願いを掛けたはずの髪の話
フェンネルは、自分の置かれている状況に首を傾げていた。
ここは、まつば荘の浴室。小さいながらに掃除の行き届いた空間は温かく、ほんのりと白い湯気が立ち込めている。磨りガラスの嵌められた窓際の浴槽で、フェンネルはお湯に浸かっていた。
なぜ、自分がまつば荘で入浴することになっているのか。直接的な理由としては、大家である空木に押し込まれたからなのだが、そこに至るまでの記憶が曖昧だ。きっと流されるままに行動していたせいだろう。
乳白色のお湯を両手で掬ってみれば、留まることなく指の隙間から流れ落ちていく。滴る水に揺らされる、濁った水面を漂うのは自分の髪。色素の薄いそれを眺めながら、溶けそうだ、などとぼんやり思う。肌にまとわりつくお湯は温かく、冷えていた身体をじわじわと侵食するかのよう。このまま溶けて消えられたなら、きっと心地よいに違いない。
自然と身体の力が抜けるのに任せて、目を閉じる。寄りかかった背中がずるずると沈み、鼻までお湯に浸かったところで突然、浴室の扉が開かれた。
「フェンくーん、入ってもいいかしら〜」
返事を待たずに踏み込んできたルクリアに、フェンネルはゆっくりと目を開く。もう入ってるよね、という呟きはお湯に阻まれ、口元でぶくぶくと泡になった。
「あらあら〜。フェンくんったら、お風呂の中で寝たらダメよ? 困った子ね〜」
強制的に身体を引き起こされて、心地よさに溶けかけていた意識も浮上する。濡れて顔に張り付く髪を払い、浴槽の縁に腕をかけて、ルクリアを見上げた。
起きた? と片頬に手を添えて小首を傾げるルクリアに、フェンネルも同じ方向に首を傾げる。
「……何しに来たの?」
それは、至極真っ当な質問だった。異性が入浴中の浴室に堂々と入ってくる相手はフェンネルの知る限りルクリアくらいのものだが、流石の彼女も用事がなければ入ってはこないだろう。
訊ねるフェンネルに、ルクリアはにっこりと笑う。
「様子見。フェンくんのことだから、お湯に浸かって終わりにしかねないと思って」
「へー。ちなみに、どういう意味で?」
「色んな意味で、よ。ついでに、頭洗ってあげる」
シャワーを手に取ったルクリアに、彼女が躊躇うことなく素足で入ってきた理由に納得する。
「子供じゃないんだけどなー」
ぼやきながらも浴槽から少し乗り出して、大人しく頭を差し出した。何とはなしに髪に手櫛を通せば、随分と長くなったことに気がつく。
伸ばし始めたきっかけは、確か願掛けだった気がするが、自分は何を願ったのだったか──ふと過去の記憶を辿ろうとして、すぐに止めた。今となっては、どうでもいいことだ。
「……髪、切ろうかなー」
「どうして? せっかく綺麗なんだから、伸ばしておいたらいいじゃない」
「んー、何となく言ってみただけ」
「なぁに、それ」
笑い混じりの声と共に頭からお湯をかけられて、再びフェンネルは目を閉じる。
そう、何となく言ってみただけだ。実際に切りに行くのは面倒くさいから、髪は伸ばしたままでいいだろう。
掛けた願いは、恐らく叶わなかったのだから。
fin. 2019/07/06
