来はいつも

積もる灰白色の重なり 2 / 4


徐々に白んでいく空を想像して朝を迎える。閉じた瞼の裏で明滅する光る虫のような粒を追いかけて、今まで自分は眠っていたのだと言い聞かせて目を覚ます。それが癖になっておそらく三日と経った。原田が夜半に出歩いていた俺を探しに来てくれた日から、その日課じみた逃避をやめて二ヶ月近い。言葉にすれば二ヶ月も長いはずなのに、思い起こせばやはり何も代わり映えのない積み重ねだ。唯一大きなことといえば、西本願寺から屯所を不動堂村に移したことだろうか。夏の盛りより前に越したこの場所は、新しく建てたからか今までのどの場所よりもい草の香りが強かった。
――俺自身、思い出すことは微々たるものたちで、まだはまらないパズルの欠片を集めている。夏は少しずつ遠くなっていた。


「名前」


井戸で水を汲んで顔を洗っていれば、後ろで珍しく永倉が話しかけてきた。手ぬぐいで顔を拭いながら振り返れば、唐突に頭に手を置いた彼はしげしげと俺の頭頂部からつま先までを見回した。


「……なんですか」
「あーいや、最近、調子はどうかと思ってよ。ほら、昨日源さんに稽古つけてもらってたろ?」


井戸端に腰掛けて俺を見下ろす彼は、何も知らないのだろうか。原田は、何も言っていないのだろうか。永倉の目に映る俺に自信がなくなって、彼の何かを探るような目から顔を逸らした。何も疑問に思っていないはずはないというのに。彼はそれを問いただしては来ない。
永倉の言葉にはあと思わず生返事で返してしまってから我に返り、昨日のことを思い出す。不定期ながらたまに顔を出す稽古に、昨日は久しぶりに井上の姿を見かけたので手合わせしてもらったのだ。温和そうな顔に似合わず太刀筋は意外と荒っぽい。動いている時は何を考えることもなく、それを苦し紛れにしてはいるけれど結局それも遠い昔の彼女の癖なのだろうかと考えてしまうからいつまでたっても堂々巡りだ。


「……永倉さんにはない大人の余裕と優しさを見せてくれました」
「てめ、喧嘩売ってんのか」
「冗談ですよ、半分」
「半分な!」


ずり下がったバンダナをあげてぶつくさ言う永倉に笑えば、彼は鼻をかいて寄りかかっていた井戸から腰を上げた。


「お前、京の送り火は見たことあるか?」
「大文字焼き?」
「そりゃ山崎に正されるぞ、それは菓子の名前ですかってな」
「え、違うの。ずっとそうだと思ってた」


くくくと笑った永倉はもう一度俺の頭に手を置くと、こんくらいかと残して歩き始めた。


「もうすぐ送り盆だからな」


それじゃあなと立ち去る背中を見ながら、頬を伝った水滴を手の甲に押し付ける。蛤御門での一件やら制札やらで、確かにこの盆の時期がこんなにも落ち着いているのは初めてかも知れない。盆か、と呟いた声が内側に響く。それも皮肉な話かと、ぐるぐると回る思考回路をぷつりと切った。




それから数日、盆の準備に山崎と千鶴が台所で何かしらを作っているのを横目に、俺は島田とともに土方に遣いを頼まれていた。京の町はすっかり送り火の準備で賑わい、今だけは斬った張ったの腥さとは程遠い雰囲気に息をつく。
昼から買い出しに行き、夕刻ほどには帰路に着いた俺たちは、人ごみで予想より遅れた時間を取り戻すべく少しばかり小走りをして屯所に帰った。久しぶりの穏やかな盆に、手の空いた組員は屯所を離れているらしい。すれ違う組員はまばらで、屯所は静まり返っていた。


「名前」
「あ、左之さん。残ってたんだ」


てっきり盆に託けて永倉とでも酒を飲んでいるのかと思いきや、彼は酔った風でもない足取りで、真正面の廊下の向こうから俺を呼んだ。ちょっと来い、とどのみち自室に行くというのに、急かすように手招く。それに少しばかり歩調をはやめれば、着いた自室の真新しい襖をどことなく楽しそうに開ける原田を見た。七、八畳の部屋の真ん中に、これまた新しい行李が置かれていた。


「さっき千鶴にも渡してな。近藤さんがお前らにって仕立ててくれたんだよ」


行李の傍に膝をつき、二人で覗き込むように上半身をかがめる。そう言いながらかぶせ蓋を持ち上げた原田の手元から目が離せなくなった。その細長い行李に収まるのは、しつけ糸もついたままの、ごく薄い藤色の地に細い花の散る浴衣だった。


「え……?」
「お前もいつも濃い色ばかり着てるからな、たまにはこういうのもいいんじゃねえかと思ったんだが……嫌だったか?」
「っいやとか! 全然、嬉しい、んだけど、……着たことないと、いいますか……」


しゃがみこんだ俺の肩口に合わすようにその浴衣を当てた原田は、一瞬呆けた顔をしてから真剣な面持ちで口を開いた。


「……まさか今までずっと着流し着てたわけねえだろう」
「……着流し、ではないけど……」


着流しに悪戦苦闘していたのは普段から着慣れぬものだったのだと弁解の余地はあるが、さすがに洋装をしていたなどとも言えず、かといって着物なんぞと着たことはないので、手渡された浴衣を申し訳ない目で見る他なかった。彼の久しぶりの胡乱な眼差しに思わず懐かしいなと言ってしまいたくなるほどにはこの沈黙は痛い。いわば成人近くて洋服の釦が締められないということだろう。引きつった笑ばかりが浮かんでしまう。


「……なんにせよ、千鶴ももういねえしなあ、着せたことはねえし…」
「あ」


原田の呟いた独り言に返す言葉を探すより先に、ふと小さい頃を思い出した。


「陽月なら、」


そう言って、手拍子を三回ほどするような間の後、背後からひょっこりと彼は現れた。


「呼ばれた気がしたんだけど大当たり?」
「うわ」


ぽすりと肩に置かれた手の冷たさにたまらず肩が跳ねる。いきおいよく振り向いた先にいた陽月は俺の手の中に収まる浴衣を見て、原田を見た。


「よし、任された。原田組長、廊下に」


そういうないなや、座卓に置かれた鋏を持ってしつけ糸を切り始めた陽月に、顔を見合わせてしまえばあとはお互い可笑しそうに笑うしかなかった。
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