とある青年に覚えた胸騒ぎの話
昼のピークが過ぎ去った静かな店内。カウンター席の端に腰かけて、イベリスは本を開いていた。
ゲームソフトと一緒に、灰人に押し付けられた文庫本。《不死川 常》という風変わりな名前の作者が書いた文章を、イベリスはかれこれ一時間ほど追い続けている。ゲームでしか活字に触れてこなかった自覚があるため、途中で挫折するのではないかと危惧していたが、読み始めてしまえばそんな心配もどこへやら。飽きることなく読み進め、物語は佳境に差し掛かっていた。
「……イベリスが読書とか、珍しいこともあるもんだな」
「灰人くんに借りたらしいですわ。何でも、不死川さんという方の書かれた本ですとか」
珍しい光景に、生駒とセンティフォリアが顔を見合わせて囁きあう声が聞こえるが、全く気にならない。手元の文字の中に生きる人々が迎える結末を、無事に見届けることの方が、今のイベリスにとっては重要だった。
黙々と、次のページへと紙を捲る。
「…………?」
ふと、イベリスは無視することのできない違和感を覚えて、顔を上げた。
周囲を見回しても、特に変わった様子はない。カウンターの内側では生駒がPC画面を睨んでおり、センティフォリアがグラスを拭き上げている。朝から外出中であるクフェアがいないことを除けば、いつも通りの光景だ。
得体の知れない胸騒ぎを感じながらも、イベリスは落ち着いていた。没頭していた物語から強制的に引きずり出された不快感はあるが、危険は感じない。嫌なものではなさそうだ。
むしろ、例えるならば、宝箱を開ける直前のような──そんな感覚。
本を閉じて、店の扉をじっと見つめる。
ほどなくして、嵌め込まれたガラスの向こうに影が映り、扉に付けられたベルが来客を知らせるように鳴った。音に反応して顔を上げた生駒とセンティフォリアが、いらっしゃいませ、と口を開くより早く。
「不死川 常!!!」
イベリスは、勢いよく立ち上がった。
店に入るなり見知らぬ少女に指を突きつけられた青年は、ドアノブに手をかけた中途半端な体勢のまま、きょとんとしたように目を瞬かせる。
「しなずがわ、とわ……?」
勢いだけで口を突いて出た名前を、イベリスは反芻する。高音と共に頭に響いたそれは、恐らく目の前に佇む青年の名前。
「本名かよ!!?」
散々、変な名前だと首をひねっていた名前が、ペンネームではないという事実を理解して、思わず机を両拳で叩く。憤っているわけではない。脱力感に襲われているだけだ。
「え? あ……うん? えっと、イベリス……???」
青年も、初対面であるイベリスの名前を口にする。状況を飲み込めていないながらも、自分の口から出た単語が、目の前で自分を睨み付ける少女の名前であることは理解しているようだ。
つまり、緊張感のない顔で首をひねる目の前の青年──不死川 常は、間違いなく自分のマスターである。
理解してしまえば、全てに納得がいく。名前を見たときの違和感や、先ほどまで感じていた胸騒ぎも、《不死川 常》が自分のマスターだったから。マスター探しに失敗し続けて以来、信頼していなかった自分の勘への評価は、今日から改めてもよさそうだ。
「……マスター」
探し続けたマスターが、目の前にいる。
願い続けた光景であるはずだが、いざ直面してみると感動は薄く、むしろ探し回った苦労の記憶が改めて鮮明に甦った。山奥にまで足を伸ばしても見つからなかったマスターが、こんなにも名前の知れた人間だったなんて。
マスターと会うことが出来たら、言いたいことがあった。説明しなくてはならないことも、山のようにある。
しかし、イベリスは全てをさておき。
「……来るのが、遅っせぇんだよ!!!」
抱きつくように、頭突きをした。
fin. 2019/09/21
thanks!!
⇒ 不死川 常(翡奈月あみ さま)
