未来はいつも
「傷、治ったみたいで良かった」
千鶴は涙に濡れる双眸を拭いながらそう言った。お陰様で、と思わず腹を撫でた手を、千鶴が掴む。
まるで祈るように、俺の手を両手で持ち上げて握りこんだ。
「――名前君」
雪村千鶴は、強い。彼らの傍に立って、掛けるべき声を、添えるべき手を、知っている。刀を持つ強さなどなくても、彼女は十分、強い人だった。
「たくさん、私を守ってくれて、ありがとう」
新選組についていく彼女は、俺よりも多くの見知った顔の死を追いかけていくことになるのだろう。そのうちの一つが、俺でもある。この戦況も芳しくない状況で、誰かと別れることはもうああして膝を突き合わせて食べることも話すこともなくなるということだ。それでも、彼女は笑う。瞳の縁を揺らがせながらも、笑うことを選ぶ。だから、とても強い人だ。
「陽月さんも、どうかお元気で」
「…雪村さんも」
手が離れていく。振り返ればすぐそこにいた温かな手。頬を叩いた鋭い手。
あの冬の日よりも大人びた瞳が、俺を見つめる。
ありがとう、と漸く吐き出した音に、千鶴はまた笑った。
土方の部屋に入れば、当人の彼と斎藤が話し込んでいた。幽霊でも見るような目でこちらを見上げてきたので、幽霊みたいな顔してますねと笑う。相変わらず二人とも、不健康そうな顔をしていた。
「――俺、陽月と旅に出ます」
「そうか、行先は…聞くのは野暮だな」
「……北に。それ以外は、二人で話しながら、喧嘩しながら、決めていこうと思います」
そうか、と再び零した言葉は宙に浮いた。目の前に座る土方は、僅かに開け放たれた障子の向こう側を見ていた。
「…井上さんの姿が、見えないのは…」
玄関から歩いてくるまでに、幾人かの隊士とすれ違った。見知った顔も知らない顔も、過ぎ去っていった。その中にどうしたっていつもにこやかな笑みを浮かべていた井上だけがどこにもいなくて、もしかしたらそういうことなのだろうとも思ったが聞かないわけにはいかなかった。
目を伏せた土方が、奉行所でな、と言葉を落とす。こうやって、どんどん世界から消えていってしまうのだろうか。いつか、目の前にいる二人ですら、探しても見つけられなくなってしまうというのだろうか。
思わず膝の上で握っていた拳に力が入る。涙をこらえる俺の声ばかりが響いていて、視界いっぱいの畳の目が歪んでいく。
「……土方さん、斎藤さん、今まで、」
喉が、ひきつく。言葉が吐き出せない。
「――名前、背筋を伸ばせ」
斎藤の声はいつもと変わらず凛としていて、ぱたぱたと目尻から落ちたそれらを袖口で乱暴にぬぐい取った。ぐいと顔を持ち上げて、精一杯笑う。
「今まで、有難うございました」
「お互いに振り回されましたね」
「お前が言ってくれるなよ」
陽月のあっけらかんとした物言いに、二人は少しばかり苦く笑った。目を伏せた笑みにまた涙がこぼれそうになる。
素早く立ち上がって、陽月の肩を叩く。
「最後に平助たちに挨拶だけして、帰ります」
「ああ。あと半刻もないうちに目を覚ますだろ」
そうしたら、本当にこの場所とは最後だ。
障子をあけて、夜が落ち始める空を見上げる。名前、と後ろで名前を呼ばれた。
「…総司の事、よろしく頼む」
立ち上がった土方が俺の肩を叩く。
――北へ向かう旅をするといった。沖田の病状がどんなものかを彼が知らないはずはなく、それでも今現在千駄ヶ谷に身を寄せている沖田がそこに留まる続けることを選ぶはずがないという自信。沖田総司は、諾々と死を甘んずるはずがないだろうと、土方の苦い顔が物語っているような気さえした。
「土方さんはほんと、なんでもお見通しですね」
もう休んでいいよと近藤に言われた沖田は、まるで彷徨い子のようだった。どうしていいか分からないと呟いた一言の中に、新選組の剣でありたかった沖田総司は潰えていない。だからこそ、彷徨うのだ。どうすれば剣であり続けられるか。布団の上で、心臓の弱まる鼓動に耳を傾けるような潔い男ではない。そうするためには、俺と陽月の旅路についていく道を選ばなければならない。
「彼奴は、負けることが大っ嫌ェだからな。それが何であろうとよ」
くっと喉を振るわせて笑った土方に、斎藤が頷いてみせた。試衛館の頃からずっとだ、と付け足された言葉の縁に、哀愁が漂う。
「総司は、簡単に負けるような性格じゃありませんから」
勿論俺たちも。
こんなこと、わざわざ俺が言わなくても彼は知っていただろうけれど。そうだなとこぼした土方の顔を、恐らく人は兄の顔だというのだろうなとなんとなく思った。
「それじゃあ…どうか、お元気で」
「達者でな、二人とも」
終ぞ会えなかった近藤にもよろしくとだけ言い残して、背中を向ける。角を曲がりきるまで、背中は絶対に丸めなかった。
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