未来はいつも
何が起きたのか、分からなかった。
一陣の強い風が吹き抜けて、全員が思わず目を瞑った。風除けにしていた腕を退けて瞼を押し上げた時、風間は地面に倒れ伏していて、色鮮やかな紅葉の欠片もどこにも存在していない。
一番近くで事を見ていたはずの沖田でさえ、目を見開いたまま、言葉もなく固まっていた。
「…まだ、戦う理由があるか、鬼」
二つの足で立っていた彼は、肩から腹から、流れる液体を気にも留めずに天霧を振り仰いだ。――稲穂に似ていた髪も、菜の花のような瞳も、見る影もないほどに黒ずんでいる。このまま闇に溶けてしまいそうなほど色彩のない髪や瞳が、彼の言葉の全てを言い表しているようだった。
天霧は一瞬ばかり呆けた後、我に帰ると頭をゆっくりと横に振った。
「…いや……ないのだろうな」
「この鬼も生きている。記憶を少し、もらったけどな」
陽月は笑っていた。その口角から黒黒とした液体を吐きこぼしながら、年寄りじみた掛け声をあげると枯れて萎れた木に背を預けてずるずると腰を下ろした。
沖田は顔面に皺を寄せながら、息を吐いて地面に胡座を掻く。相変わらず白い髪を掻き上げて、陽月から目を逸らしていた。名前、と沖田が招くように声を上げることで、俺は壊れた絡繰り人形のようにぎこちなく足を動かす。鉛のような足が地面を踏む。陽月の下に近づくたびに、ひどい血の匂いが立ち込めているような気がした。
「ひ、づき」
「いや、ほんと此奴容赦がない。見たか、最後? 捻りながら抜きやがった」
おかげで出血多量だ。
あっけらかんとした口調で話しておいて、陽月はその四肢を少しだって動かそうとはしなかった。
血溜まりというには黒すぎる液体が、彼の足元に溜まっていく。どさりと膝をついて、陽月の傷口に伸ばした腕を彼が止めた。冷たい手だった。沖田と同じ、冷たい手だ。
冬を終えたばかりの夜の所為だと、そう思えたら良かった。
血溜まりに落ちた膝でさえ、その温さを感じなかった。
「…ひ、づき」
なんだ、と彼は薄く微笑みながら、重たげな眼差しで俺を見ている。
――あの頃よりも大きくなった身体で、顔つきで、黒ずんだ髪と瞳で。相似ている所など多くはないというのに、それでも記憶の底で泥が巻きたつ。
無味なコンクリートの上に広がるそれも、今にして思えば赤くはなかったのかもしれない。
「…あきら」
殆ど無意識に近かった。目尻からこぼれ落ちたのも、腿を濡らしてようやく気がついた。
こぼれた名前に、彼はああと目を伏せながら、くたりとした笑みを浮かべて頷いた。
「……お前は最期に、そう呼ぶのか」
名前。五番目だった名前。春を否定するばかりだった名前。春に成り損なった名前。
「……そうか、出鱈目な貴女の違和感は全て、春と呼ぶ内に潜むものかと思っていましたが、彼の気配が薄らいだ今、それも違うようだ」
天霧は倒れ伏した風間に近づいてしゃがみ込むと、彼の右腕を引き上げて肩に担ぎ上げた。
「もう、どうでもいいことなのかもしれませんが」
先程まで顔面に浮かべていた嫌悪が憐憫のようなそれに変わっていく。天霧はふいと目を逸らして、俺とは反対の方向に足を踏み出した。
「……俺を、見逃してくれるんですか」
「…鬼は死に遠く、そして近い。それは人ならざる貴女も同じなようだ。我々が手を下さずとも直に崩れる貴女の身体を、わざわざ殺める必要もないでしょう」
天霧は前に向き直り踏み出した足を少しばかり迷わせた。そして、再び最期に振り返ると何もなかったかのように歩みを始めた。
「――…貴方方の業も深い。行き先は、我々も大して変わらないのでしょうね」
音が遠ざかっていく。
静かな夜に、生きている音が沈んでいくばかりだった。
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