未来はいつも
握る指先の冷たさが、恐ろしかった。このまま、息を止めて。このまま、瞼は開かず。このまま、死んでしまうのではないのかと。彼女の呼吸を確かめるように、頬にかかる髪を耳にかけて覗き込む。体を支えることに耐えられなくなった彼女の細い身体が、左肩にのしかかった。
「……きずがね、なおらないんだ」
微睡みに溶けてしまいそうな声音で呟く。唾を飲み込んで引きつった首に残る傷が、分厚い瘡蓋を着込んで居座っている。一文字の、傷跡。今、話しているのは、はたしてどちらであるのだろうか。
「このきずだけは、ずっと、残ってる」
耳にかけた髪を梳くように、それからそっと、首筋の傷を指でたどった。ざらざらとしていて、ひどく熱い。奥の方で感じる拍動の波に、息を吐いた。
「はるは、しにたいのかな……」
うっすらと開けた目が、眩しそうに草木を見つめる。そうして、一度の瞬きの後、再び瞼を下ろせば、静かな寝息を立てていた。
「おやすみ、名前」
暗闇でも見える隈をやわく撫でて、つないでいた手をゆっくりと解いた。
しばらくは、目を覚まさないだろう。息をしたまま目を覚まさなかったらと思うと、今すぐにでも起こして名前を呼んでしまいたくなる。
あどけない寝顔に触れたくなって伸ばした指を握り締め、膝の後ろに手を回してかつぎあげた。
軽い。中身が、軽い。病床で衰えた腕でさえも苦にならないほど、彼女は空っぽだった。
変若水の味を覚えている。
風間の襲撃によって倒れ伏した羅刹の山。騒然とする屯所で響く怒号に体内に巡る血液が沸き立つような気がした。大して動きもしない四肢で這いずっても、その喧騒が静かことはない。小路に行く任務の前に、彼女のことを教わってとよかったと、それだけで心が紛れた。以前に山南から手渡されていた硝子の小瓶の反射が、涙のように思えたのは、最後の人の心だったのかもしれない。未だにしつこく喉の奥でへばりつくそれは、これからずっと、そこにあるのだろう。忘れるはずもないというのに。
ほとんどの組員が寝入った屯所は冷えていて、歩くたびに床が軋んだ。沖田一人だけの足音がしばらく鳴り響いたあと、忍ばせるような足音がひとつ、背後からあがる。振り返れば、心なしかやつれた顔をした原田がいた。
「……眠ったか」
「うん、今さっき。左之さんは、平助君のところ?」
くしゃりと前髪をかきあげた彼はゆっくりと隣に並ぶと、音を立てないように歩き始めた。――周りを気にしての行動ではなく、ただとても緩慢な歩調がそうさせているのだと、数歩進んだところで気づいた。
「傷ももうよくなってるからな、暇だってんで、お前のこと呼んでたぞ」
「そう、僕はまだ行かないけど」
「……お前も、眠くはないのか?」
返答のための間が、重く落ちた。
「――いや、悪ぃ。今のは忘れてくれ」
らしくなく苦い顔をして目を伏せた彼にこぼれた笑みは、それほど付き合いが長かったからだ。肩口に頭をおいて眠りこける名前を視界に映したあと、原田は天井を見上げて小さく笑った。
「……新八は、知らなかったからな」
「名前のこと?」
「……腹に弾がなけりゃ、今頃誰も生きてなかったかもしれねえ」
油小路での戦いぶりならば、目を覚ました藤堂に聞いていた。赤い目をした、少女のことを。
「土方さんに詰め寄ったところで、どうにもならねえだろうに……」
「――左之さん、それ、逆だよ」
指一本分の隙間を残して半開きにされたままの襖を前に立ち止まる。原田はその隙間をさらに開かせてから、沖田を見た。言葉の続きを促されていると知りながらひとまず彼女を出されていた布団の上に寝かせ、夜着を被せて振り返らずに言った。ぱたりと閉めた音が、声をあやふやにさせる。
「撃たれていたから、名前も起きてたんだ」
夢を見ているのだろうか。眠っている彼女の瞼がかすかに動いている。夜着の下にしまいこんだ左手を探して握れば、仄かに熱を帯びていた。
――途端、なにか重たいものが両肩にかけられる。振り返ると、厚い夜着が、ずるりと滑り落ちた。それをもう一度肩にかけ直した原田は、あぐらをかいて、壁に背をもたれさせた。
「……左之さん、朝までここにいてもいいかな」
「ああ……そうさな、俺に付き合えよ」
「左之さんは明日、巡察当番でしょ」
「それならお前は朝餉の当番だっただろうが」
くっと笑った原田は、「寝不足くらいがちょうどいい」とごちて、障子から漏れる月明かりに視線を移す。
「……名前と、約束したから」
音を食った静寂の夜に、ひとりでいるにはあまりにも、夜は長い。吐く息の白さを知りながらひとりでいるには、寒すぎる。
丸めた背中を、彼は叱らなかった。握り締めた指先が、境界を掴む仕草をする。
明朝、やはり彼女が目覚めることはなかった。
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