来はいつも

居場所は黒鳶色に還る 1 / 3


「商家のお嬢様がひどいもんだな」


冷えた握り飯を袂で揺らせながらガサガサと深い深い森の奥へと歩みを進めている途中で、背後から声が降ってきた。その声に前に進んでいた意識と足は止められ、切れかけた鼻緒が指の間に食い込む。振り返るまでもなく、声の主はすとんと目の前に降り立った。


「ついてきたの?」
「聞こえただけだ。お前らが森の傍で勝手に話すから、勝手に森が音を吸い込む」
「そう、でも仕方ないよ。だって、わたしが普通じゃないのがいけないんだもの」


草木が揺れる音が柔らかい。おかえりと、木々がそう笑ってくれたような気がした。
彼は心底不愉快そうに双眸を細め、背中を向けるとどこかへと歩き始めた。その背をぼうと眺めた後、糸でつられたように右足を前に踏み出す。


「目が赤くなるのは普通じゃないんだって。生まれる前に悪いことをしたから、周りの人に禍を呼ぶの」
「へえ、面白いな。お前人じゃなかったのか」
「どうして? わたし、母さまのお腹から、生まれたのよ?」
「禍を呼べるのなら、最早それは人とは呼ばないだろうに」


少しだけ大きな小石を踏んで、前のめりになった左足の鼻緒がぶちりと切れた。飛び出した足が仄かに冷たい土を踏む。何かが、指の間をすり抜けていった。






視界が暗転する。今日はその瞬間に名前の意識が顔を出した。だからだろうか、夢の中で心臓に針を突き立てられたような、その鋭くて冷ややかな痛みが何からくるものだったのかがわからない。記憶をのぞき見る名前には、わからなかったけれど、ひどく胸が空いた。息を吸っても満たされない。朝餉を食べても埋まらない。痛みはなく、触れても温かいというのに。
ただただ、胸が空いていた。


「――名前君、どうしたの!?」


台所の後片付けをしていた千鶴の声が落ちてくる。はっと我に返り自身の手を見れば、掴んでいたはずの茶碗が水桶の底に沈んでいた。急いで拾い上げてひび割れの確認をしていれば、彼女の足元で茶碗を洗っていた俺の傍まで水の滴る手をぶら下げて千鶴がやってきた。


「びっくりした、いきなりお茶碗を落とすんだもの」
「あ、いや、ちょっと、考えごとしてて……」
「けが、してない? 大丈夫?」


残りをやっておこうかとの申し出にゆるく首を振る。茶碗の水を切って別の桶に移し、他の茶碗を洗うふりをして冷たい水の中に手を突っ込んだ。
――いやな夢だと、思う。自分が何者であるのかというようやく得た認識と共に忍び寄るのはその認識を飲み込む他者の意識そのものである。日に日に、紙魚が広がって穴だらけにしていくように、頭の中が虚だらけだ。虚を埋めていくのは俺のものではない。だからこそ、揺らいでいく。隔てられた境界が、もう一度薄まってしまう。俺は俺として、俺の頭で、思考を続けていかなければ。でなければ容易く虚は広がっていく。
波立つ水面に映る俺の瞳は、どこまでも暗い色をしていた。それだけが、今はここが夢の続きでないことを教えてくれる。


「……名前君、それが終わったら、広場にお茶を運びに行こう」
「――うん、わかった」


水からあげた指先には、冷えた風は痛かった。
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