未来はいつも
何度も砂を踏む音が響く。倒れた彼らに足をもつれさせながら、狭い小路で必死に生き抜いていた。三つ巴の戦況が変わったのは、二発の銃声が響いた少し後だった。
名前、と嫌な予感が過るような呼び声をあげた原田がいたあたりの群れが、ざっと後退してきたのだ。どよめく声が波のように鼓膜を打つので、自然と意識はそちらに向かい、そうして、赤を見た。
血の雨だった。人の首を斬るとそこにある太い血の管を斬るせいで鮮やかな赤が噴き出すのだと知っていたので、それはその凄惨なやり方のせいなのだとすぐに気づいた。血ならばそこらかしこに飛び散っているのだから今更何をと呆れ笑った顔で薩摩藩士が斬りかかってきた瞬間、赤の残像が視界を駆ける。血の赤ではない。それよりももっと鮮やかで、それでいて青みがかっている赤だ。ひとつの瞬きもなく後を追えば、すでにその藩士は地に伏していて、しかもその肩口はばっさりと綺麗に両断されていた。骨ごと砕き、厚い筋肉をも斬りつける力は並みの力ではできない。そもそも、こんな混戦の場でわざわざそうしてまで力を振り絞る奴もいるはずがない。いたとするならば、それは殺人を嗜好するような人間だ。いったい誰が、と視線を上げた刹那だった。
「しゃがめ平助!」
原田の声。考えるより先に、膝が抜けるように腰を打ち付けた。頭上を白刃が目にも止まらぬ速さで通り抜けた。さくりと、柿のような固そうな何かを包丁で突き立てた時の音がすぐ背後で聞こえた。振り返れば、男の額を刃が貫いていた。
「名前、……?」
目の前には、見慣れた着流しの足元。ゆっくりと見上げて、ようやく、認めざるを得なかった。あの顔は、名前だった。赤のように見えていた瞳は、下から見上げると青にも見え、久しく見た覚えのない愉しげな笑みを浮かべている。
人集りを越えるたびに飛び上がる彼女を鉛の弾丸が追いかける。空中であっても彼女はひらりと身をかわし、一人、二人と斬り捨てていった。
「……全く、でたらめな人だ」
血飛沫に目を細める天霧が、拳を握って正眼の構えをとりながら動き回る彼女を捉えていた。刀を振り回している彼女にはそれが見えていないのか、気にする素振りをは見せず、あのままでは、彼の拳を受けることになってしまう。藤堂は、蠢く人の合間を縫いながら彼の前に躍り出た。悲鳴が、あちらこちらで上がっている。
「何故、君が私の前に?」
「……彼奴は殺させない」
「馬鹿な。あれがもはや君と同じ人のように見えますか。君のお仲間が無残に死ぬだけだ。そこをどきなさい」
彼女が手をかけているのは藩士ばかりだ。羽織を着た人間は避けている。時折顔を歪ませるのが本当の名前ならば、はやく目を覚まさせてやらないと。これ以上死人を出しては、苦しむことなど目に見えている。
刀を構え、天霧を見据える。――結果など、本当は目に見えていたのだ。
それならば仕方がない、と焦点を藤堂に合わせた彼の動きは、彼女のものと似ている。躊躇いもなく、迷いもない。
目で追いきれない。残像だけが尾ひれのように繋がる。まず一発。みぞおちの僅かに下にくい込んだ拳が、中身を押し出す。ばちんと中にある何かが弾けたような、破れたような音がした。えずいて崩折れる藤堂に追撃の二発目。池田屋の時のように、右手が額に迫っていた。
銃声。誰かの怒号。近づいた地面。砂利を踏みしめた音。薄刃が空を裂く音。
「下がれェ!」
「!!」
藤堂と天霧の間に黒い塊が降ってくる。彼女の腕から血が舞った。天霧の腕からも、赤が吹き出ていた。どさりと、黒の塊が彼女の足元に転がる。
「ぐ、ぬぅ…!」
「往ね」
再びの銃声が、天霧に近づこうとしていた彼女を飛び上がらせた。その隙に、黒の塊――天霧の右腕を回収した彼は、切断面をぐちゃりと合わせて苦悶に顔を歪ませた。苛立たしげな二発の銃声が響き、一つは屍に、もう一つが彼女のどこかしらを撃ち抜く。
「春――貴女は、ここで生きていい者ではない」
小石の冷たさが頬に刺さる。ぼたりと藤堂の口角からどろどろとした液体がこぼれた。喉をせり上がってきたそれらは砂利を赤く染める。指の一本でさえ自分のものではないように、ただ痙攣を繰り返していて自由が利かない。そこらに倒れる藩士や衛士のように、彼もまた倒れていた。腹が熱い。内側から焼けるような痛みがじわりじわりと広がっている。
永倉が駆け寄る声がした。撤退だと叫んだ男の声を皮切りに、騒然と人が動く。原田が隊士に飛ばした指示は何だろう。名前だけが、目の前で時間をなくしていた。
――名前を呼べば、彼女に戻ってくれるだろうか。永倉が凄まじい形相で藤堂の肩を抱えるものだから笑ってやりたかったのだが、どうにもうまく顔が作れない。ああ、中身が痛い。
からんからんと、金属片が落ちる音がした。ほんのりと赤く色づく視界では何が何だかわかりづらいが、ようやくびくりと動いた彼女に息を吐く。振り返った彼女は、手から刀を取りこぼし、平助と、か細い声で泣いた。見慣れた気弱な名前だと思うと、その名を呼んでやりたかったけれど、声も出なかった。
沖田の言った言葉が名前のそういった部分を指していたのかはわからない。ただ脳裏で結びついてしまった残像を振り払うには、靄が邪魔をしている。
――大凡、人ではない何かだと思った。思えばそういうふうに感じる瞬間はいくつかあったが、あれほど明確な変化を見せつけられれば嫌でも理解するしかない。新選組を抜けている間に、彼女に何があったのかを、沖田や原田に聞けば教えてくれるのだろうか。それをはたして、自分は知りたいのか。
ぽつりぽつりと呟いてしまったあの日のことを、沖田は何も言わず、ただ聞いていた。冷えた風が吹き込んでくる。羅刹でも、寒さは感じるのだなと目を伏せた。
「……寒いんだね」
僕らでも。
昼間であったらその喧騒に飲まれてしまいそうな声で、彼は呟いた。
――独りではないのだと、そう思うと胸の空いたこの感覚が埋まっていく。山南はずっとたった独りで、この感覚を共有できる誰かもおらずにいたのだろうか。言葉をしかと交わせる相手がいないあの頃の"新撰組"で、たった独り――。
そうだなと返す言葉を飲み込んで、乱雑に腰を下ろして沖田の背中に寄りかかった。試衛館にいた頃には皆で稽古に励んだ後、よくこうして二人で話していたことがあったなとふと思い出す。斎藤と沖田とは年が近いこともあり、勝手に湧いていた親近感があったのだ。その頃から大してこの身長差が埋まらずに、むしろ広がる一方で、藤堂は相変わらず小さいままだった。だから、あの頃より年が経った今でも、こうして寄りかかれば彼の背のほうが大きい。悔しいなとごちた声に、笑い声があがった。
「……あの頃は、こんなことになるなんて、思いもしなかった」
「ちっとも成長してないよね、平助は」
「うるせえ! お前が予想以上にでかくなったんだっつの! 始めの頃なんかオレとそう変わらなかったくせに」
「あはははっ」
笑うたびにはねる肩が可笑しい。呼吸をするたびに肺が痛む。吐き出す空気のどこまでが変容してしまっているのかと、白く散った吐息を目で追いかけて、息を詰めた。
「……どうなっちまうんだろうな」
自分で言っておきながら、それが何に対しての不安なのかはわからなかった。ただ口をついて出てしまった言葉は沖田にしっかりと拾われ、そうして、苦笑とともに返ってきた言葉を噛み砕く。
「――どうにもならないよ。ただ、またここにいれるだけだからね」
彼はそういったきり押し黙り、しばらくしておもむろに立ち上がった。行かなければならないところがあるのだとうっすらと笑んだ顔は珍しくぎこちなく、思わず笑う。藤堂の反応におもしろくなさそうな表情を浮かべたまま、沖田はじゃあねと残してきびすを返した。残された静かな空間で、ああ今までの言葉は、彼奴も含まれていたのだろうなと気づく。気づいたところで、彼らと彼女との間にもはや明確な違いなどありはしないのだろうが。ふうと吐いた息は、どこまでも白く、軽かった。
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