亀裂の入った硝子細工の話
午前3時。真夜中の台所で、空木はスープを煮込んでいる。必要に駆られて作ったものだが、どうせなら朝食の足しにしようと、少し手間をかけ野菜をたっぷり入れたポタージュにした。
ことことと音を立てる鍋を見守りながら、小さく欠伸をする。
そもそも、夜中にスープを作ることになった事の発端は、就寝中にフェンネルの携帯からかかってきた一本の電話。こんな時間に何の用事だろうかと出てみれば、電話の向こうに居たのは本人ではなく警察官で、背筋が一瞬ひやりとした。最悪の事態が頭を過ってしまったのは、仕方のないことだと思いたい。
実際は、深夜にふらふらと徘徊しているところを職務質問されたフェンネルが、あまりに薄汚れて憔悴している様子であったために、心配した警察官が彼の携帯に登録されている数少ない相手──つまり、空木に連絡を寄越したのだ。親切な警察官の手を煩わせるのも忍びなく、身支度もそこそこに迎えに行けば、フェンネルは何処を歩いていたのか泥まみれの擦り傷だらけ。そのまま部屋へ上げるのが憚られる状態で、連れ帰って早々に浴室へと放り込んだ。
いつにも増してぼんやりした様子のフェンネルは、現在、声を聞きつけて起きてきたルクリアに世話を焼かれている。
スープの味を確かめてひとつ頷き、火を止めたところで、タイミングよく台所の扉が開いた。夜中に活動する事態を招いた張本人が、下ろしたままの髪を指先で弄びながら、ふわふわとした足取りで入ってくる。
「あぁ、フェンネル。着替え……は、わかったみたいですね」
「んー? これのこと?」
着ている浴衣の襟を指でつまみ、自分の身体を見下ろすフェンネル。身体が温まったせいか、幾分か反応がしっかりしてきたようだ。長い髪もきちんと乾いており、ルクリアが丁寧に世話をしてくれたことが伺える。
「ルクリアさんはどうしました?」
食卓の椅子に座るように促しながら訊ねれば、フェンネルは一度きょとんとしたように瞬いて、何かを探すように天井を仰いだ。あー、と唸って目を閉じる。
「思ったより濡れたから、ついでにシャワー浴びるって言ってた」
ような気がする、と付け加えて首を傾げる様子に溜め息を吐いて、空木は出来上がったばかりのスープを器に盛る。スプーンを添えてフェンネルの前に置き、自分は向かい側に腰をおろした。
「冷めないうちにどうぞ」
そう勧めれば、いただきます、と律儀に手を合わせてスプーンを取る。召し上がれ、と返す度に、違和感のある光景だと繰り返し思う。
生きるために必要な行為を拒否することがないフェンネルは、死に損なったとぼやきながら、こうして与えられる食事を素直に口へと運ぶ。最初こそ酷い矛盾だと思っていた。死ねないことを悔やむほどなら、もう少し自暴自棄であっても可笑しくないはずだ、と。
しかし、今なら少しだけ理解ができる。彼はきっと《死んでいる》のだ。
言い切ってしまうのは語弊があるかも知れないが、身体が生命を維持していても、思考を放棄してしまえば死んでいるも同然だろう。彼は考えることをやめることで、生きることをやめたのだ。本人の中で生きている意識が薄いのならば、死ぬことすら考えもしないだろう。
あくまで憶測にすぎないが、あながち間違いではないはずだ。彼が『死に損なった』と口にすることはあっても、『死にたい』と言ったことは一度もないのだから。
「スープ、口に合いました?」
黙々とスプーンを口に運ぶフェンネルに問えば、掛けられた言葉を確かめるように手を止めて、へらりと薄っぺらい表情で笑う。
「そうだね、また死に損なっちゃった」
細められた瞳には、後悔も失望も、何も浮かばない。食事を摂っている現状に、自分が死に損なったという事実だけを、ただ冷静に反芻していた。
恐らく、彼の心は亀裂の入った硝子細工のようで、誰もが触れることを躊躇する。下手に触れれば粉々になって、きっと元には戻らない。
見守ることしかできないのだ。少なくとも、自分には。
死を選ぶことなく生きることをやめた彼が、一体どのような気持ちで死んだのか。
想像することしか、できない。
fin. 2019/07/08
