The infinite world



とある名前に覚えた違和感の話


「ここ座って。いま持ってくるから、ちょっと待ってね」

「おー、さんきゅーな」

 引き戸の向こう側へと駆けていく灰人を見送り、手持ちぶさたになったイベリスは、多少の興味を持って周りを見回す。
 此処は、古書店比良坂。定休日の札が掛けられた店内には当然のように誰もおらず、所狭しと並べられた大量の本と床に積み上げられた段ボールの山により、雑然とした雰囲気が醸し出されている。店の最奥は一段上がった板敷きになっており、イベリスはそこに腰かけていた。
 喫茶店の近所で見た《縁側》というものに似ているな、などと、ぼんやり思う。もっとも、面しているのは庭ではなく、売り場なのだが。
 店内に向かって座るイベリスの背中側には、先ほど灰人が入っていった木製の引き戸。その先には畳の敷かれた和室が覗いており、どうやら居住スペースと売り場は扉を隔てて繋がっているようだ。

「……遅ぇなー」

 抱えるように持ち上げた膝の上に頬杖をついて、独り言つ。周囲の様子を粗方眺め終えても、灰人が戻ってくる気配はない。
 イベリスが灰人と知り合ったのは、つい一ヶ月程前のゲームセンターでのこと。選ぶゲームの好みが似ており、お互いに一人でふらふらしていたこともあって、何となく一緒に遊ぶようになった。ゲームセンター以外の場所で遊んだことはなかったが、ゲームソフトを貸してくれるという灰人の言葉に誘われて、現在に至る。
 何も聞かずに付いてきてしまったせいで、灰人が定休日の札が掛かった古書店の扉を開いたときには、さすがのイベリスもびっくりした。
 しかも、小さいながらに歴史のありそうな雰囲気の店である。眺めた限りでは、並んでいる本もイベリスが知っている大手の古本屋とは、少し違っていた。見慣れない装丁の本が多く、イベリスでも知っている小説や漫画本の類はほとんど置かれていない。中には紐で綴じられた書物や、巻物が収まっていそうな箱まで積んであり、丁寧に扱わなくても大丈夫なものなのだろうかと、思わず首を傾げてしまう。イベリスが座る板敷きのすぐ傍には鍵の付いた棚があり、並べられた本に添えられた値札には、思わず数えてみたくなるほどの《0》が並んでいる。

「一、十、百、千、万、十万、ひゃく…………うぇ」

 実際に数えてみて、ちょっと引いた。
 ふと、視線を隣の本棚へと移す。店内でも目立たない場所に位置するその棚には、イベリスにも馴染みのある最近の本が並んでいた。よく見掛ける装丁の本に、何とはなしに背表紙を眺めてみれば、ある作家の名前に視線が留まる。

 ──《不死川 常》。

 読み方すらわからないその名前に、胸騒ぎのような違和感のような引っ掛かりを覚えて、何冊か並べられた文庫本の一冊を手に取った。表紙にも題名にも、特に覚えはない。恐らく初めて見る本だ。そもそも、イベリスは好んで読書をする方ではない。自発的に手に取る本などゲームの攻略本くらいのもので、小説など数えるほどしか読んだことがなかった。
 興味はない、はずだ。

「お待たせ〜!」

 首を捻るイベリスの元に、陽気な声をあげながら灰人が戻ってくる。振り向けば、小さな紙袋を手にした灰人が、勢いよく引き戸を開いたところだった。

「あれ? その本……」

 イベリスが手にしている本を見て、首を傾げる灰人。罰が悪そうに、あー……と唸ってイベリスは本棚を示した。

「悪りぃ。ちょっと気になって、勝手に触っちまった」

 客として訪れたわけでもないのに、売り物を勝手に触るのは不味かっただろうか。そう思ってイベリスは自省したが、灰人は特に気にした様子もなく頷く。

「いいよいいよー、本はとりあえず手に取ってみないとね。イベリスも、不死川先生の本好き?」

「しなずがわ……?」

「そう。しなずがわ、とわ先生」

 イベリスの手元にある本に書かれた《不死川 常》という文字をなぞりながら、灰人は頷いた。
 音にも聞き覚えがないことを確認したイベリスは、更に首を捻る。ペンネームだとしても、変な名前だ。

「不死川先生の本だとね、ボクのおすすめはこれと〜、あとは、これかなー」

 神妙な顔で本を睨むイベリスを気にすることなく、灰人は本棚から慣れた手付きで数冊の本を抜き出していく。用意してきたゲームソフトの入った紙袋に、ついでと言わんばかりに本を入れて、どーぞ、とイベリスへ差し出した。

「……それ、売り物だろ。勝手に貸していいのか?」

「大丈夫。この棚、薫風さんが読み終わった本並べてるだけだから」

 あっさりと頷く灰人に、カオルさんって誰だよ、と思わなくもない。特に気になるわけではないため、訊ねることはしなかった。
 差し出された紙袋を覗けば、元から借りる予定のあった数本のゲームソフトと、借りる予定などなかった数冊の本。文庫本としては一般的な厚さに見えるが、日頃から本を読まないイベリスにとっては十分な厚さで、受けとることに躊躇する。そうこうしているうちに、手にしていた本も灰人の手によって紙袋へと入れられてしまった。

「返すの、いつでもいいからね」

 屈託のない笑顔を浮かべる灰人に、イベリスは覚悟を決めて紙袋を受け取る。文庫本の二冊や三冊、読んで読めないことはないだろう。趣味の似ている灰人が勧めるのだから、面白いはずだ。

「……しなずがわ、とわ」

 確かめるように呟いた作者の名前には、相変わらず違和感を覚えるが、不思議と口と耳に馴染む。拭いきれない違和感に、イベリスは再度首を捻った。

 数日後、その名前はイベリスの脳内に特別な意味を持って響くことになるのだが──このときのイベリスには、まだ知る由もない。





fin. 2019/06/01

name thanks!!


⇒ 不死川 常(翡奈月あみ さま)

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七つの水槽