未来はいつも
目が覚めた。息を吸い込むような感覚で、ふっと瞼が開いた。あたりは暗闇に沈んでいて、隣人の姿も判然としない。
あれから、どれだけ経ったのだろう。最後に見たのは、何だっただろう。記憶を咀嚼する。噛み込みながら、思い出す。
ああ、そうだ。藤堂に、会わないといけないのだった。
身を起こして隣人を踏み越えても、静かなままだった。
外廊下から見やる空は曇っている。月明かりのない屯所は闇そのものだというのに、どうしてだかよく見えていた。記憶を飲み込む。そうか、化物だったらよく見えるなと思った。
ずるずると足を引きづらせながら道場に向かった。足が痛むわけではないのだが、寒い所為かうまく動かない。
「……、?」
道場への道すがら、廊下の先に誰かが立っていた。稲穂に似た明るい髪色は夜の中でもよく映える。今まではそうだった。けれど、今日はやけにぼやぼやとしている。気づけないほどには、黒い背景に馴染んでいた。
呼ぶべき名前が宙に浮いた。彼は薄く笑って、大股でこちらに近寄ってくると、ばしんと頬を両手で強く挟んだ。
「しっかりしろ、名前」
「…あ、ひづき。いたい」
「――……名前、いきろ、最後まで、いきろ」
陽月はこつりと額を当てて、泣きながら笑っていた。彼の瞳は黒ずんでいて、涙の膜で光っている。彼の涙が俺の頬に落ちた。
生きろとは、どういう意味だろう。
もう一度、咀嚼する。彼はゆっくりと手を離した。
――藤堂を追いやったのは俺だ。春だ。置いていかれたくなかった。ここが好きだったから。けれどそんなもの、我儘だったのだ。春が現れてから、どんどん自分が上書きされていく感覚がする。そんな覚束ない足取りで、あんなふうに、していいわけがなかったのだ。
陽月は俺の肩を掴んで方向を変えると、藤堂組長は道場にまだいるよと背を押した。
彼の涙の理由は分からなかった。
頬に落ちた水分を袖元で拭いながら歩いていれば、薄く開かれた道場の戸から光が伸びていた。ゆらゆらと頼りない、蝋燭の明かりのようだった。
「……久しぶりだな、名前」
戸を開ければ、すぐ脇に藤堂が座り込んでいた。よおなんていう気軽さで、そこにいた。
あんまりにも”普通に”そこにいるものだから、へたりと腰が抜けて座り込んだ。
「オレより、顔色悪いんじゃねえの?」
彼はゆっくりと戸を閉めて、再び前を向いた。まるでこれから黙想するかのような静けさで、藤堂は蝋燭の揺れる炎を見つめていた。
もう彼は存在しない何かなのかと勘違いしそうになって、藤堂の胸元に手を置く。彼はびくりと大きく肩を揺らせて、それでも、ただ静かに俺を見ていた。
「……なんか、言えよ」
この寒々しく広い道場で、たった二人ぼっちではやけに声が響いていた。
「……ごめ、ん」
謝っていいのか、分からなかった。それでも、何を言えばいいのか分からないまま藤堂のもとに来て、これでは、まるで、彼の意思を何もかもなかったことにしてただ赦しを乞いに来ただけだ。いや、そうなのかもしれない。分からない。
「――なんで、久しぶりに会って、最初にそれなのか? ……変わんねえな」
「へ、いすけ……平助、ごめん、俺、俺が、」
「ほんとは、覚えてるんだろ? 全部、あの日の事」
藤堂は胸元を掴む手を握って、真直ぐに俺を見た。酷く冷たい手だった。
――春の意識の中で、微かに景色を見ていた。腹に埋め込まれた弾丸が何度も何度も痛むから、俺はその痛みだけを手繰り寄せながら見ていた。痛いという感覚は悉く名前のものだった。新選組にだけは手を出してほしくないと思ったのは、帰る場所を少しでも失いたくない一心だったのかもしれない。それももう、こんなふうにしてしまったのだけれど。
藤堂から目線を床に落とせば、逃げるなよと力なく叱られた。
「……名前のせいじゃない。どこも全然、お前の所為なんかじゃないんだ」
「――っ」
「お前がいてくれたから、辛うじて屯所まで帰ってこれた。じゃなかったら鬼のもう一発食らってあの場で死んでた」
微かに笑ったのは自嘲に近く、俺は何も言い継ぐことができなかった。
彼は何度も、名前の所為じゃないんだと、俺の胸に鉛を乗せていくように言葉を重ねた。
沖田も、そう言っていた。
変若水を飲むという、沖田も藤堂も自らその選択をとったのだと。そこには誰の思惑も思慮もなく、誰にも踏み込むことのできない覚悟なのだと。
「――なあ、新八っつぁん、左之さん」
唐突に、藤堂の声が外に向けられた。
触れてもいないのに開かれた戸の奥には体格の良い影が二つあり、彼らは躊躇いながら道場に足を踏み入る。
藤堂と重ねる手は冷たい床の上に置かれ、彼はまるで逃げたがる俺をこの場に留めるように力を込めた。顔を上げることなどできなかった。
この三人の間にあるものを知っている。壊してしまったのは――俺の所為ではないと彼はそういうけれど、原因の一端にはある――俺にも非があるのだ。何度も、言葉を交わそうとした。顔を上げようとした。そのたびに、どんな表情をされるか怖くて、それはきっと喉を絞めるような拒絶だと思うと、逃げることしかできなかったのだ。
バレてたかとごちた原田の言葉がようやく沈黙の中落ちた。彼らは藤堂の正面に腰を下ろすと、どれだけ流れたかわからない静寂を食って声を上げた。
「……俺は、お前の得体の知れなさが怖ェよ」
「新八」
「だけどよ、んなのずっと知ってたことだった。池田屋んときも、他の時だって……」
永倉の声が夜に溶けていく。珍しく言葉を選びながら重ねていく彼の表情は分からない。藤堂の掴む手は強い。誰彼の視線が、俺の旋毛を映している。
「今更、気味が悪ィから出て行けとでも言われると思ったか?」
がしりと永倉の大きく骨張った手が頭を掴んだ。ぐしゃぐしゃと掻き撫でるようにしながら、くいと上を向かせた。
「俺らにとっちゃ、平助みてェなもんだよ、名前」
「なが、くらさん」
「――そうだな」
永倉の手が離れて、毛先の乱れた髪を整えるように、原田は優しく頭を撫でていった。
――ここを出て行けばよかったと思った。どうしてもっと早くそう決意しなかったのだろうと考えた。変若水が露見しないようにと始まった生活だったが、春が現れてから変容していったのは土方も知っていたのだ。彼に早々に言うべきだったのだ。
それなのに、できなかった。
目の縁からぽろぽろと零れていく。
春はここにいる。心臓の奥にいる。けれど確かに、この新選組にも、名前はいたのだ。名前がいてくれることを赦された居場所がここだった。彼らは何度も名前と呼ぶし、おかえりと笑う。
沖田は同じ化け物だと言ってくれたけれど。
同じように、彼らと同じ人でも在りたかったのだ。
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