未来はいつも
あれから、沖田の羅刹の発作は目に見えて増えていった。
「顔色最悪だな…まあ、血を飲まないからなァ」
太陽が昇った頃に眠りについて、薄暗くなる前に目が覚めた。陽月も似たような時分で目を覚ましていたのか最早一睡もしていないのかは定かではないが、俺の隣で眠っている沖田の蒼白な顔を見遣りながら唐突にそう言った。
初めて沖田の羅刹としての発作を見た日から一週間が経っていた。それ以前は見たこともなかった――沖田自身が隠せるほどだった――というのに、あの日から一日おきに未明にもなると発作が起こるようになった。疲労も相俟って発作が出やすくなっているのだろうなと冷静に事を俯瞰していた陽月は、膝に手を添えて立ち上がると僅かに刀身を抜いた。
「名前、見ろ」
刃に親指を滑らせた彼は、赤い血を滴らせるとそれを俺の前に突き出した。
「――塞がらない」
「そうだ。俺でさえ、これだ。沖田さんの判断は正しい」
沖田が同じ化物であり、同じ人であり、普通であるためには、俺がいなければいけない。沖田は、俺の皮膚を傷つけて発作を抑え込むことを選ばなかった。今までであれば支障もない傷のどれが一体死に至るかが分からないと首を振ってただ黙って耐えることを選んだのだ。――共に生きる為に。
それが発作を早めている。羅刹の発作がどれほどに彼の体力を奪い去っていくのかなど想像に難くなかった。
ぱたりと地面に赤が滴る。身じろぎをした沖田は目蓋をピクリと震わせると、うっすらと目を開けた。その瞳は僅かに赤みがかっていて、陽月は親指の血を舐めとると握り込んだ。
「まだ起きる時分にゃ早いですよ」
「…ん、みたいだね」
彼は徐に寄りかかっていた木を支えにして立ち上がると、顔を洗ってくると下流の川に降っていった。その足取りは確かであったので、別段追いかけることはしなかった。――恐らく、彼は陽月の血に気づいているのだと思う。まるで逃げるような背中だったと、そんなたった一言では言い表せない。
陽月はその背中を目で見送りながら、口を開く。
「……俺の方が先に死ぬのかと、前に言ったな」
日中は暖かくなり始めていた陽射しが木々の隙間で沈む。黄昏時というにふさわしい気配は、陽月の陰る顔を不明瞭にさせていった。
山梨での戦から帰ってきた沖田がこぼした独りにさせたくはなかったという言葉から、陽月はどう足掻いても先に死ぬのだという含みようを感じたのだ。彼は、明確な答えをその時に出していない。
陽月は何度か息を細く吸い込んで、傷の塞がらない親指を腹のあたりで広げていた。
「春は、彼奴の想念と混ざり合った俺の力の残滓だ。だから――」
がさり。
遠くから、草木を掻き分ける音が立つ。それは隠れようともしない音で、枝葉を踏みながら徐々に近づいてきていた。
俺は素早く立ち上がり、刀に手を回す。陽月も同じように刀の柄に手を置いて、それからはっとした顔を浮かべると俺を見て力なく笑った。
「――沖田さんのとこ、行っててくれ。援護は要らない」
「何、言って――?」
「春を終わらせるのは、俺だけでいい――なあ、鬼さんよ」
深い緑の合間で揺れる、暮れ泥む色に紛れない稲穂の髪。どきりと心臓が跳ねて、同時にこめかみがずくずくと痛みを訴えた。
――紅葉。春の、消え入りそうな声が聞こえたような気がした。
背ほどに伸びる葦を分けて現れたのは、あの風間と天霧だった。
「――ひどい臭いを辿ってみれば矢張りお前だったか」
「鬼の鼻は犬のようらしいな。それは面白い」
「貴様が鬼とは程遠くあまりに気色が悪いからだ」
低く唸るような声を滲ませた風間は侮蔑の目を陽月に向け、次いで俺を見た。鼻頭に皺を寄せてこちらを睨む彼は一歩踏み出すと、躊躇なく刀を抜いた。
「不知火たちから聞いてはいたが…お前も、なんだ、"それ"は」
天霧も俺を捉えると拳を構えたが、風間が挙動を制すように左手を振った。どうやらまた静観を続けるようで、腕をがっしりと胸の前で組んだまま、しかし風間と似た面持ちで陽月と俺を見ていた。
油小路の変と呼ばれているあの日に起きた出来事は、あまりはっきりとは覚えていない。ただ、天霧に不知火と対峙をしたことだけはうっすらと記憶の縁に残っている。平生と言おうか、大抵は穏やかであることが多い天霧がこの表情を浮かべるほどに、あの日にも嫌悪に似た眼差しと拳を向けられていた気はする。
「以前にも増して不愉快な気配だな」
「仕方ない、俺たちは人ならざるものだからな」
「…まさか、俺を入れてはいまいな」
「はは! カテゴリは人外だって、それだけで昔から十分だろうに!」
鬼も俺たちも変わりはないだろうと、陽月は腹を抱えて笑い始めた。
「歳も取らずに気配だけ混ざり合う異様な貴様らと、我ら高潔な鬼が同じになるわけがない」
一歩ずつ、風間は近づいてくる。
心臓の奥がぞわりと総毛立つような感覚がした。今まで彼に対峙してきたことなど幾たびもあるというのに、柄を握るだけで一向に刀を抜くことさえ出来ないでいる。
陽月は止まらない風間を牽制するかのようにぬらりと刀を抜き放つと、俺に一瞥をくれた。それに風間はいっそう眉を顰める。
「邪魔立てするな。其処の女を屠れば、死臭に腐れたお前などどうでもいい」
「いや、それは順序がおかしい。こいつは春じゃないからな」
「ハッ! それこそどうでもいい。あの日に受けた侮辱、元はこの女であることに変わりはない」
歩みを止めない風間は刀を振り上げた。彼と俺との間に立っていた陽月がそれを刀身で受けると、後方から忙しのない足音が駆けつけてきた。
「名前!?」
「っ総司!」
「チッ…紛い物も一緒か、揃いも揃って腹立たしい」
「――千鶴ちゃんの次は名前? 何がしたいのさ君は」
ぐっと掴まれた左腕を引かれると、沖田が俺の前に躍り出た。
ギチギチと鍔迫り合いを続ける風間は、右腕を一瞬引かせると再び勢いよく振り上げた。彼の剣筋は沖田ほどに綺麗というわけではないけれど、純粋な腕力で人間は敵わない。陽月は身軽にも後ろに飛び退いて、沖田の前に刀を平にして突き出した。
「春を化物にしたのは村の人間だったが、こんなに複雑にしたのは紛れもない俺の力が原因だろう。風間に剣を振り上げたのも、元はと言えば春の癇癪で、それは俺に由来する。要は、俺と風間だけの問題ってわけだ」
「……それは、僕に退けって言ってるわけ?」
「それ以外に何もない」
「ふざけるな! 貴様は勝手に死んでいろ。俺は俺の手で女を殺さねば気が済まん」
風間の踏み込んだ一撃を陽月がいなし、左に振り払った刀身を引き寄せて斬りあげる。キィン、と甲高い音を立てて風間はそれを防ぐと、左足で陽月の腹を蹴り上げた。瞬時に半身を翻した彼は僅かによろめき、すかさずに風間が追随する。剣が噛み合うたびに、鈍い音が響いていた。
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