来はいつも

声音は秘色色の涙だった 3 / 3


あれから三週間が経った。
近藤は疾うに本隊に合流しているようで、千駄ヶ谷のこの屋敷には山崎と名前、陽月しかいない。火鉢のぐずる火種を練炭ばさみでつつきながら、燃えるそれを眺めていた。
傷口はもうだいぶ良くなっていた。魘される痛みもなく時折疼く感覚はあるが、身を起こしてもご飯を食べても、問題はないようだった。


「――名前君、起きているか」
「烝君、起きてますよ」


障子を静かに開けた彼は、箱膳に薬湯を持っていた。火鉢の中身を横目見て、あとで炭を足そうかと笑う彼に頷く。
箱膳にはここでの最初の食事に比べてすっかり粒立ちのよくなった米に、浅漬けに高野豆腐が並んでいて、思わず斎藤の顔を思い出して笑ってしまった。


「――今日は調子も良さそうだな」
「はい。……有難うございます、烝君も、本隊に?」
「土方副長からも仰せつかっているからな。それに、腰の重い幕軍に新選組もまだ方向性を決めかねている。定まるまではここにいよう」


近況を掻い摘んで話をする彼は、冷めないうちにと食事を促す。すると、廊下の方から静かな足音がやってきて、何の前触れもなく突然障子が開かれた。そこには箱膳を手にした陽月がいて、しかも膳は両手に抱えている。つまりは足で開けたということで、相変わらず彼も元気になったようだった。


「陽月さん、言ってくだされば障子くらい開けたものを…というか、手に持っているそれは?」
「いや、どうせなら隠れ家チームでご飯でも食べようかと」
「寂しいだけでしょどうせ」
「まあ、そうともいう」


にししと笑った彼は膳を目の前に並べると、手を合わせてご飯をかき込んだ。山崎も初めは戸惑っていたが、今に始まったことではない彼の奔放さに呆れたように笑って食べ始めた。


「そういや一昨日か、沖田さんが来たが名前、会ったのか?」


浅漬けを頬張りながら首を傾げる陽月に、首を横に振った。
――沖田は、目の覚めた初日のあの日以来、ここには来ていない。好きなんだと思う、なんていう曖昧な言葉を残しておきながら、何の言葉ももう残していってはくれないのだ。生きてといった彼の言葉は、恐らくは戦いとは無縁の場所で、この身体の崩れるその時を少しでも永らえさせてくれとそういうことだったのだろう。今なら、死に際に呪った春の気持ちが少しわかるような気がした。――最後まで、同じ化物でありたかった。それでは、いけないのだろうか。
銃創のあった腹を撫でる。随分と遅くなった治りに、陽月はなにもいわなかった。


「…松本先生の完治を貰ったら、釜屋の本隊と、合流したい」


米の残る茶碗を膳に戻して、二人を見上げる。山崎も同じように箸をおいて、鋭い口調で言い放った。


「貴女の傷が治れば、俺は本隊に戻ります。だが、貴女方は前線には出さないとの命です」
「……俺は、名前に任せるよ」


高野豆腐を口に運びながら、彼はそういった。山崎が眉間に皺を寄せて何を言っているんです、ときつく詰めかかっていることから、この身体の状況は既に知られていて、彼らの総意であったということのようだった。
これからの戦いに俺もいるのだと、土方だって言っていたというのに。急な手のひら返しじゃないか。なんて酷い人なんだろう。なんて、優しすぎる人なんだろう。


「――名前君、君の身体はもう戦いに耐えられる身体じゃない。陽月さんだってそう言っていたでしょう!?」
「でもそれって、総司だって同じはずです」


最後の夜の記憶を辿る。彼の細い腕は、白い顔は、あの指先は、今も病魔に肺腑を巣食われているままじゃないのか。変若水がなんなのかわかっていない以上、本当に彼の病気が治ったなんて、一体誰が知り得るというのだ。
山崎を無言で見つめ続けていれば、彼は目を瞑って息を吐いた。


「……自分で、副長たちと話をつけてくると良い」
「有難うございます、烝君」
「…君は、そういえば頑固な人だったな」


明日、松本が往診に来るというので、彼の診断次第で行動することになった。

その夜、山崎が足してくれた炭を馴染ませるように転がしていれば音もなく陽月が入ってきた。毎回このように静かに入って来て、挙句開けてから入るぞというものだから、もう気にしないことにした。
彼は湯気の立つ茶を畳に置くと、火鉢のすぐ脇に座り込んで暖を取り始める。ちらりと彼を横目見れば、暢気に茶をすすりながら和んでいた。彼の髪色は、市井を歩けば浮くような色だったというのに、今はもう見る影もないほどに黒ずんでいた。


「……俺はさ、名前」


胡坐を掻いて身体を少し後ろにそらした陽月は、天井を仰ぎながら言葉を探していた。


「名前だなんて、名前を付けちまって後悔してたよ」


名前の目には持ちえない春という人の時間全てを見てきた陽月の言葉は自嘲気味で、過去を追憶しながら音を手繰っているのか間を置きながら話し始めた。


「春じゃないのかと思ったら中身のどっかに春はいるし、大きくなったと思ったら小さくなるし。時間が経てば経つほど、中身がどっか壊れてきて、昔の春の面影もないほどただ狂ってしまった」
「…血を浴びるのが好きな人、だと思ってた」
「好きとか嫌いとかそういうもんじゃないさ。ただ、他の人よりはそういう機会が多かっただけで。人と違う力を持っている者は大抵、呪われやすいだろう。何度も何度も再生を繰り返している内に擦り切れてった春の人格が、壊れていった過程だったんだろうなあ」


火の爆ぜる音ばかりが響く。
ーーこんなに静かで寒い夜は、雪の降る夜を思い出す。白い雪が降っているというのに、原田も永倉も相変わらず胸元を惜しげもなく見せびらかしていて、寒がりの沖田に心意気がなんだと説いていた。あと、小さい頃には光とよく雪だるまを作っていた。長く生きていた分なのかなんなのか、彼の作る雪だるまは上手かった。
陽月にもきっと、そんな雪の日の思い出なんて忘れてしまいたいほどあるのかもしれない。なんたって二百年近く、見守っているのだから。


「…名前なんてつけなけりゃ、今だってこんなふうになってなかった」
「……どっちの意味だろ、それ」
「――さあな。でも、そうだな。お前が名前じゃなかったら、沖田さんはただの間男か」


くつくつと笑った彼は、振り仰いでいた天井から視線を俺に移した。


「間男って……俺と春は、やっぱり全然違う?」
「そりゃ、商家のお嬢様だったからなあ。いつだったかそんなガサツな話し方になってたけど、今思えば、春に対する名前たちの反抗期だったのかもな」


それとも、俺の真似だったのかも。
彼は自分の一言にはてさて悩み込んでしまったが、それももう分からないかと大笑いして茶を飲み干した。


「……もう、お前が戦う必要なんてないだろうに。雪村さんは土方副長の後を追っていくだろう。けど、そこまでお前はついてはいけないよ。俺ももう無理だ。致命傷が治るたって、限りはあるんだよ。生きている限りはさ」
「……生きている間にさ、できることしようよ。まだ俺、皆にさよならもありがとうも言えてない」


黙り込んだ陽月は、もう空になっている湯呑の底を見つめながら、細い息を吐いた。


「…前も言ったけどさ。人並みの幸せくらい、願ったっていいと思うんだよ」


人の言葉は呪いだという。思い込みで人を殺せるし死ぬのなら、その逆があったってよかったのだ。
生きろ。藤堂に会いに行く前に、初めて見せた彼の涙にぬれた言葉を思い出していた。


声音は秘色色の涙だった

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