来はいつも

積もる灰白色の重なり 3 / 4


暗がりの中、長い前髪の奥に潜む黄色の両目を見ていた。しゅるりしゅるりと手馴れた手つきで着付けていく陽月は、小さい頃と変わらない。


「なんで、わかるの?」
「? 会話どころか文章も成り立ってない」
「……なんで、名前言っただけで、いつもすぐに来てくれるのかなあと」


陽月は行李から濃紺の帯を取り出しながら、


「声の周波数」
「え」
「嘘だよ」


笑うでもなくばっさりと、それから彼は視線を上の方へ巡らせて、少しだけ口角を上げた。


「……まあ、名前だからじゃないのかね」


彼の言う名前は、俺たちのことではないのだろう。なんとなく、そんな気がした。
そう、と一言を返すことで精一杯で、自然と増えた瞬きに、陽月は気付いているのに何も言わなかった。次第に夕暮れの濃い赤も消え始め、最後に帯を背中に回したところで、部屋はすっかり暗くなっていた。


「……思い出したんだ。小学生くらいの時、こうやって着させてもらったなあって」


行李のかぶせ蓋をはめる陽月を見下ろすふりをして、記憶を重ねる。
――土方が言っていた。以前に春が出てきた時に連ねた名の中に、光と陽月の名があったと。言われて初めて、そうだと気づいた。彼の瞳の色も、雰囲気も。髪の色は、光であった頃の方が茶に近かったけれど。
彼はただ目を伏せて、どっこいせと年寄りじみた掛け声をして立ち上がった。
思い出してしまったというには、無責任だろう。ただ、今ここにいる彼が生きているのかさえ、自信がもてない。生死の観念から見ること自体が間違いなのかもしれないが。それでも、引き止めた呼び声の先で待っていたものは、今も容易く脳裏に呼び起こされるのだ。彼をなんと呼ぶことが正しいのかは分からないけれど、少なくとも、あの少年の名で呼ぶことは正しくはないだろう。呼べばすぐにでも消えてしまいそうな、そんな気しかしないのだから。


「……ありがとう、"兄さん"」


兄妹だと、それはどの時点かの誰かが、望んでいた形だったのかもしれない。
刹那見開いた目を細め、彼は襖の方へと歩きながら振り返らずに小さく告げた。


「……お前が辛くないのなら、それでいい」


襖を開ければ、どこからか差し込む月明かりに影が伸びる。外で待っていた原田の赤い髪が襖からのぞき、次いで現れた端正な顔がひどく満足げに緩まった。気恥ずかしさに項に置いた手を掻いていれば、陽月の笑い声が降ってきた。


「――っはは、そうだな、やっとそれで、年相応だ」


彼はそう言うと、それじゃあ俺も仕事があるからと、ひらひらと手を振ってあっさりとどこぞへと消えてしまった。
夜の中で浮かぶ浴衣の白さが少しだけ怖いと思うのは、今までそれだけ暗闇に馴染んできていたからだろう。陽月の消えた先を眺めていた原田に近づいて見上げれば、彼は淡く微笑んで目線を合わせた。


「あ、ありがとう、ございます」
「いいや、俺がそういう姿を見たかったってのもあるからな。――さっき近藤さんとすれ違ってな、西瓜があるから皆で食べてくれだとよ。総司に持って行ってやれ。近藤さんが買ってきてくれたんだ、きっと食うだろ」
「……左之さん、もしかして」


続く言葉を飲み込んでしまったのは、やはり保身のためなのだと思う。自覚は、おそらくもうしているというのに。
言いかけた言葉に気づいたのか、原田は少しだけ笑みを歪ませて、俺の頭を二度ほど撫でると一歩足を後ろに引いた。


「台所に置いてあるから、さすがに西瓜くらいお前でも切れるだろ?」
「どこかに行くの?」
「新八を拾ってくる。あいつもう出来てそうだしよ」


玄関へと向かう原田とはこの部屋からして逆方向だ。この格好で屯所を歩き回ると思うと些か勇気があることなのだが、彼は一言だけ似合ってるよと残すと、佇む俺を置いて去っていってしまった。
さすが角屋でも女が騒ぐわけだ。反射的に赤くなったのは褒められ慣れていないせいである。このまま突っ立っているのもおかしいので、ふらふらと足は台所に向かわざるを得なかった。

――ここのところ沖田の食は細くなる一方だった。俺とて彼のそれは病であると思っているのに、原田に聞いたところでそんなことはないと首を振るのだ。人のことをあれやこれやと心配しているほどの余裕が身の内にあるのかと言われると、またそれも複雑なものながあるのだけれど。
台所で白い浴衣に跳ねないようおそるおそる切り分けた西瓜は、我ながらよくここまである意味器用にがたがたと波打たせられたなと思う出来だった。近藤に内心謝りながら、盆に重ねたそれらを持って沖田の部屋に向かった。
縁側から溢れる月の光が、まるで夢の続きを辿らせているようで、足がすくむ。このまま歩き続けたら、行き着く先はどこなのだろう。女物の着物を身にまとうことが、少しだけ怖かった。


「――総司」


部屋の障子を開けて、彼は空を眺めていた。開け放った障子にもたれながら仰ぐ双眸は、どこまでも遠い場所を映している。呼ぶ声にゆっくりと反応して向けられた瞳が、僅かに見開いたあと、可笑しそうに細められた。


「馬子にも衣装だね」
「……言うと思った」


彼の前に膝をつき、盆を床に滑らせる。不格好に鎮座する切れかけを、笑うでもなくただ見下ろしていた。
――久方ぶりに言葉を交わした以降、やはりまともに会話をした記憶は少ない。それは彼が基本的に部屋に引きこもってしまっているためで、どうしても、未だに言葉を紡ぐのが難しかった。沖田も、そう感じているのかは知らないけれど。それも知っていた上で、おそらく原田はこうしたのだろう。


「近藤さんが、買ってきてくれたんだって」
「……うん、でも、食欲がないんだ」
「それなら、食べたいときに、食べて」


拙い会話に、逃げ出したくなってしまう。会話の仕方も、忘れてしまった。
押し黙った沖田に何も言えなくなって、部屋に戻ろうと立ち上がる素振りをした俺の手首を、彼は掴んで引き止めた。
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