未来はいつも
「僕はいらないから、君が食べてよ」
温かくはない手だった。外の気温に対して、冷水にさらしていたように。
不自然に浮かせていた腰を落ち着けて、握られたままの手首を見つめてからそらすように空を見上げた。沖田がずっと眺めていた空には星が散り、遠く向こうの方が仄かに明るい。この場所から、その明かりを眺めて、動けずにいる彼は何を考えていたのだろう。
「……それじゃあ、これの半分なら食べられる? そうしたら、切ってくるよ」
「……はあ、切ってこなくていいよ。君の半分、もらうから」
ずいと差し出された不格好な一切れが、握られていた手首を返されて手のひらに収まる。ほらと無言の視線を向けられれば、そうせざるを得ずに、しゃくりと赤い果肉を頬張った。思っていたよりも、甘くはない。しゃりしゃりと舌の上に乗る西瓜特有の食感が、今更のように季節の感覚を連れてきた。飲み込めば仄かに甘い後味に、少しだけ気分が和らいだ。
「……それ、左之さんが見立てたんでしょ」
種を爪で弾いてから一口また口に運べば、彼は俺の浴衣の袂のあたりを見遣っていた。贈りたいのだと言ってくれたのは近藤をはじめとする数人だと言っていたので、当然選んでくれたのも幹部の誰かではあるだろう。行李から出した時の言葉から察するに、見立ててくれたのは原田だとは思うが。多分、と頷けば沖田はふうんと一言答えたきり、ふいと空に視線を移した。見立てたのが原田だということが面白くなかったのか、それは定かではないが、そんな顔をしているのはわかった。どうしてと聞くことが無難なのだろうか、それともここは何も聞かず言わずに話題を振ったほうがいいのかと三口目を食べながら考えていれば、突然手首を引っ張られた。驚いてそちらを見れば、宣言通り俺の食いかけの西瓜に沖田は歯を立てていた。つつ、と赤い果汁が指を伝って皿の上に滴る。
「行儀が、悪いですよ沖田サン」
「手が汚れるから」
「ちょっと」
文句の一つでも言ってやろうかと思いはしたが、それもすぐにやめた。この距離感に疑問を抱かない彼の真意を測り兼ねている。いつも少しばかりはだけた胸元が近いのだ。――いや、惜しげもなく見える鎖骨も、これはむしろ目をそらして照れる方が馬鹿馬鹿しいとでもいうのか。結局仕方なく逸らした目は、彼の床に突いた手を映していた。
「――ごちそうさま」
「……よござんした」
緑の皮を皿に戻して、ベタつく手を濡らした手ぬぐいで拭う。無駄にすり減らした神経に息を吐いて、揺れる風鈴の音に耳を澄ました。どこの部屋から聞こえるのか、涼やかな音が夜の寂しさを引き連れる。人々の賑わう声よりも、その音のほうが近かった。
「名前、ちょっとここ座って」
遠くの音に意識を向けていたので、彼の声はひどく霞んで聞こえた。そう言って床を叩いているその場所は彼のちょうど目の前で、一度立ち上がって、それから付け足された言葉通り背中を向けて座り直す。するりと、結わえていた髪紐が解けてすっかり長くなった髪が背中に垂れた。
「なに、して」
「髪、伸びたね」
帯留めを越えても長い髪を、彼は手櫛でするすると梳いていた。なにが面白いのか、ただ同じ動作を数度と繰り返している。そうだねと答えた声は、震えてはいなかっただろうか。
「……だってもう、何年経った?」
「昔から、君は気が短かった」
「一番最初のは、いきなり総司が斬りかかってきたからでしょうに」
「いや、僕よりも先に挑発してきたのは名前だったよ」
いや総司が、名前が、と薄らいだ数年前の記憶を押し付け合う。どちらにせよ、彼とはそういえば斬り合った仲だったということで話は閉じた。
「足払いされたことは許さない」
「根に持つなあ、仕方ないでしょ。あの時はあれが最善で、殺しちゃうつもりだったんだから」
「……」
「でも、斬らなくてよかった」
梳いていた手を止め、髪を持ち上げてまとめ始める。不器用に、すくいきれずに指先からこぼれるひと房が首筋をくすぐる。振り返ることはできなかった。
「あの時名前がもっと弱かったら、彼が邪魔しに入らなかったら、僕は名前を斬り殺してたんだと思う」
沖田の声に変わりはなく、ただとうとうと言葉を連ねていく。変わりはないからこそ、彼が一体どんな表情を浮かべているのかさえわからない。
柔らかに髪を引っ張る力に吊られるたびに、丸めたがる背が叱られているような気がした。
「……変わらないって、僕は君に言ったけど」
視界の端で、赤い髪紐が揺れる。
「前はもっと、駄々を捏ねる子供みたいだった」
ぎゅうと括られた髪が少し重い。沖田は骨ばった細い指で俺の両肩を掴むと、首元に埋めるように額を乗せた。
「羨ましいなんて僕も名前も言ったけど、君だって、変わっていくんだ」
「……それは、」
この身体の異常性を、春の名を出して伝えれば、彼はなんというのだろう。自分自身でさえひどく奇妙で不気味で不格好で心地の良いものではないと思っているのに。すべて、すべて伝えてしまったら、こうして触れることもなくなってしまうのだろうか。離れていってしまうのだろうか。積み重なってきたものが、まるで羽毛のように軽すぎて頼りないもののように思えてくる。
「――変わって、いくのかな」
息が詰まる。声が錆びてしまったように、掠れていく。心の声が体に染み出てしまいそうになるたび押し殺して、俯いた。
「……変わって、いけるのかなあ」
肩口に乗る頭にもたれるように、僅かに傾けた頭が視界を歪ませる。どこまでもどこまでも、際限なく遠くまで滑り落ちてゆくようだった。
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