思わず足を止めてしまった。あまりに長い時間、立ち止まっていたせいだろう。店の人に声を掛けられて、躊躇した末に店内に足を踏み入れた。すぐに出ようと思っていたものの、色とりどりの花が並ぶ静かな空間は意外と居心地がよく、普段は立ち寄る機会のない花屋という環境が興味深くもあり、結局、ゆっくり店内を眺めることになったのだ。
結果、何も買わずに店を出るのも悪いような気がして、八重桜の枝を手に取ったのだが。
「……八重、桜」
ふと、八重と呼んで欲しいと子供のようにねだった人の、屈託のない笑顔が脳裏に浮かぶ。同時に、少し息をするのが下手になったような感覚。
馬鹿みたいだ。もう顔を見ることすら出来ない相手の名を冠した花など、買ったところで苦しくなるだけなのに。
火傷の痕が残る右手で、胸元をぐっと握りしめる。
「れん!」
聞き慣れた声の、聞き慣れないトーン。明るい声で名前を呼ばれて、ゆっくりと顔を上げれば、歩道の向こう側から駆け寄ってくる七竈の姿が目に入った。
「れん、何してたの? バイトは終わってるはずなのに、帰ってこないから心配で」
探したんだよ、と少し拗ねたような表情を浮かべる七竈をぼんやりと眺めながら、ごめんなさい、とだけれんは呟く。
見慣れた顔が見慣れない表情を浮かべる様子は、数ヶ月経っても何処か非現実的だ。間違いなく、現実なのだけれど。
そんなれんの心情を知ってか知らずか、七竈は屈託なく笑う。
「ね、れん。それ、さくら、だ。そうでしょ?」
風で乱れた包装紙の隙間から覗く薄紅色の花。確かめるように花の名前を口した彼が、桜の花を見るのは、恐らく初めてだ。
『さくら、か』
五年前の光景を、ふと思い出す。
舞い散る花吹雪の中で、初めて桜を目にした《七竈》も、そう確かめるように口にした。
懐かしい記憶は、まだ思い出にするには苦しくて、れんはそっと目を伏せる。
「さくら、綺麗だね」
「……そう、ね」
馬鹿みたいだ。七竈が何かを言う度に、気付けば《七竈》と重ねている。似ていることに安心して、違うことに哀しんで、苛立って、泣きたくて──そんな自分に嫌気が差す。
七竈は、《七竈》ではない。そんなことは、理解しているはずなのに。
「……帰ろっか」
押し黙るれんの様子に、困ったように七竈が笑う。困らせたいわけではない。哀しませたいわけでも、ないのに。嘘でも大丈夫だと告げることが、自分には出来ない。
目の前の彼に、手を引かれて歩き出す。足はちゃんと動くのに、一年前のあの場所から、きっと自分は一歩も動けずにいるのだろう。
腕の中で揺れる八重桜は、記憶の中の光景と変わることなく、綺麗な色で咲いていた。
fin. 2019/04/17
