The infinite world



一度は忘れた名前の話


 それは、地球へやってきてから、どれだけの時間が経った頃だっただろうか。直ぐだったような気もするし、だいぶ経ってからだったような気もする。時間の経過などイノンドにとってはどうでもいいことで、曖昧なものでしかない。
 ただ『そういうことがあった』という事実だけが、頭の中に残っている。

 小雨が降る町中を、特に目的もなくイノンドは歩いていた。雲に覆われた空は暗く、時間の感覚は既に失われている。少なくとも夜中ではないのだろうと、建物から漏れる灯りを見て思う。
 雨は、嫌いではない。冷たい水滴に肌を撫でられると、安心感さえ覚えた。

「……んー?」

 ゆっくりと歩いていた道の先。建物から出てきた人物を見て、立ち止まる。
 色褪せた景色の中で、嫌でも目を向けてしまうような存在感。まるで、自分は特別なのだと主張するかのように、立体感を持つ人影が意味することは、ただひとつ。
 あれが、自分のマスターなのだろう。
 突然の邂逅に、焦りはなかった。遅かれ早かれ、出会うことは予感していた。何より、マスターを見つけたところで《何も変わらない》ことを、フェンネルは知っている。
 脳裏に浮かんだ名前は、すぐに忘れた。

「……仕方ないよね、疲れちゃったからさ」

 疲労を思い出したのは、久しぶりだ。今晩はきちんと屋根のある場所で休もうと決めて、決めたことすら忘れる前に、寝床へと戻ることにする。
 踵を返す直前に、一瞬だけ、視線が合った気がした。



 ───。
 いつかの記憶を反芻しながら、フェンネルは立っていた。何週間も前の出来事を思い出すのは久しぶりで、こんなにもはっきりと覚えているのに、全くと言っていいほど現実味がない。
 例えるのならば、夢の内容を覚えているような、曖昧な感覚。

「フェンくん、聞いてる?」

 顔を覗き込まれて、つられるように視線を向ける。
 ぼんやりとした視界に映ったのは、どこか拗ねたような、諦めたような表情。フェンネルと視線が合ったことに、銀朱の瞳を細めた七竃が笑った。

「いい香りがするからって、立って寝たら危なくない? 倒れないでね」

 念を押されて、改めて周りを見回す。
 七竃が口にした通り、周囲には植物特有の青臭さを含んだ甘い香りが漂っていた。至るところに花が置いてあることに気が付いて、フェンネルは首を傾げる。

「……ここ、何処だっけー?」

 見知らぬ場所だ。寝ていたつもりはないが、入ってきた記憶がないということは、寝ていたのかも知れない。そう思って七竃に訊ねれば、困ったように首を傾げ返される。

「もー、フェンくん。その質問、三回目だよ? 花屋さんだってば」

「花屋さんねー、そっかそっか」

「その返事も三回目〜」

 諦め混じりに苦笑した七竃は、やれやれというように肩をすくめた。フェンネルの立つ方向とは反対側への向き直り、誰かと言葉を交わし始める。
 七竃の肩越しに視線を向けてみれば、七竃と話す誰かは、机のようなものを挟んだ向こう側に立っていた。何かを机の上で広げながら、何かを七竃に問い掛けては、何かを紙に書き出している。

「…………?」

 ふと、顔を上げたその人と視線が合った。
 同時に、先ほど反芻していた記憶が、より現実味を帯びて脳を揺らす。曖昧だった感覚は、手に取るように鮮明なものへと変わり、確かに自分が体験したことであるという事実を突き付けてきた。
 耳鳴りが、する。

 ──《宍戸 守詩》。
 一度は忘れたその名前を、再認識した途端に血の気が引いた。狭い視界が更に狭くなり、自分がきちんと立っているのかさえわからない。
 しかし、不安定に閉じていく世界の中で、フェンネルは冷静だった。
 夢と現実の狭間に落ちたとしても、名前を呼んでしまうことがないように、思い出した名前を頭の隅に追いやる。いっそ早急に気を失ってしまえば、口を開くこともないだろう。
 力を抜き、重力に逆らうことなくずるずるとしゃがみこめば、七竃に肩を掴まれた。声を掛けられるが、内容は全く頭に入ってこない。
 耳鳴りが、止まらない。

「…………寝そう」

 一言、へらりと笑って呟いて、フェンネルは意識を手放した。





fin. 2019/09/26

thanks!!


⇒ 宍戸 守詩(翡奈月あみ さま)

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七つの水槽