来はいつも

声音は秘色色の涙だった 2 / 3


翌日、大阪城にいた幕軍を連れて、江戸へと出航した。大凡十日程の航海の最中、悪天候に見舞われることもなく、無事目的の港へと辿り着くことができた。
本隊は釜屋に身を寄せることとなり、近藤、名前、陽月、そして山崎が千駄ヶ谷にある松本の隠れ家に移ることとなった。
釜屋に移り始めてからというもの、土方は幕府のお偉方と今後の動向について模索するべく話し合いを重ねており、専ら屯所にはいなかった。奉行所の敗戦かついていくべき総大将が逃げ果せたことにか、この状況すべてにだろうか、それらを引きずっている永倉は、原田を引き連れて吉原へとよく出かけるようになっていた。
――船で移動している間、頭の中で考えていた。
沖田は、どう思っているのだろう。大阪城へと逃げる森の中で、彼は膝をついたのだ。初めて見た。沖田は敵を前にしていようと大胆不敵で飄々としていて、余裕綽々とした笑みを崩さずに戦っているような人であったから、そんな彼が、刀を抜いているのにもかかわらずあんな態度を取ったことに驚きを隠せなかった。
何を名前と約束したのだろう。彼と彼女の間にあるものを、千鶴は知り得ない。それでも、このまま沖田が本隊と迎合すれば、江戸を離れていけば、戦えない名前ともう二度と――。
意を決して、夜の甲板に佇む沖田の元へ行けば、彼は眉尻を下げて笑った。


「……僕は、新選組の剣になりたかったんだ」


海から見上げる空は大きくて、夜の水平線は空と溶け合ってしまって境が見つけられない。
そんな景色を見ながら彼が考えていることなんて、千鶴には少しだって分からなかった。


「羅刹になって、名前と同じ化物になって、それでも、まだ僕にできることは、人を斬ることしかないから」


――本当に、それしかないのだろうか。新選組の隊士はみな刀を提げて戦っている。今まで彼らがしてきたことが何だったかくらい、千鶴にだってわかっているつもりだ。それと同時にどれだけ、彼らが新選組のために血を流してきたかも計り知れない。
沖田の声は海上を荒ぶ風に負けてしまいそうで、それでも、千鶴には言い表せる言葉を持ち得ていなかった。





――名前を呼ばれる声が断続的に聞こえる。ああこの声はきっと、千鶴だ。心配そうに何度も呼ぶ声に、大丈夫だよと笑いたかったのに、目を開けることも叶わなかった。ただひたすら腹も足もどこもかしこも痛くて、けれど痛いことに安心して、ああまだ俺は俺だと確認すると、また声も聞こえない奥底に落ちていった。
名前。
柔らかな声だ。船に乗っていた薄ぼんやりとした記憶から、どこかの家に運ばれてどれほどかが経った頃。
依然として痛む腹に、漸く意識が持ち上がった。
目蓋が動く。手足も動く。呼吸する肺に、脈打つ心臓の感覚に、ようやっと目を覚ました。


「……」


火鉢がぱちぱちと音を立てている。障子の向こうで誰かの声がいくつか聞こえて、また深く目を閉じる。障子が開かれた音。誰かの足音が火鉢の横にまで来て、ぽつりと声を落とした。それがどんな言葉の綴りかは分からなかったけれど、俺はもう一度、重だるい瞼を押し上げる。爆ぜる火の粉の奥に、誰かがいた。暗闇に、翡翠が光った。


「……そう、じ、?」


あまりにも久しぶりに吐き出た言葉は覚束なく、舌を転がった音が正しいかどうか自信がない。彼は身動ぎすると、ゆっくりと、火鉢の奥から腰を上げて移動した。顔の近くでもう一度座った彼は、やはり沖田総司で間違いはなかった。


「……なんで、ここに?」


彼は一向に口を動かなかった。ただ、冷たい指で頬を抓んで、まるで引き剥がさんばかりの力で引っ張った。突然の痛みに声も上がらず、それでも痛烈な感覚に思わずその腕を掴んだ。痩せた筋肉は、以前のように戻っているとは言い難い。沖田は掴んでいた腕を離して、それから手を握った。


「……もう、戦わなくていい」


握りあった手が畳に落ちる。彼の体温はどこまでも冷たくて、硬い掌が大きい。
彼の表情を見上げても、それがどんな心境を物語っているのか分からなくて、思わず伸ばした左手で頬を撫でた。


「どう、して? なんで、そんなこと言うの」
「もう名前の身体じゃ傷を負ったら治らないんだよ。そんな身体で前線に出たって、君は死ぬだけだ」


――これは、悲しいと泣けばよかったのだろか。何度も繰り返してきた身体がようやく終わると笑えばよかったのだろうか。
こんなにも意識が醒めるまでの間に治り切らない傷を知って、痛む銃創を感じて、気付かないわけがない。自分の身体だ。今までどれほどまでに気味が悪いほどの治り様を見てきてこれだ。叩きつけられた事実が、それでもどうしても遠すぎて、まるで俯瞰している景色のようだったのだ。
言葉にもなれなかった声が喉の奥で停滞していて、頬を撫でる指が腹の上に落ちた。


「……ここにいた意味は、ちゃんとあったかなあ」


生きていれば死ぬこともある。剣を握ってそうして誰かの肉体を屠ってきた俺が、今更もう死にたくないなんて言えない気がした。ああでも、どうだろう。折角同じ化物になれたというのに、彼は一人ぼっちで化け物にならなくてはいけないのだ。
唇を引いたまま言葉を紡がない彼に、思わず笑った。


「でも、同じ化物になれたのに、一人ぼっちになっちゃうか」
「――名前」


沖田は繋いだ指先を解けないように力を込める。


「……僕は、名前が好きなんだと思う」


見下ろしてくる沖田の瞳は、今は遠い新緑を思い起こした。


「だから、生きて」


指先が離れていく。彼は、俺の言葉なんてものは聞かずに、そのまま立ち上がって出て行ってしまった。
置いていかれた指先の熱だけが、一月の寒さに攫われてしまいそうだった。
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